『それぞれの涙』【3】

side:健介
 
 健介は、汗をかきながら未来が住んでいる玄関のドアを叩いた。
「未来、俺だ。健介」
 荒い息をつきながら何度もドアを叩いた時、ガチャと鍵が開く音がした。
 現れた未来の表情は、やはり冴えない。
「未来……」
「どうぞ、入って」
 そう言うなり、未来は健介をその場に残し、勢いよく走り出して洗面所に倒れ込んだ。何度も何度も吐き続ける未来の背に手を置くと、健介はゆっくり摩った。
 しばらくすると、未来は落ち着いたようだった。
「ごめんなさい、こんな姿を見せてしまって……」
「いや」
 健介は、これほど体調が変化するとは思いもよらなかった。
「きちんと……食べてるのか?」
 未来は、ゆっくり頭を振る。
「何も食べたくなくて……」
「食べないと、お前の躯がどうにかなってしまう」
 とは言うものの、何か作れるかと訊かれれば……もちろんノーだ。
 しっかりとした足取りとは言い難いが、未来は奥のリビングへと向かった。
 
「今日は、どうしたの?」
 健介はそう問われて、言うべき事を思い出した。何故、慌てるように自宅から飛び出してきたのかという事を。
 全てあの書きなぐったメモの内容をはっきりさせる為だけに、こうやって未来のマンションへ飛んできたのだ。
「未来、病院へ行こう」
 途端、未来の大きな瞳が恐怖に曇った。
「……イヤ」
「嫌って……はっきりさせなければならないだろ?」
「怖いもの! それに、検査薬で陽性ってわかったし」
「何が怖いんだ? 妊娠している事が? それとも、……妊娠していない事が?」
 未来は信じられないとでも言うように、健介を見つめ返した。
「……健介、わたしが嘘をついてるとでも? そう思ってるの?」
 健介は、頭を振った。
 この数年、未来と付き合ってきたからよくわかってる。未来が、すぐにバレるような嘘をつく筈がないと。
「俺は、ただきちんとしたいんだ。お前の躯の事も考えないと、って」
 心配そうに見つめる健介を嘲笑うかのように、未来はお腹に手を置いた。
「嘘ばっかり。わたしの事を考えてくれてるのなら、これから先の事を考えてくれても良かったんだわ!」
 そう言われて、健介は先程のメモが脳裏に過った。
 目の前にいる未来が、俺の妻に……。
 だが、健介が妻にと望む女性は菜乃だけだった。菜乃だけが、健介との子供を産んでくれる存在だった。
(くそっ、俺ってヤツは……どうしてこんな事ばかり考えるんだ!)
「……きちんと検査してから、何もかもはっきりさせよう。その為に俺は来たんだ」
 強気な言葉を聞いた未来は、唇を震わせながら立ち上がった。
「一緒に来てくれる? ……側についていてくれる?」
 未来の縋り付くような目には、涙が浮かんでいた。
 未来は、本当に何を怖がってるんだ?
 よくわからないまま、健介は未来の手を握った。
「側にいるから」
 それが、健介がしてやれる第一歩だった。
 もしこれが菜乃なら、健介は菜乃の肩を抱き寄せて慰めの言葉をかけたに違いない。
 だが、その優しさはもう出てこなかった。
(俺って、何て酷い男なんだろう)
 自分自身に怒りを感じながら、健介は未来の手を離した。
「病院へ行く用意をしてこいよ。……そうだ、どこか行きたい病院はあるか?」
 未来が頭を振るのを見て、健介は頷いた。
「わかった。俺がイエローページで探しておくから、早く準備してこい」
 健介は電話台に近寄り、イエローページを捲り出した。近所の住所と電話番号、地図を書留めると、無造作にポケットへ入れる。
 すると、未来が現れた。
「よし、行こう」
 まず一歩を踏み出さなければ、先へ進めない!
 健介は、現実に立ち向かうんだと言い聞かせながら、未来と共に外へと出た。
 
 
 産婦人科に着くなり、健介は居たたまれなくなってきた。お腹の大きい人たちの目が、健介に注がれているような気がする。
 男性は健介ただ一人だったので、その視線から逃れるように下ばかり見つめていた。
 未来は先程呼ばれ、診察室に入ったきりだった。俺も一緒に入ろうか?≠ニ訊くと、ううん、ここで待っていて≠ニ言われてそうしているのだが……
 時計を見ると、既に十分は経っていた。
 すると、ドアが開き名を呼ばれた。健介はすぐさま立ち上がって、中に入った。
 そこには白衣を着た女医と、手をきつく握り締めて俯いてる未来の姿があった。
「あなたが、野島さんね」
 女医がゆっくり椅子を指した為、健介はすぐに座った。
「今回は残念だったけれど、こういう事は時々あるのよ」
「えっ?」
 健介は、その意味がよく理解出来なかった。
「彼女の場合、検査薬で確認したって事だけど、その結果は百パーセントではないのよ。体調の変化でホルモンのバランスが崩れる事があるし」
「でも、妊娠症状が」
 女医は、困ったように微笑んだ。
「女性の躯って微妙なの。ましてや彼女の場合はまだ若いし……未婚だし、いろいろ悩んでしまった為に間違った反応が出てしまったんだと思うわ」
 健介は、茫然としながらもその言葉を理解し始めた。
(という事は、未来のお腹には……俺の子はいないんだ)
 健介は、ゆっくり視線を未来に向けた。唇を引き締めて必死に耐えてるその姿は、あまりにも儚げだった。
 そんな二人を見た女医は、音を立てながら椅子に凭れた。
「こういう結果になってしまったけれど、」
 女医はそこでちょっと口を噤んで考え込んだ。
 だが、すぐに口を開いた。
「まだ若いから、いくらでもチャンスはあるわ。ねっ。あと、生理ももうすぐ始まるでしょう。妊娠していないとわかったからね。もし、それでも始まらないようだったら、また来てくれる? 食物が影響してるかもしれないから」
 女医は未来のきつく握り締めた手を、一回ギュッと握り締めると手を離した。
「さぁ、あとは二人でゆっくり話し合って」
 女医が目くばせすると、健介は立ち上がって頭を下げた。
「どうも……ありがとうございました。ほらっ、未来」
 未来の腕を掴むと、待合室へと促してソファに座らせた。
 会計も全て終えると、未来を外へ連れ出した。
 
