『ふたりの関係』

 菜乃は、健介の家に向かって走っていた。汗が胸の谷間にツゥーと流れていくが、そんな事は一切気にしなかった。脳裏にあるのは、健介と話す事。
 ただ、それだけ!

 ―――〜♪

 菜乃は、携帯が鳴っているのに気付き、足を止めた。
 誰?
 携帯のディスプレイを見たが、知らない番号だった。しかも、携帯に登録されていない番号ときている。
 間違い電話だろうと思ったが、何かが菜乃を突き動かした。
「はい?」
『……ぁの、菜乃さんですか?』
 その女性の声音は震えていながら、とても優しそうだと直感した。彼女の囁きに、菜乃は神経を集中させる。
「そうですけれど、あなたは?」
『わたし……未来と言います。菜乃さんは、わたしの事を知らないかも知れないけれど、わたしは貴方の事を知ってるの。……健介の口から、菜乃さんの事を聞いていたから』
 健介!
 その名を聞いて、菜乃は一気に血の気が引いた。足が乱れ、そのままフラフラと側にあった店舗の壁に寄りかかる。携帯を持つ手が、ブルブルと震える。
 震えを抑えようと手に力を入れたが、意識をすればするほど震えは激しくなった。
 彼女は……健介のカノジョ。高校時代から付き合ってきたカノジョで、一緒にラブホに入って行った時のあの女性に違いない。
(どうして? どうしてわたしに電話なんか? それに、何故番号を知っているの?)
『……突然電話してしまってごめんなさい。でも、わたしは一言貴女に言いたくて』
 責められる。菜乃は、照りつける太陽を見ながら唇を噛んだ。
 女同士の争いは醜い。いつもそう思ってきた。だからこそ争いを避けてきたのに、こうして健介のカノジョから電話がかかってくるなんて。
 ……彼女を巻き込みたくない!
「ごめんなさい、わたし知らなかったの。貴女が健介と付き合ってるって。知らずに健介と付き合ってしまった。本当にごめんなさい」
『えっ?』
「……もし、健介に彼女がいたって知っていたら、わたし……自分の気持ちが暴走する前に諦めるようにしてた。今さら何を言っても信じてもらえないかも知れないけれど、それでもわたしは、」
 菜乃は、途方にくれながら手で目を覆った。
(嘘ばっかり。健介と再会した時点で……わたしの気持ちは既に健介に向かっていたのに)
 健介からはじめまして≠ニ言われた時、コンパに来た女と見せかけてはいても、心は既に健介を意識していた。
 友達の悠子とキスしている姿を見た時なんて、胸が張り裂けそうだった。
(……既にあの時から、わたしは健介を!)
『……信じるわ』
「えっ?」
 突然のその言葉に、菜乃は茫然となった。耳に、彼女の苦しげな吐息が聞こえてくる。
『……そうでなければ、健介は菜乃さんを愛さなかったと思うから』
 あ、愛? それって。
 その言葉に一気に躯から力が抜け、菜乃は壁に凭れながらズルズルと座り込んだ。
『わたし、健介が好きだった。本当に好きだった。順調だった……とは言えないけれど、でも二人の仲は上手くいってた。そんな時、突然フラれたの。好きな女が出来たって。わたし、納得がいかなかった。わたしの何がいけなかったのって思った』
(わたしと同じ……)
 菜乃は、未来の言いたい事が手に取るようにわかった。
『でもね、今はわかる。わたしの何かが悪かったんじゃない。健介は見つけてしまっただけ。心に秘めていた女性……菜乃さんを。菜乃さんの全てが、健介の全てなんだって。だから、わたしではダメなんだって』
 どういう事? 未来さんではダメって、いったい何を言ってるの?
 菜乃はその言葉を理解しようとしたが、どんどん眉間に皺が寄るだけだった。
『一ヶ月前、わたしにある異変がおきたの。恥ずかしい話なんだけれど、妊娠したと』
「妊娠!?」
『……えぇ。その相手は健介だと』
 菜乃は、頭をガツンと殴られたような感覚に陥った。
 耳の奥で不協和音が鳴り響くのを感じながら、菜乃はもう健介とは元に戻れないのだとわかった。
 そして、健介の態度が変わった時期と、未来が妊娠した時期が見事符号していたと気付く。
(ははっ、だから健介はわたしと一緒に居ても上の空だったんだ。だから、健介は……わたしと別れたんだ)
『……菜乃さん? 勘違いしないで、それはわたしの想像妊娠だったから』
「えっ?」
 想像、妊娠?
『恥ずかしいんだけれど、本当に妊娠したと思ったの。それに気付いた時、健介に連絡して事実を告げたわ。彼、認知はするけれど結婚は出来ないってはっきり言ったの。……菜乃さん、あなたを愛してるからよ』
 菜乃の頭は、パニック寸前と言ってもいい。告げられた情報が、あまりにも複雑過ぎる。
 菜乃は何も答えられず、ただ未来の話す言葉に耳を傾けた。
『検査薬で調べただけで、わたしは途方に暮れていたの。健介に愛されてもいないのに、彼の子を産むべきかどうか。シングルマザーとなっても、育てていけるのか。いろいろ考え過ぎてしまって、わたしは不安に苛まれてしまったの。それは彼も同じだった。菜乃さんを愛してるのに、わたしの事を心配して、どんどん神経がすり減ってしまった』
 この行き着く先は何? どうなるの?
 菜乃は立ち上がる事もなく、ただ携帯を握り締める。

