開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
side:エンリケ
何故、答えを求めようとするのだろう。
最初の日に自分で確かめたというのに。……杏那が約束どおり、肌身離さず身に付けてくれていたかどうかを。
仕事中だから、装飾品を外していたと思いたかった。だからこの一週間、杏那の様子を見てきた。
でも杏那は、身に付けようとはしなかった。
『ペルドン(ごめんなさい)。 わたし……、あの……どこかになくしてしまって』
杏那の言葉は鋭い矢となって、エンリケの心臓を一突きにした。
自分でも想像すらしていなかった強い衝撃に、ふらっと眩暈を覚える。同時に痛む胸を手で押さえ、奥歯をギュッと噛み締めた。
つまり、杏那にとって……アレは大事なものでもなかったということ。そう受け止めればいいのに、躯が拒否反応を示す。
それぐらい、杏那に贈ったブレスレット≠ヘエンリケにとってとても大切なものだった。
しかも、それを贈ったのは、杏那と初めてのキスをした日でもある。エンリケにとって、それはファーストキスではなかったが、ブレスレット≠贈るほどの大切にしたいと思う女性だった。
ああ、大切な思い出が音を立てて崩れていく!
『エンリケ?』
杏那の呼びかけにエンリケはハッと我に返るが、彼女から視線を逸らしたまま肩を落とした。
『……忘れていた。エレーネを迎えに行く約束をしていた』
今までは紳士的に振る舞い、素晴らしい男に成長して戻ってきたと思ってもらえるよう、必死に努力してきた。
だが今は、その努力をすることさえ難しい。
感情のまま行動を起こし、杏那に触れ、あの時の思い出を分かち合いたいと思ってしまう。
着物を着た杏那を見た瞬間、彼女への“所有欲” をむき出しにしたあの日のように。
『そう。……エレーネさんと』
杏那の声が寂しげに聞こえるのは、きっと時間をかけて食べたかったからだろう。
本当はエレーネと約束なんてしていない。それでも何事もなかったように杏那と話す気分ではなかった。
エンリケは無表情を装い、紳士的に杏那に手を差し伸べる。何か言いたそうにエンリケを見る彼女だったが、諦めに似たため息をひとつつき、エンリケの手を取った。
杏那が席から立ち上がると、その手を離して彼女の肩を抱く。
思わずその手に力を込めそうになるが、エンリケは歯を食い縛って……ただただ、自制心を働かせながら店を出た。
* * * * *
――― 1ヶ月前 in スペイン(バルセロナ)
side:エンリケの伯父、パブロ
『エンリケ、お前をファリーノス海運社≠フ次期社長に任せると決めた』
ファリーノス海運社≠フ社長で、エンリケの母方の伯父パブロ。
彼は大きな椅子に座って、窓から見下ろすバルセロナの街並みを眺めながら、エンリケにそう告げた。
『それがファリーノス海運社≠フ為であり、親族の為でもある。私の息子ではそれは叶えられない。わかるな』
「Si (はい)=v
そこで初めてパブロは、ハンサムだが鋭い眼光を放つ甥のエンリケを見上げた。
『ルイスの果樹園は、私が悪いようにはしない。それに、エンリケがこちらにつけば……これからは兄を、果樹園の跡継ぎの兄を手助けすることができる』
「“Si.(はい)”」
パブロは思案するように腕を組み、表情を一切変えないエンリケを見つめた。
全く反論せずに決められた道に進もうとする甥の目に、何らかの息吹を感じたい。
どうすれば彼の目が生き生きと輝くのだろう。
この会社に無理やり連れてこられても、精力的に仕事を熟す甥だったが、報告書によると……エンリケはある日を境に、特定の女性あるいは一夜限りの女性といったどの女性とも親密な関係を築いていないらしい。
男には女が必要だということは、エンリケもわかっているハズ。
性に興味を覚えて、男として目覚めて以来、エンリケは様々な女性と付き合ってきたのだから。
最近では、モデルだったか? いや、女優だったか?