 
「ごめんなさい!」
 病院から少し離れると、未来が足を止めて健介の腕を掴んだ。
「未来」
 何て声をかけていいのかわからない。
 だが、こういう結果になって、健介は本当に嬉しかった。やっぱり、子供は愛する両親の元から生まれるべきだと思うから。
 もちろん愛し合って結婚した後でも、いろんな選択があって別れる夫婦もいる。
 だが、俺たちの場合は……
「お願い信じて、わたし……偽ったワケじゃ」
「わかってる、それはわかってる」
 未来の目に、涙が溢れそうなほど溜まっていく。
「……ほ、んと?」
「あぁ。俺は、未来が本当に妊娠したと思い込んでしまったって思ってる。未来がそう思ったから、躯もそういう風に変化したって」
「ごめんなさい」
 下を向いた途端、涙がポロポロッと地面に落ちた。
「俺の方こそ、ごめん。こんなに、未来を苦しめて」
 唇を震わせながら面を上げる未来は、本当に辛そうだった。
 健介は、自分が負った面は一先ず横に置いておいて、未来の気持ちを軽くさせてやる事に重点をおいた。
「俺、この結果を受けてから……未来に告白しようと思ってたんだ。俺はお前を愛していないけれど、お前が俺と結婚して子供を育てたいのなら、それでもいいって」
 健介は、未来の両手を持ち上げると握り締めた。
「それで、未来が幸せになれるのなら、俺も頑張ろうって。でも、それって未来を侮辱してるよな。愛されてもいない男となんてさ。未来には、未来を愛してくれる男こそ相応しいのに。だからこそ、こういう結果になって俺は良かったと思ってる」
 健介は、未来の目を食い入るように見つめた。
「俺は……やっぱり一人しか愛せないんだ。その相手は未来じゃない。悪いとは思う、お前を裏切って乗り換えたのは俺だから。でも、そんな俺といるより、もっと素敵な相手が現れるよ。未来に欠点はないんだから。今まで俺だけに向けていた視線を、もっと他に向けてみてくれないか? きっと……お前をとっても愛してくれる人がいる筈だから」
 未来は、一瞬瞼を閉じ、再び健介を見上げた。
「教えて……わたしと菜乃さんの違いは何?」
 何故未来が菜乃の名を知っているのかと訝しげに思いながらも、健介はゆっくり口を開いた。
「違いなんてわからない。ただ、彼女は……ずっと俺の胸にいたから。小さい頃に別れたっきり会っていなくて、たまに思い出す存在だったんだが、成長した彼女と再会して……俺は」
 健介は思わず瞼を閉じた。
(なのに、俺は愛する菜乃を傷つけたままだ! 早く謝って……何とかしたい。もう一度、俺にチャンスを与えて欲しい。)
 いつの間にか、手を握り返されてるのに気付き、健介はハッと我に返った。
「行って……健介。菜乃さんと仲直りして」
「未来、どうして……」
(何故、知っているんだ? 俺と菜乃が……現在別れた状態になっているという事を)
「わたし……やっとふっ切れたような気がする。別れを切り出された時、そして友達関係に戻った時でも、どこかでまだ健介の事を諦めきれてなかった。想像妊娠までしてしまった時は、これで健介は戻って来るとさえ思ったもの。でも、健介に絶対結婚はしないって言われて、わたしは怖くなってしまった。このまま子供を産んでいいのかって。食欲はなくなるし、吐き気は止まらない……頭がパニックになってしまって」
 未来が一瞬目を閉じるが、すぐに健介と視線を合わせた。
「今日こういう結果になって、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。なのに健介はきちんと言葉にしてくれて、わたしの為を想っていろいろ言ってくれた。それを聞くうち、愛してくれていない人を留めておく事は出来ないって思ったの。そうよね? わたしだけを愛してくれる人を見つける方が、素晴らしいもの」
 泣き笑いをする未来を見て、健介は胸が締めつけられた。
 未来がムリをしているのがわかったから。
「大丈夫。わたしは……これから新たな人生を歩んでいける。だって、まだ若いものね」
「……あぁ」
 健介は、そうとしか言えなかった。
「今まで、本当にありがとう。健介に愛された思い出は……忘れないよ。さぁ、行って。早く、菜乃さんの元へ行ってあげて」
「未来」
「いいから、行って!」
 こんなにも不安定な未来を置いていけない。
 だが、ここで優しさを示すと……せっかくの未来の決心を鈍らせる事になる。
 健介は、歯を食いしばって……菜乃を選ぶ事に決めた。
「今までありがとうな、未来」
 健介は、後ろを振り返る事なく歩き出した。
 ごめん、ひどい目にあわせてごめん。
 視界がぼやけるのを感じると、健介はしっかり瞼を閉じて涙を振り払った。
 次は……菜乃と向き合わなければならない。
 自分の気持ちを、全てを吐き出さなければ!
 健介は、路地を曲がり未来の視界から消えたのを感じると、そのまま菜乃の住むマンションに向かって走り出した。

2004/07/16
  

Template by Starlit