『今日、健介が訪ねてきて、病院へ行こうって言ったの。それから全てを考えようって。あの時、彼がもう何かを決めているのがわかった。わたしが何を言ってもムリだってわかった。それで、今日病院へ行って……そこで初めて妊娠はしていないってわかったのよ』
 未来は、そこで一息つくと再び口を開いた。
『わたしと健介はね、もう別れていたの。でも、この妊娠騒動で二人は会うようになった』
「……どうして、わたしに?」
『健介が、菜乃さんを愛してるからよ。愛してるのに、今日の診断結果を経て、彼はわたしに愛のないプロポーズをするつもりだったと白状したわ。それを聞いて、わたしは健介との恋が……やっと終わったと感じたの。今までも終わったって思ってたけれど、心のどこかではまだ健介を求めていたのね。でも、いろんな話をしているうちに、健介にとってわたしは過去の女で、わたしにとっても健介は過去の男になったんだってわかった』
 菜乃は、涙が溢れそうになった。健介を取り戻せる嬉し涙ではない、真実を知った涙でもない。彼女の気持ちが、手に取るようにわかったからだ。
(未来さんは、まだ健介を過去の男にしていない。それなのに、こうして……恋敵でもあるわたしに電話してきてくれた)
 その素晴らしい心を持った未来の強さに、心打たれたのだった。
『健介は、今やっと自由の身になって、菜乃さんの元へ走って行ったわ』
「えっ? わたしのところへ?」
『彼を責めないであげて。……わたしに口を挟む資格がないの事はわかってる。でも、健介は……わたしの間違った思惑に翻弄されていただけなの。彼は必死になって自分の気持ちと、子供への気持ちに、板挟みにあっていた。ただそれだけなの!』
 どうして、ここまで健介の為に出来るの? まだ健介への気持ちが燻っているというのに……。
 菜乃の目に溜まっていた涙が頬を伝り、唇の端へと流れ落ちる。
「ありがとう、未来さん」
 安堵のため息なのかわからないが、心地よい吐息が耳に届いた。
『健介と、幸せになってね』
「えぇ」
 そう答えるだけで精一杯だった。
 通話が切れたのを確認してから、菜乃もボタンを押して携帯を閉じた。
 そうだったんだ、そうだったんだね、健介。健介は、ただ必死にどうするか悩んでいただけなんだね。
 だけど、今真実を知ったからこそ言える。一言でもいいから、きちんと理由を教えて欲しかった。
こういう状況に陥ってしまったんだ≠チて、素直に相談して欲しかった。
 だけど……それは健介にとって出来ない事だったんだね。
(わたしが真実を知って、どういう態度を取るのか不安だったんだよね)
 あの日……遊園地で、健介は菜乃の膝に手を伸ばして縋り付くような視線を向けた。
 聞いてくれ≠ニ。
 それなのに、菜乃はその手を拒絶し二股をかけた事で健介を罵った。健介が追いかけてくれなかったのは当然と言える。健介自身は裏切っていなかったのに、菜乃がそれを信じて批難をしたから。だから、健介は、菜乃との関係を終わりにした。
 健介ばかりを責められない。
(彼を信じなかった責任は、わたしにもあるんだから)
 なのに、健介は今菜乃に会おうと家に向かってるらしい。
 もう、すれ違いになりたくない! もう一度、やり直したい!
 菜乃は震える足に力を入れて立ち上がると、深く深呼吸をした。
「よし」
 躯に力を込めると、自分の家があるマンションへと走り出した。
(未来さん、ごめんね……そして、わたしと健介のためにありがとう)
 菜乃は、何度も何度も心で囁いていた。

2004/07/21
  

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