とにかく、恋人がいなかった時期はないのだから、不能というワケでもない。それなら、どうしてここ数ヶ月は女っ気がないのだろうか。
もしかして、あのことと関係がある?
計画どおりに事を進めるため、パブロは挑むような視線をエンリケに向けた。
『次期社長と周囲に知れ渡れば、お前には容赦ない女の誘惑が待ち受けているだろう』
エンリケの目が苛立ちも露に細められたのを見て、パブロはニヤッと口元を緩めた。
彼の感情をほんの少しでも引き出せたことに嬉しく思いながら、さらに先を続ける。
『スキャンダルを売る者も出てくる。あるいは、お前を手に入れようと卑怯な真似をする女も出てくるだろう。そんな煩わしいことに、私はお前を悩ませたくないのだ』
パブロが何を言いたいのか、その言葉をじっくり吟味する姿を見て、やはり後継者はエンリケしかいないと強く思った。
パブロはゆっくり間を開けてから、再び口を開いた。
『エンリケのフィアンセを決めることにした。お前も知っているだろう? モリエンテス会社社長の孫、イレーネ・モリエンテス・ハビエル嬢だ。もう先方には話を通してある』
「Chinga tu madre!(チッ!)」
使ってはいけない言葉を口にしたことで、初めてエンリケの仮面が剥がれた。
パブロは満足気に笑った。
『悪い言葉を使ったのは目を瞑ってやろう。だが、どうしてそんなにもいきり立つ? イレーネは、お前の恋人だったではないか』
エンリケは、パブロを射るように鋭い視線を向けた。
『……どこからそんな情報を?』
『お前を後継者にと決定するからには、きちんと調べるに決まってるだろう?』
エンリケの顎が震えるように動いている。
きっと、怒りを吐き出したくてたまらないのだが、歯を食い縛って耐えているのだろう。
思ったことをすぐに口にせず、自分を律することができるのは、エンリケのいい所でもある。
『イレーネと婚約していれば、過去の恋愛が表沙汰になっても男勝りとして片付けられる。それはお前にとって、とてもいいことだろう?』
これでよし! これで……代々受け継がれてきたファリーノス海運社≠ヘ、さらに大きくなり、エンリケの手腕でスペイン一となり、いずれ海運王と呼ばれるようになるだろう。
パブロの話はこれで終わりだった。
エンリケにもう用はないと、身振りで示そうとする。
だが、突然エンリケが口を開いたことで、パブロの手は途中で止まった。
『ファリーノス海運社≠フ後継者として、責務を全うするとお約束します。しかし、イレーネを妻にはできません』
今度は、パブロがエンリケの言葉の意味を、吟味するハメに陥った。
また、先程パブロがしたのと同じように……エンリケはしばらく間を置き、パブロの視点が定まったのを目にしてから口を開いた。
『私が15歳の時、既に意中の女性にあのブレスレットをあげているからです』
『ブレスレット、だと?! まさか……マルタが既に用意していたのか?』
エンリケは、ネクタイを緩めると、おもむろにネックレスを取りだした。
そして、クリスタルが散りばめられたオニキスのペンダントトップを、パブロに見せる。
一見ただのペンダントトップだが、パブロはそれが何なのか知っていた。
そこに散りばめられたクリスタルは、パブロにとっても思い入れのある宝石だったからだ。
それは、スペインの伝統的なものというものではない。
パブロとマルタの母の母……祖母が体験した実話からきている。
惹かれ合うふたりが離れ離れになっても、もう一度巡り会えるように、故意に割ったそれを片方ずつ持っておくのよ。そうしたら、わたしのように絶対に会えるから
祖母はそこに付けられていた小さなクリスタルを子供たちに分け、母はパブロとマルタにその話をして大事な宝石を渡した。
それからは、男はペンダントトップとして、女はブレスレットとして身に付けるようになった。
パブロ自身、母からもらったそのクリスタルは家宝として豪華なペンダントに作り替え、妻に与えた。
だが、パブロの妹マルタはロマティックな実話に夢を見て、祖母がしたように子供たちに分け与えたのだ。
それも、まだエンリケが学生の時に!