『それぞれの涙』【2】

side:志月
 
 志月は、兄夫婦が留守だと承知でドアを開けた。部屋には、菜乃が一人だけいる筈。
(……俺に何でも頼むなよ。俺の気持ちがわかっているクセに、こうやって何かあると俺に泣きつく。兄貴の策士が!)
 靴を脱ぐと、少し開いたままになった菜乃の部屋を覗いた。そこには誰もいない。
 となると、リビングか。
 ガラス・ドアを開けると、テレビの前のソファに座る菜乃の頭が見えた。
 俯いてるその仕草、淋しそうな背……自分の殻を必死に守ってるその姿を見て、志月の胸に刺すような痛みが走る。
 どうにもならない痛み、消し去る事が出来ない痛み、胸を焦がすような……想いが、志月をどんどん蝕んでいく。
(いつ……俺はこの呪縛から解き放たれるのだろうか?)
 
 志月は大きく息を吸うと、ゆっくりソファに近付き、菜乃の隣に立った。
(しっかりしろ、菜乃! そんなお前を見る為に、俺はずっと見守ってきたんじゃないぞ)
 志月は、菜乃の頭にそっと触れた。菜乃は、ビクッとなりながら面を上げた。
 その目に浮かぶ苦痛を見た瞬間、菜乃がとても苦しんでる事が伝わってきた。
(くそっ、俺があれほど菜乃を泣かせるなと言ったのに!)
 だが、志月はその荒れ狂う想いを無理やり押し込めた。
「……いつまで、閉じこもってるつもりだ?」
 志月は目を細め、菜乃の全てを観察しようと見つめた。
「別に閉じこもってなんか、」
「いるだろ」
 志月は、ため息を一つ吐くと菜乃の隣に腰を下ろした。
「……男は、青年だけじゃない」
 そう、アイツだけじゃない。お前の周囲には、たくさんの男が存在するだろう? ……わかっているのか?
 菜乃は、抱きしめたままのクッションへと視線を落しす。
 そんな菜乃を見てると、志月の中で険悪な感情が芽生えていくのがわかった。
 志月の大切な菜乃を傷つけた青年に対して。志月の……気持ちに全く気付かない菜乃に対して。そして……何も動こうとしない自分自身に対して!
「お前を二股にかけるような男とは、別れて正解だ」
「わかりきったような事を言わないで。わたしの気持ちなんかわからないくせに」
 菜乃は、か細い声で反撃した。その言葉に、志月は思い切り奥歯を噛み締めた。
(俺を……邪険に扱うのか? お前が、この俺を?)
「……お前よりダテに長生きしてるんじゃないんだぞ? 経験にしろ……想いにしろ、俺はお前よりいろんな事を学んできたさ」
 志月は怒りを押さえながらも、無理やり平静を装った。
「だからって、わたしの気持ちがわかるワケじゃない! この気持ちは……わたしでさえもてあましてるのに、そんなわたしの気持ちを、志月にわかるワケないよ」
 菜乃は、再び顔をクッションに埋めた。
(わかるワケない……だと? その気持ちを一番よく理解している……この俺に向かって?)
 志月は、思い切りソファに凭れた。ギシィとソファが揺れる。
「……お前に、俺の何がわかる? 俺の本音すら知らないお前に、そんな事を言われる筋合いはない!」
 何にも知らないクセに、そんな言葉遣うんじゃない。
 しかし、菜乃に志月の気持ちなどわかるワケなかった。
 なぜなら、菜乃が今まで志月の気持ちなど知った試しがないのだから。
「知らないワケないじゃない。わたしが小学生の頃からの付き合いなんだよ? 志月の事はよくわかってる」
 その言葉に、もう我慢がならなかった。
  
 ――― ガシャンッ!
  
