開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)

『Te amo 〜愛してる〜』【3】

 今回通訳として杏那が抜擢されたのは、スペインで暮らしていた経験から選ばれたのではなかった。
 杏那の勤める会社に、偶然エンリケが仕事を持ち込んできたわけでもなかった。
 
 全て、エンリケの手で仕組まれてのことだった。
 
 それに気付いたのは今から一週間前、……ミスター・ファリーノスがあのエンリケだと両親に話した時のこと。
 母は目を見開きながらも嬉しそうにしたが、逆に父はやましそうに視線を彷徨わせた。
 日本に帰国してから生まれた、年の離れた妹・那々香(ななか)は、エンリケって誰なの?≠ニ何度も訊いてくるが、妹の言葉を遮り父に知っていたの? エンリケが日本に来てるって≠ニ詰め寄った。
 そこでやっと父は白状してくれた。
 エンリケ本人から連絡があり、彼から訊かれるまま杏那の話をしたということを。
 エンリケが父と連絡を取るのは簡単だっただろう。
 なにしろ、父の会社はエンリケの実家の果樹園だけでなくファリーノス海運とも契約を交わしているか、電話をかければすぐに父と繋がるのだから。
 それは理解できる。
 でも、どうしてエンリケはそのことを一言も口にしなかったのだろう。再会する前から全て杏那のことは知っていたのに。
 
 ……言いたくはないか。だって、この仕事は結局エンリケに与えてもらったってことだし!
 
 杏那は奥歯をぐっと噛み締めて、取引先との商談を終えたエンリケに目を向ける。
 彼は相手の社長と英語で談笑しているが、その姿を見て、杏那は思わず眉間に皺を刻ませた。
 数日前、杏那は自分の立場を明確にするため、エンリケにそれじゃ、わたしはただのお飾りなのね?≠ニ訊いたが、彼はそうではないと言い切った。
ほら、英語を話せない人もいるだろ? そういう時、必ず通訳を介する必要が出てくる。そういう場合、俺が無条件で信頼できる人物を傍に置いておきたいんだ=c…と。
 俺にとって杏那はそれぐらい特別な女性なんだよ――そう言いたげな瞳で杏那を見つめにっこりしたエンリケ。
 一瞬その言葉を信じたい気分にさせられたが、それでも杏那が傍にいなくても仕事に支障をきたさないことは、お互いにもうわかっていた。
 
 それは、イレーネも。
 
 イレーネを思い浮かべると、杏那はため息をつきたくなった。
 彼女は突然現れてはエンリケの腕を掴み、幾度となく仕事中の杏那を邪魔してきた。
 だが、エンリケはイレーネに文句を言いもせず、また縋る彼女の手を振りほどこうともしない。
 それも当然なのだろう。ふたりは婚約者同士なのだから、邪険に振りほどく方がおかしい。
 そのことをわかっているのに、仲睦まじい姿を見せられるたび、無性に腹が立って仕方がなかった。
 でも、ムカムカするのはそれだけではなかった。
 イレーネという婚約者がいるのに、エンリケは杏那に優しく話しかけ微笑みかけてくる。
 そのたびに勘違いしそうになっては、杏那は自分を戒めなければないことも苛立っていた。
 
 エンリケは、いったい日本へ何しに来たの?
 
