開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
まだ3月の中旬だというのに、どうしてこんなに暖かいのだろう。
各地で開かれる桜まつりが前倒しで行われるとニュースで取り上げられるぐらい、全国的に暖かい日が続いている。
もしかして、何かの前触れ? でも、これ以上何が起こるっていうのだろう。
杏那はため息をつきながらシャワーの栓を捻って湯を止めると、濡れた躯をタオルで拭い始めた。
首の後ろで結ぶタイプのカップ付きキャミソールを身に付け、ホットパンツと肩まで大きく開いたトレーナーを着ると、髪は無造作に捻って櫛で片方へ垂らす。
それから二階の自室へ戻った。
自分の大好きな香り、置物に包まれてホッとしてもいいはずなのに、またやるせないため息を零してしまう。
「はあ……、やっぱり嘘つかなければ良かったかな」
エンリケとふたりきりで楽しい時間を過ごしていたのに、咄嗟に出た嘘のせいか、紳士的だか無口になってしまったエンリケ。
彼はそれ以降杏那に話しかけようとはせず、アシスタントのミスター・サンチェスが運転する車に乗って、イレーネのもとへ行ってしまった。
エンリケを見送ったあと、杏那は一度会社へ戻ったがすぐに自宅へ戻り、そして今に至っていた。
年の離れた妹と話している時はそれほどエンリケのことは思い出さなかったが、こうしてひとりになると頭に浮かぶのは、数時間前の出来事。
雑誌に載るほど有名なカフェレストランへ誘っておきながら、コーヒーを一口飲んだだけでイレーネのところへ行かなければならない なんて……
ベッドに座った杏那は、エンリケに見立てた枕を拳で叩いた。
「エンリケって、何を考えているの? もう、全然わからない」
これほどイライラさせられているのに、どうしてもエンリケのことを考えてしまう。そして、そうなってしまう自分に腹が立つ。
「ああ、もう!」
杏那は気持ちをまぎらわせようとして、ベッドから急いで立ち上がった。
明日の仕事の準備を始めたら、気分は仕事モードに入るだろう。
この一週間はエンリケのビジネスが忙しく、分単位刻みで動き回った。でも明日からは、彼らの観光に付き添い、日本を案内することになっている。
でも、それは……イレーネも一緒だから、ふたりのデートの案内人を買って出るといった感じで。
「ふん、別にいいもん! わたしは、ミスター・サンチェスと楽しく過ごさせてもらうから。……はあ、ミスター・サンチェスか」
杏那は彼の名を囁きながら、机の上に置いてある仕事用のタブレット端末を手にすると、再びベッドへ戻って腰を下ろした。
何故かわからないが、エンリケはイレーネと肩を並べて歩いているのに、杏那がミスター・サンチェスと話し出したら、仲間に入れようとする。
話していなかったら、絶対無視するのに。
そんなエンリケの態度に腹が立って、杏那はまたミスター・サンチェスと話そうとすると、今度は彼とは話ができないようエンリケが邪魔をしてくる。
その繰り返しだった。
どうしてあそこまで躍起になって、ミスター・サンチェスとの関係を壊そうとするのだろう。
普段の態度からは考えられないエンリケの反応を思い出して、杏那はクスッと笑みを漏らした。
だが、そこでハッと気付いた。
えっ? もしかして、あれって嫉妬? エンリケが……ミスター・サンチェスに?
杏那は自分の考えを拒むように頭を振り、それは有り得ないと言い聞かせて苦笑した。
嫉妬というものは、エンリケが杏那を好きな場合にのみ成立する。
でも、エンリケが杏那を好きになる要素は全く見受けられなかった。
なぜなら、エンリケと最後に会ったのは子どものころ。
あれから一度も会わず、連絡もせずといった状態で11年も経っているのに、どうして彼が杏那を好きになると言えるのだろう。
そんなことあるはずがない。フィアンセを日本へ連れてくる人が、杏那を好きになるわけない!
理屈をたくさん並べて、やっとエンリケがミスター・サンチェスに嫉妬しないとわかった。
でもそれならば、どうして彼はあんな態度を取るのだろう。
もしかして、エンリケは妹のような存在の杏那を、部下に奪われたくなかった?
「うん、そう考えれば納得できるかも」
そう口に出して、タブレット端末を起動しスケジュール帳を開くが、いつの間にかそこに書かれた字の焦点が合わなくなっていく。
たった今納得した事実が無性に辛くなり、妹だなんてイヤだという気持ちが湧き起こってきたからだ。
そんな風に思ったらダメだ。このままでは、エンリケに恋をしている心を盗み見されてしまう。
えっ? エンリケに、恋……?
「あっ!」
のらりくらりと言い訳していた杏那は、思い切り冷たい水を頭の上からかけられような錯覚に陥った。
いつから、エンリケのことばかり考えるようになったかはわからない。
でも、エンリケにはイレーネがいるから……だから自分の気持ちに蓋をして、言い訳ばかりしていた。
それが間違いだったと気付く。
好きなんだ……、エンリケのことが!
