開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
翻訳・通訳会社<トゥルース>に入社して1年。
初めての通訳を任されて、杏那はかなりドキドキしていた。
本当なら昨夜のこと……富島との初エッチの失敗に落ち込んでいても不思議ではないのに、今の杏那の頭には仕事のことしかなかった。
初・通訳のクライアントが、スペイン人だからかも知れない。
ただ、通訳は英語という事だったが……
英語でいいのなら、とても優秀な先輩が何人もいる。
その先輩ではなく杏那が選ばれたというのは……多分スペインで過ごした経験から、何かと都合がいいと会社側が判断したのだろう。
しかし、中学から日本で過ごしてきた杏那にとって、 スペイン語はもう馴染みのある言葉ではない。
スペインで過ごした11年間は、殆どと言っていいほど英語を使っていたからだ。
でもルイス家で教わったスペイン語が懐かしくて、大学の第二外国語ではスペイン語を選択した。
昔ほど堪能というワケではないが、それでも先輩たちに比べると多少の知識はある。
それを武器にして、なんとしてでも頑張ろう。
これが上手くいけば、この先は翻訳よりも大好きな通訳の仕事を回してもらえるかもしれない。
杏那は白のブラウスに、洒落たデザインの黒いスーツを着て、上司から渡された資料を見ながら、目的地のホテルへと向かっていた。
これから二週間、杏那が相手をするクライアントは、スペインの海運王と呼ばれるファリーノス海運業の取締役の一人で、 Mr. E・R・Farinos。
彼は、次期社長と言われている人物らしい。
年齢は26歳と若いが、アメリカのマサチューセッツ州のH大学を主席で卒業し、MBA(経営学修士号)も取得。
今回来日した理由は、取り引きのある商社との契約を再確認するため。
資料をもらった時、当然ながら頭をよぎった。
再確認? 新しい開拓先を求めるのではなく? しかも、その他の商社とは予定が組まれていないなんて、何か……変じゃない?≠ニ。
でも、そこは通訳が気にするところではない。
杏那はスケジュールを確認するため、タブレット端末を取り出した。
これからの二週間は、ほとんどクライアントに付きっ切りになる。
一週目は仕事に忙殺され、二週目は専用コンダクターとして契約されていた。
つまり……日本に滞在している間は子守ってわけね――そこで杏那は、ふっと笑った。
23歳の自分が26歳の……ミスター・ファリーノスの子守をすると考えるなんて。
だがすぐに、杏那は頭の中に浮かんだことを振り払おう頭を振った。
杏那の知っているスペイン人は、プライドが高い。極力、彼の機嫌を損ねる真似をしないようにしなければ。
何かあれば、スペインで暮らしていた記憶を頼りに、彼の国の話をしよう。そうすれば、少しは和んでくれるに違いない。
杏那は、言葉が通じなかった時のために持ってきた電子辞書の横に、タブレット端末を入れた。
そして、携帯電話の電源が入っているのを確認した時、目的地のホテルに到着した。
「さあ、杏那。しっかりするのよ!」
杏那はワクワクする気持ちに背を押されながら、エントランスを通り抜けてホテルに入った。
一流ホテルの最上階、スイートルームの部屋。
ドアを開けてくれたのは、ミスター・ファリーノスのアシスタントをしているミスター・サンチェスという男性だった。
彼の案内で、杏那は広々としたリビングルームに通された。
目に飛び込んできた豪華な調度品に息を呑む杏那を見て、ミスター・サンチェスはクスッと笑みを零す。
『どうぞ、おかけください』
ソファを指す彼に、杏那は慌てて腰を下ろした。
立派な家具を配した壮麗な屋敷へ足を踏み入れた経験は、何度もある。
ただそれは、物の価値が全くわからない子供の頃の話。
免疫なんてあるわけない。
杏那は、緊張からソファのに座りながら躯を硬くした。
しばらくすると、ミスター・サンチェスがテーブルに紅茶を置いてくれた。緊張を少しでもほぐしたくて、勧められるままそれをいただく。
二口ほど飲むが、やはり心から緊張を解くことはできず、杏那はカップをテーブルに戻し、再び背筋を伸ばす。
そろそろミスター・ファリーノスが現れるだろう。
いつ現れてもいいよに身構えているのに、ミスター・サンチェスが杏那の斜め前のソファに座っても、ファリーノス海運業の取締役は姿を見せない。
どこかへ出掛けている? それとも、書斎で仕事をしている最中で、まだ手が離せないのだろうか。
ちょっと待って。もしかして、ミスター・ファリーノスがいない間に、ミスター・サンチェスから彼の話を訊けるチャンスなのでは? ――そう思った途端、杏那はそっと面を上げた。
すると、こちらを見ていたミスター・サンチェスと視線が合う。
彼と少し打ち解けておくのも悪くないとにっこり微笑むと、さすが女性に優しいスペイン人男性。
ミスター・サンチェスも杏那に、優しく微笑み返してくれた。
これなら大丈夫。知りたい事を教えてくれるかも!