『杏那、そろそろ行こうか』
 杏那は目の前に立つエンリケを見上げて「はい」とは言うものの、思わず彼の顔に魅入ってしまった。
 確かに昔のエンリケの面影が残っているのに、どうしてすぐに気付かなかったのだろうか。
 そんなことを考えながら、杏那は彼から仕事用のバッグへ視線を移して手を伸ばした。
『荷物、重たそうだな。持とうか?』
 自分の手と重なるように、杏那の視界に入ったエンリケの大きな男らしい手にハッとすると、慌てて彼より先にそれを持った。
『これはわたしの仕事道具よ。……勝手に触らないで』
 杏那の険のある表情にエンリケはただ肩を竦め、さりげなく杏那の座っている椅子の背に触れた。
 杏那が立ちやすいよう、エスコートをしてくれている。
 何度彼に言っただろう、その優しさはイレーネのために取っておいて≠ニ。
 でも、エンリケはその時も肩を竦めただけで、行動を改めようとはしなかった。
 それもあって、もう彼にごちゃごちゃ言うような真似はやめたが、やはり今でも優しくされると困惑を覚える。
 どうして? なぜ!? ――頭の中は、解決できない問題でいっぱいだ。
 杏那が立ち上がるのを感じて、エンリケが椅子を引いてくれた。
「ありがとう」
 わざと素っ気なく礼を述べるのに、エンリケは気にもせず杏那の腕を掴んで廊下へと促した。
 そのさり気ない仕草に、またも勘違いしそうになる。
 
 お願いだから、こういう優しさは本当にやめてほしい!
 
 エンリケの優しさに触れるだけで、新たな一面を見るだけで、心が今までにないほど震えてしまう。
 頭の中からエンリケのことを追い出したいのに、その震えが杏那の心を乱そうとする。危ない方向へ連れ込もうとする。
 それを押し止めようと自分でブレーキをかけているのに、エンリケはお構いなし。
 これからどうすればいいのだろうか……
 エンリケが社長と挨拶を交わして、エレベーターに乗り込むと、エンリケは杏那の肩を抱いてきた。
 そんな態度を取ったのは初めてだったので、杏那は思わず躯を強ばらせた。同時に躯を駆け巡る血が一気に熱くなる。
 それを極力無視し、彼を仰ぎ見る。
『エンリケ、……こんなことは日本ではしないわ』
『こんなことって?』
『恋人同士でもないのに、男が女の肩を抱くことよ』
 目の前に居たミスター・サンチェスが、突然咳払いをひとつした。
 杏那は羞恥で頬を染めながらミスター・サンチェスの背中へチラッと目を向けたが、すぐにエンリケを仰ぎ見た。
 その瞬間、胸の奥で燻っていた苛立ちがどこかへ吹き飛んでしまった。
 エンリケの表情は真剣で、杏那の思考を読むようにジッと見つめていたからだ。
 あの時と全く同じだった。
 ルイス果樹園でのお別れパーティーで杏那を見つめたエンリケの瞳、そして、スイートルームで再会した時に見せた何かを告げるような強い眼差しとが。
『俺は、ひと抱きたい時に抱くよ』
 どうして今なの? 再会した一週間前ではなくて?――そう問いかけたかったが、杏那は何も言わなかった。
 エレベーターの扉が開くと、エンリケは杏那の肩を抱いたまま歩き出した。
 杏那は、思わず周囲を見回した。いつもなら、この辺でイレーネが登場するからだ。
 彼女は杏那の腕を掴んでいるエンリケとの間に割るように入り込み、一方的にスペイン語でまくしたててエンリケに話し続ける。
 今日もそうになるに違いないと周囲に目を向けるのに……イレーネの姿はどこにも見当たらない。
 
 あれ? ……どうして?
 
 杏那の行動に気付いたのか、エンリケがギュッと肩を掴みながら顔を寄せて囁いた。
『イレーネは来ないよ』
 頭の中を覗かれたことにビックリして、杏那は問うようにエンリケに目をやる。
『そろそろ一週間経つ。俺は、杏那とゆっくり話がしたい』
 わたしと話したいなら、何故フィアンセを連れて日本へ来たの? ――そう訊ねたかったが、それを訊くのは野暮だだろう。
 愛し合っているふたりがいつも一緒にいたいと思うのは、当たり前。
 朝も昼も……そして、夜も。
 いつの間にかエンリケには見えない場所で、杏那は強く握り拳を作っていた。
 爪が掌の肉に食い込んでいたが、全く痛みを感じなかった。
 