 怒りをぶちまけるかのように、志月はローテーブルの端を足で蹴った。中央にあった小さな花瓶が倒れ、ドポドポッと水が零れて水たまりを作り始める。
 菜乃は、驚きの表情で志月を見つめていたが、身を起こして志月の腕にそっと触れた。
「……志、月?」
「触るな」
 無理に冷静を装い、歯を食いしばりながら言うと、菜乃の手をサッと払いのけた。
 突然触れられて、志月の心臓が激しく高鳴るが、そんな触れ合いはゴメンだった。
「な、何で?」
「だから言ったんだ、お前は俺の事などまるっきりわかってないってな」
(全く持ってわかっていない。俺の気持ちが荒れ狂っている今、気安く触るとは……)
「そう、だね。志月の全てを知ってる……みたいに言ってごめんなさい」
 払われた手を、菜乃は再びクッションに置いた。
「……わたしが知ってる志月は、この家に居る時の志月だもの。学校や会社での志月を知ってたワケじゃないものね」
 急に瞳を曇らせ俯く菜乃を見て、志月は気持ちを落ち着かせようと努力をした。
「……お前、これからどうするんだ?」
 どうするんだ? 青年を忘れるのか? それとも他の……男と?
 一瞬で、志月の胸が熱くなった。
 菜乃は、そんな志月の思いを読み取る事もなく、自然に肩を竦めた。
「そうだね、健介より……いい男でも探すかな」
 そう言いながらも、菜乃の目は生気を失ったように曇った。
 予想どおりのその言葉に、志月は爆発寸前まで追い込まれた。
(青年なら、良かった。お前がアイツを求めていたから。だが、何とも思っていない男に身を任すというのなら……俺は!)
 志月は、思わず今まで秘めていた想いを口に出した。
「なら……俺にしろよ」
 菜乃が、どういう反応を見せるか怖かった。
 だが、菜乃は志月の想いとは裏腹に、優しく微笑んだのだ。
「……本当、志月みたいな彼氏がいたら最高だよね。すぐ捨てられるのが目に見えてるけれど」
(俺は、お前を慰める為に言ったんじゃない)
「相手がお前なら、捨てたりしない」
 志月は、一言一句はっきりと言った。
「えっ?」
 菜乃は眉間を寄せて、志月を見上げた。やっとその言葉の意味を理解し、必死に考え始めたようだった。
 初めて、志月を叔父としてではなく男として見てくれた。
 志月は、菜乃が抱きしめてるクッションを忌々しげに見ると、二人の境界をなくすようにそれをを掴んで後ろへ放り投げる。
「志月! 何するのよ……キャッ」
 志月は、いきなり菜乃を押し倒した。
(今の俺を見るんだ……菜乃。いつも側にいたのもこの俺なんだと、認識してくれ)
 菜乃は目を白黒させながらも、志月を見上げた。
「俺なら、お前を哀しませるような事は、決してしない」
「も、もちろん……志月がわたしを哀しませるような事はしないって、わかってるよ。いつだって、志月は……わたしの事を一番に考えてくれて」
 そういう言葉を、聞きたいんじゃない。
(俺が叔父に徹していたのは……全てお前の為を想ってやってきた事なんだ。もし……お前が俺の手を取ってくれるなら、俺は叔父の仮面をかなぐり捨てる準備はもう出来ている)
 志月は、いつでもその準備はしてきた。
「……俺の女になればいい。そうすれば、泣かずにすむ」
「志月……の女になれるワケないじゃない。わたしは、志月の姪なんだから」
「血は繋がってない」
 菜乃は、ビクッと躯を震わせた。
(お前は、俺を男として見る事は出来ないのか?)
「菜乃……、幸せにしてやるから」
 そう言いながら、志月は菜乃の顔へと近寄った。菜乃は、咄嗟に顔を背ける。露になった白い首筋に目を奪われた志月は、呻きながらそこに唇をつけた。
(ずっと……こうしたかったんだ。俺は、男として菜乃に触れたかった)
 叔父としてではなく。
 柔らかい肌、甘い女の香いを感じ、志月は感嘆の吐息を漏らした。
「今も、幸せだよ! 優しい両親に頼りになる志月が側にいてくれて、わたしはとっても幸せ。でも、これ以上志月に幸せにしてもらう事は何もない!」
「手に入れられない幸せを与える事も……出来る」
(俺なら、出来る!)
 志月は、菜乃が嫌がらずに横たわってるのを見て、少し勇気を持って細い腰に触れた。触れた瞬間、菜乃の躯が微かに震える。
 あぁ……、菜乃の震えを全身で感じたい。
「志月……、ヤダ」
 か細い声が、耳元で聞こえた。
(何故嫌がる? お前を側で見守ってきた俺なんだぞ? 側にいる俺は嫌で、見知らぬ男なら、触れられてもいいって事なのか?)
「……誰でもいいんだろ? 男を探すんだろ? なら、俺でもいいワケだ」
 菜乃は何も言わない。……志月との未来を考え始めたのだろうか?
 あまりにもその単純な考えが、志月の手を暴走させた。
 今までいろんな女を抱いたように、自然と菜乃の肋骨から乳房の下へと愛撫の手を動かした。消える事のなかった火が、どんどん勢いよく燃え始めてくる。
(菜乃……俺は、お前だけを、)
「健介!!」
 菜乃が、突然大声でそう叫んだ。その威力は絶大で、一気に志月の炎に水をかけた。
 ゆっくり身を起こすと、菜乃は顔を顰めて瞼をギュッと閉じていた。
(菜乃にとって……俺は男である前に叔父でしかないんだな)
 そして、菜乃の心を占めているのは……あの青年ただ一人。
 そう悟った瞬間、何とも言えない寒々とした空虚さを感じた。
 