『あの、ミスター・サンチェスは――』
そう話しかけたその瞬間、ミスター・サンチェスの視線が杏那から逸れる。
今まで朗らかにしていたその表情が固まったのを見て、彼のボスが登場したと気付いた。
ミスター・サンチェスと同じように杏那も背筋を伸ばし、スカートの上で手を重ねる。
その手の指には、小粒の真珠とダイヤのプラチナリングが綺麗に輝いていた。
同様に、パールのピアスが耳元で揺れているが、これも小粒なので華美な感じはしない。
ネイルも薄い珊瑚色のため、血色がいいように見える。
嫌悪感を与えるような身だしなみをしてはいないから、問題はない。
そう言い聞かせはしたものの、高まる緊張から躯が震えてくる。
携帯ストラップにしている大切なブレスレットに触れて、緊張を解きたい!
でも、今はそれに触れることはできない。
大丈夫、気難しい人でもやってみせる! ――そう自分に言い聞かせながら、杏那は肩から余分な力を抜こうと小さく深呼吸を繰り返した。
「Mr. Farinos ..... well 」
ミスター・サンチェスが困惑したようにミスター・ファリーノスの名を言ったあと、困惑した表情を浮かべたのを見て、杏那はソファからゆっくり立つ。
その時、急に背筋がゾクゾクし、露になった肌が粟立った。
突然のことに杏那は身震いしてしまい、その場から動けなくなる。
何故そうなるかわからないが、我が身を抱きしめたくなる衝動を必死に堪えてから、杏那は口元に笑みを張りつけてゆっくり振り返った。
目に入った背の高いスペイン人男性を目にして、杏那は思わず息を呑む。
何て “Bello(ハンサム)” なの!
ミスター・ファリーノスの態度から少し冷たい感じを受けなくもないが、そのことを除外しても彼は外国人モデルのようにとても格好いい。
彫りが深くて真っ直ぐな鼻梁に、形のいい唇に目が吸い寄せられる。
でもそれ以上に、何かを探るような視線を向けてくるこげ茶色の瞳は、どこか懐かしくもあった。
もっと見つめていたい気にもさせられるものの、彼に寄り添うように立つ女性へ、杏那は視線を移した。
そこで感嘆したように目を大きく見開いた。
まぁ! こちらは “Bella(美人)” だわ! でも、彼の妹ではなさそう――そんなことを思いながらじっと彼女を見る。
金髪にこげ茶色の大きな瞳、愛らしい唇に、陶磁器のような滑らかな肌は、男性から好まれるタイプかもしれない。
ミスター・ファリーノスの恋人?
彼女の機嫌を損ねるような真似はしないよう自分に言い聞かせてから、杏那はソファを回ってミスター・ファリーノスに近寄り、手を差出した。
「Mucho gusto Mr. Farinos. Me llamo ,(初めまして、ミスター・ファリーノス。私は、)」
「ANNA」
自己紹介すらしていないのに、ミスター・ファリーノスの口から自分の名前が出て、杏那は何度も目をぱちくりさせる。
えっ? 今、何て?
「..... Eres muy guapa.(君は美しい)」
「ENRIQUE!」
隣の美女が、ミスター・ファリーノスの腕を掴み怒りを露にする。
彼女はスペイン語をまくしたてるので、何を話しているか全く理解できなかったが、差出した手をゆっくり下ろす杏那の表情が強ばっていく。
今、彼女はミスター・ファリーノスのことを何て呼んだ? ……エン、リケ?