もう気持ちは止まらない。指の先から零れるように、彼を愛する感情がどんどん溢れ出てくる。
同時に、杏那の前でエンリケにベタベタしては勝ち誇った笑み向けるイレーネの顔が、目の前でチラついた。
「……エンリケのプレイボーイ!」
イレーネを日本へ連れてくるほど愛している人が傍らにいるというのに、杏那に優しくするから、だからエンリケに恋をしてしまったのだ。
杏那は、泣きたい気分だった。
自分から好きになったのは、エンリケが初めてだというのに、即失恋が決定してしまうとは最悪としか言いようがない。
好きになった相手には、イレーネという美人フィアンセがいるなんて。
杏那は、机の下で充電をしている携帯のストラップに視線を向けた。
「良かった……嘘をついて。エンリケから貰ったブレスレットを後生大事に持ってるなんて言ったら、きっと困った顔をするに違いないもの」
絶対そう思うに決まってる。
杏那自身、どうしてこんなにも大切にしていたのかわからないのだから。
それに、ずっとそれを持っていたからといって、いつもエンリケを思い出していたわけでもない。
そこでふと、どういう経緯でブレスレットを貰ったのか思い出せず、杏那は呻き声を漏らした。
それも仕方ないか。あの日……初めてエンリケからキスをされて動転というか、恥ずかしいというか、舞い上がっていたのだから。
「……そうだ!」
杏那は急に立ち上がると、クローゼットの方へ歩き出し、そこからアルバムを取り出した。
そこには、スペインで暮らしていたころの思い出がぎっしり詰まっている。
もしかしたら、記憶が甦るかもしれない!
仕事の下調べは後回しにすると決めると、杏那はゆっくりアルバムを見始めた。
「ああ、やっぱりダメ!」
杏那が帰国する日までの写真を何回も見直したが、やっぱり大切な部分の記憶は思い出せなかった。
あの日、ブレスレットを貰った時に『約束してくれる?』とエンリケに言われて、慌てて頷いたのは覚えている。
でも、いったい何の約束をしたのだろう。
それだけじゃない。
エンリケが杏那と話す時、英語で話していたのか、それともスペイン語で話してたのかさえよく覚えていなかった。
遠い昔の出来事を細部まで思い出そうとするのは、やっぱり無理があるのだろうか。
でも、思い出したい。エンリケが何の約束を求めたのかを。
杏那は仕事用として使っているバッグから果汁入りグミをひとつ取ると、口に投げ入れた。
「さぁ、糖分よ。わたしの脳の働きを助けてね!」
口をもごもごさせながら、杏那はアルバムをもう一度開いた。
――― コンコン。
「お姉ちゃん? あの、」
妹の那々香の声に続いて、ドアの開く音。
「いいわよ〜、入っても」
杏那は気軽に妹に声をかけるが、その時もずっとアルバムを凝視していた。
いつもなら遠慮なく部屋に入ってきて杏那の隣に座るのに、その気配もない。
「那々香どうしたの? 宿題でわからないところでもあった?」
そう言った時だった。
突然香ってきた鼻腔をくすぐる男性のコロンに、杏那は動きを止める。
まさか……そんな! そんなハズは……!
杏那は息が止まりそうになるのを覚えながら面を上げ、視線をドアの方へ向けた。
そこには、エンリケがいた。
那々香の華奢な肩に触れて、こちらを賞賛の眼差しで見つめてくる。
「Thank you, Nanaka」
優しく頭を撫でられた那々香は、照れたように真っ赤になりながら微笑み、杏那へ目を向ける。
「エンリケが、お姉ちゃんにご用があるんだって……パパが言ってた。っで、ママは下でお話しするようにって言ったけど、パパがエンリケにお姉ちゃんの部屋へ行っていいって言ったの。でも、あとで下に降りてきなさいって、ママが」
「あっ、うん……わかった。ママにあとで下に行くからって言ってくれる?」
必死に伝言を伝える那々香の頑張りに、杏那はにっこり微笑むが、頭の中はこの状況に、何故? どうして?≠ニ疑問が渦巻いていた。
「うん! あとでね」
那々香は名残惜しそうにエンリケを見上げたが、彼は既に杏那に視線を向けていたので、妹はそっとその場を去った。
杏那は、この部屋に居るエンリケを見つめながら、彼への愛で胸がいっぱいになるのがわかった。心が震え、愛しさが込み上げてくる。
今日の夕方までは平然と接していたのに……
そこで杏那はハッとして視線を落とし、大きく息を吸って気持ちを落ち着けようとした。
エンリケへの想いが瞳や表情に表れ、彼を困らせるような真似をしたくなかったからだ。
さりげない手つきでトレーナーを引っ張って露になった肩を隠してから、杏那は作り笑いを浮かべる。
『まさか……エンリケがわたしの家へ、しかもわたしの部屋へ来るなんてね』
壁掛け時計で時間を見ると、21時を過ぎていた。
いくら知り合いとはいえ、連絡もせず他人の家へ訪問するなんて、いったいエンリケは何を考えているのだろうか。
『……イレーネはいいの?』
そう口にしたところで、杏那は自分を罵りたくなった。
どうしてイレーネのことを言ってしまったのだろう。せっかくエンリケが杏那を訪ねてきてくれたというのに……
『ごめんなさい、気にしないで』
力なく頭を振りながら杏那は面を上げたが、そこでエンリケの表情を見て目を見開いた。
彼は魅了されたように、杏那を食い入るように見つめている。
視線が交わった今でも逸らさないエンリケの眼差しに、杏那は照れから頬を染めた。
『“ベジシマ(すごく綺麗だ)” とても、すごく……』
エンリケの視線が、杏那の露になった鎖骨、素肌、豊かな胸元、そしてホットパンツから見える大腿へと落ちていく。
たったそれだけで、杏那の躯はビクッと震えた。
まるでベッドで愛を囁かれ、見つめられた部分に愛撫の手を走らされたような気分にさせられたからだ。
一瞬で杏那の中にある女が目覚め、躯中を巡る血が沸騰したかのようにざわめき始める。
こんなことって、初めてだった。
煌々と照らされた部屋にも関わらず、緊張と甘く痺れるような濃密な空気が室内を漂う。
ふたりの関係を結びつけようとするように、机の下で充電中の携帯に付けられたストラップが、静かに電灯の明かりに反射して光っていた。
だが、杏那もエンリケもそれには気付かなかった。