 菜乃がしばらくしてから慌てて身を起こすと、志月は口を開いた。
「……お前はまだ青年を忘れていない、というのがわかったか?」
「えっ?」
 菜乃が青年を忘れられないのなら、志月が何をしても無駄だ。菜乃は、青年を選んだのだから。
 志月は、菜乃がきちんと座ったのがわかるとゆっくり視線をを向けた。
「まだ青年を想い続けてるんだ。あんな状況で叫んだのは、青年の名だった」
 菜乃の目には、涙がたまっていく。
(泣くな。俺の方が……泣きたいぐらいだ)
 だが、志月は男としての気持ちを、再び心の奥へと押し戻すと叔父≠フ立場を表に出した。
「……お前にとっての最高の男は……あの青年なんだ。それを、元カノに渡していいのか? 欲しいものは、何をしてでも手に入れるものだ。それが……例え誰かを傷つけるような事になっても」
 志月は、菜乃の手を振り解きたくなかった。
 だが、菜乃を想って無理やりその手を突き放した。
 菜乃の頬に涙が伝うが、彼女は必死に志月を見上げる。そんな菜乃を見ながらも、志月はゆっくり言葉を発した。
「お前が、本当に青年を望むのなら、戦わなければ。何もせずに諦めたりしたら……後で後悔する事になる。それはイヤだろ?」
 菜乃は、瞼を閉じながら頷いた。その拍子に、大粒の涙がポロポロと落ちる。
「善は急げ、だ。……行って来い菜乃。そして……青年を取り返して来い! それが、お前の今するべき事だ」
 菜乃は、ソファからヨタヨタとしながら立ち上がった。
「行って来る。どうして健介が……元カノとまた付き合い出したのか、わたしのどこがいけなかったのか……二人には、もう未来はないのか……きちんと訊いてくる」
「あぁ、そうしてこい」
 志月は、菜乃を安心させるかのように微笑んだ。
「ありがとう、ありがとう志月」
 菜乃が感謝を微笑むと、そのまま走り出した。
 
 
 ドアが閉った音を聞いて、志月はやっとソファにぐったりと凭れた。思わず目頭を指で押さえる。
 そうしなければ……今までの想いが涙となって溢れそうだったから。
(誰か……俺を慰めてくれ)
 志月は携帯を取り出すと、指が勝手に覚えた番号を自然と押し始めた。
『……はい』
 その柔らかい声を聞いただけで、志月の心はリラックスしていった。
「香帆(かほ)? ……俺」
 電話の向こうで、一瞬間が開く。
『……志月さん』
 後悔しているようなその声は、まだ根に持ってるという事か?
「香帆……俺を慰めてくれよ」
『嫌です。もうわたしに関らないって、あれほど約束したじゃないですか』
「俺を慰める事が出来るのは、香帆だけだ」
『嘘ばっかり! もう嫌なんです。お願い、もう連絡してこないで』
「嫌だ……今から行くからな。居留守は絶対許さない」
 そう言うと、志月は一方的に切った。
 菜乃に拒絶された今、香帆にまで拒絶されるのはたまらなく嫌だったのだ。
 志月はどんどん表情を強ばらせながら、玄関から出て行った。

2004/07/08
  

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