美女の怒りを無表情で受け止めていたミスター・ファリーノスだったが、杏那に見られているのがわかったのだろう。
彼は、女性から杏那へと視線を戻した。
『イレーネ! 杏那が居る時は英語を使うんだ』
初めて放ったその一言で、イレーネと呼ばれた美女は口を噤み、杏那に敵意剥きだしの目を向ける。
あんなにも美人なのにもったいない――そう思ってしまうほど、イレーネの怒りは凄まじかった。
杏那は相手の態度にたじろぐものの、彼女よりも気になるミスター・ファリーノスへ意識を向けた。
エンリケという名前は、スペインではよくある名前。
だから、彼が杏那の知っているルイス家のエンリケであるハズがない。
何故なら、彼は海運業なんて関係のない果樹園の息子だし、そもそもリイスという名前が入っていないからだ。
そう、よく覚えている。大きな果樹園で開かれたパーティで、事あるごとにエンリケとケンカをした日々を。
エンリケに立ち向かうたびに彼から女の子ならもっと可愛らしくしろ≠ニ言われた。それでも言うことをきかず、我を張って何度なく彼を無視し口を開かなかった。
強情な態度を取り続けていたせいで、エンリケからどうしてスペイン人の女の子のように微笑みのひとつでも浮かべないんだ≠ニ罵られた事もある。
ふたりの仲は険悪ムードだったのに、それがある日を境に一変した。
そのお蔭もあってエンリケと仲直りができたが、その後は大築家の帰国が決まったことで、ふたりはそれっきり会ってはいない。
それでも、あの時の大切な思い出は、今でも杏那の心の奥にある。
決して忘れられる事のない思い出として……
だから、目の前に居るエンリケと呼ばれたミスター・ファリーノスと、杏那の知っているエンリケと同一人物ではない。
……だよね?
そう思っているはずなのに、どうしてだろう。
ミスター・ファリーノスの瞳を見ていると、何故かルイス果樹園で遊んだ懐かしい記憶がどんどん蘇ってくる。
違う……違う!
杏那は心の中で何度も頭を振った。
同じスペイン人、同じ名前だから……過剰に反応してるだけ。そう考えるのが普通でしょ? ――問いかけるようにミスター・ファリーノスを見つめる。
そんな杏那に向かって、彼はいきなり口元を綻ばせた。
『やっと逢えたね、俺のジャパニーズ・ドール』
!!!!!
杏那は反射的に一歩後ろに下がったが、足に力が入らなくて思わずふらつく。
すかさず彼が杏那の腕を掴んで、躯を支えてくれた。
『杏那! 大丈夫か?』
びっくりしたように、でも心配そうな色もその瞳に宿す彼。
その表情に見覚えのある杏那は、信じられないと言いたげに目を見開き小さく頭を振る。
『本当に…… “ア・ポコ?(本当なの?)” エンリケ、なの? “ポル・ケ?(どうして?)”』
英語とスペイン語が混じる杏那に笑みを零すエンリケは、昔を懐かしむようにそっと杏那の頬に触れてきた。
『杏那は変わってないな。どうして? 何故?≠ェ多かったあの頃と、全く変わってない。変わったといえば……どうして髪型を変えたんだ?』
「あっ……」
杏那は、アッシュベージュに染め、緩やかなウェーブにした髪に触れた。
『俺は、黒くてまっすぐな髪が好きだったのに……』
『それは……、その……人は変わるから』
子どもが大人になるように、女の子も恋を知ってお洒落に興味を持ち、女性へと変わっていく……という意味で言ったのだが、エンリケはそういう風には取らなかったみたいだ。
エンリケはその言葉に顔を顰めながら、杏那の手首を強く掴む。そのまま指をかすかに動かし、飛び跳ねる脈を宥めるように何度も動かした。
そんな触れ方に慣れていない杏那は、心臓がドキンと高鳴るのを覚えながら息を呑み、彼が何を考えているのか窺うようにそっと面を上げる。
だが、エンリケは杏那を見てはいなかった。
何かの確認をするように指を動かしてから、そっと手を離す。
『人は変わる……か』
『そうよ、人は変わるわ!』
甲高い声が響いて、杏那はそちらへ視線を向けた。
奥歯を食い縛っているせいか、イレーネと呼ばれていた彼女の美しい顔が崩れて見える。
どうしてそこまで敵意を剥きだしにするのかわからないまま、彼女の次の言葉を待つ杏那に、イレーネが勝ち誇ったような笑みを漏らした。
『エンリケのフィアンセは、わたしなのだから!』
えっ……フィアン、セ?
杏那は問いかける目をエンリケに向けたが、彼は何も言おうとはせず、ただ杏那の顔を見つめている。
ルイス果樹園で杏那をひとり占めしていたあの時のように……
その時、イレーネがエンリケにそっと寄り添い、彼の腕に手を滑り込ませる。
さあ、お祝いの言葉をどうぞ――と言わんばかりの彼女の目つきを見なくても、そうするべきだというのはわかる。
自分には関係のない話だし、 エンリケにフィアンセがいるのならおめでとうと言えばいい。
でも何故か……そう言える心境ではなかった。
エンリケの瞳が、あの頃と同じように、何かを伝えようとしていたから?
それとも……?