 
 エンリケに連れてこられたのは、銀座でも評判のある個室も完備されているカフェレストラン。
 どうしてこの店を知ったのかわからないが、きっとアシスタントのミスター・サンチェスが予約を入れたのだろう。
 杏那は、エンリケに促されるままその部屋に入った。
 柔らかなソファに座ると同時に、ケーキのプレートセットが並べられた。
『杏那は小さなケーキが好きだったろ?』
 エンリケは、杏那に微笑みかける。
『えっ、……覚えていてくれたの?』
『忘れたことは、一度もないよ』
 エンリケの真摯な眼差しに耐え切れず、杏那は頬を染めながら視線を落とした。
 どうしてエンリケは、これほどまでに杏那を喜ばせようとするのだろう? これではまるで……愛を囁きかけられているみたいだ。
 
 ……愛? まさか!
 
 杏那は、エンリケに見られていることなんて忘れてぶんぶん頭を振る。
 勘違いをしてはいけない。エンリケが愛を囁きかける相手は、イレーネただ一人なのだから。
 
 杏那、しっかりしないさい! 彼は外国人だから、それが普通なの。日本人感覚と違うんだから!
 
 杏那はコーヒーカップを持ち、気を落ち着けさそうと一口啜った。
「Que rico!(おいしい!)」
 杏那がスペイン語を使うだけで、エンリケの瞳が情熱的に光るのを何度も見てきた。
 だから、本当なら避けたいところなのだが……何故かエンリケに喜んでもらいたくてつい口から出てしまった。
 案の定、エンリケは目を輝かせて杏那を見つめている。
 そういえば、幼い頃もそうだった。
 エンリケとケンカした時、英語で話しかけても彼は聞こえないフリをしていた。
 でもひとたびスペイン語で話しかけると、エンリケは杏那を振り返り、仲間に入れてくれた。
 
 もしかして、昔のように振り返ってほしいと心の奥で願っているのだろうか。でも、それは……どういう意味で?
 
『さぁ、杏那。俺に訊きたいことがあるなら訊いてくれ』
「えっ?」
『ずっと個人的な話をする時間がなかった。だから、ふたりだけの時間を作ったんだ。杏那の瞳はいつも俺に語りかけている。何故? どうして? と』
 そんなに露骨だっただろうか。
 杏那は、苦笑いを浮かべながらカップを置いた。
『そうね……確かにいろいろと訊きたいことがあるかも。何故、わざわざ父と連絡を取ってわたしのことを訊き出したのかとか、通訳として指名しておきながら、あの日再会するまでどうして黙っていたのか……とかね』
 エンリケがやましそうな表情を浮かべたのを見て、杏那はなんでもないことのように肩を竦めた。
『気にしないで。わたしにとって初めての通訳の仕事が……与えられたものだなんて、気分がいいとは言えなかったけど、エンリケと再会出来て嬉しかったし――』
「En serio?(本当に?)」
 それはどういう意味? わたしが会いたくなかったとでも? ――思わずそう訊き返しそうになったが言葉を飲み込み、杏那は昔を懐かしむように笑みを浮かべた。
『だって、スペインで過ごした11年間は、わたしにとって大切な思い出だもの』
『俺にとっても……杏那と過ごした時間は大切な宝物だ』
 それはとても大げさな言い方だったが、杏那は嬉しかった。
 エンリケにとって、あんな遠い昔のことはもう過去の一部と思っていたから。
『杏那も同じ気持ちだったんだね。それを聞けた今だから、訊くよ』
 いきなり、エンリケの口調が緊張を帯び、そして何かを望むような視線を杏那に向けてきた。
 訊くのは杏那の方で、エンリケからではなかったハズなのに。
 
『杏那が日本へ戻る時に、俺が贈ったブレスレット ……それをしていないのは何故なんだい?』

「えっ?」
 杏那は疾しさから脅えるように息を吸い込むと、思わず喉元に手を触れていた。
 その手首には、彼の言うブレスレット≠ヘなかった。

2008/03/12
2013/03/26
  

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