side:菜乃
遊園地の入り口で、菜乃と健介は見つめ合った。菜乃の表情は強ばり、健介の表情は青ざめている。
「ごめんね、ムリ言って」
「いや、……最近デートらしいデートしなかったし」
最後のデートだけどね。
菜乃は哀しみを堪えるように、グッと奥歯を噛み締めた。
「今日は、いっぱい楽しもうね」
菜乃は、健介の腕に手を絡めた。一瞬で、健介の躯が強ばるのがわかったが、菜乃は気付かないフリをしてゲートをくぐった。
(今日だけ……、今日だけわたしと一緒に楽しんで。お別れだから。もう、健介とは今日で終わりなんだから)
* * * * *
―――昨日。
『菜乃か!?』
「……うん」
健介と元カノの現場を見てから、2日後の事だった。
それまで、健介からの連絡は全て断ち切っていた。そうしなければ……決心がぐらつきそうだったから。
『……俺が、どれだけ連絡を取ろうとしていたのか知ってるのか?』
心配そうなその声に、菜乃の胸がチクッと痛む。
(心配してくれる相手が、わたし一人だったら良かったのに。健介が想う相手は、わたしだけならいいのに)
菜乃は、深呼吸して口を開いた。
「ごめんなさい」
一瞬、沈黙になる。
それを破るように、菜乃は口を開いた。
「……ぁのね、明後日の日曜、遊園地行きたい。健介の……予定空いてるかな?」
『……空いてる』
思わず、ホッと胸を撫で下ろす。
「良かった。わたし、いっぱい遊びたかったの」
無理やり楽しそうな声で話し、健介が口を挟む間もなく遊園地の名と時間を指定した。何か異変を感じ取られる前に、一方的に話を終えて電話を切ったのだった。
* * * * *
「今日は、お弁当頑張って作ったんだ」
紙袋を見て、健介が手を伸ばした。
「持つよ」
「うん」
菜乃は素直に、紙袋を手渡した。
「夢だったんだ。こうして彼氏と一緒に遊園地に行って、お弁当を食べるのって」
そして、これからもいろんな場所へ行きたいって。叶わぬ夢に想いを馳せた為か、無意識に力が入る。
「菜乃、痛い」
その声で、思いきり健介の腕に爪を立てているのがわかった。急いで力を抜く。
「ごめん、健介」
ゆっくり健介の腕を撫でながら、菜乃は面を上げた。そこには、苦悩に満ちた……健介の顔があった。
その辛そうな目を見て、菜乃は胸を激しく叩かれたような痛みを覚えた。その痛みから逃れるように、素早く視線を逸らす。
(ダメ、決心したんだから。わたしの過ちを正そうと決めたんだから)
だから、今日は……いい思い出を作って締め括りたい。健介の為にも菜乃の為にも、気持ちよく別れたい。
にっこり微笑んで、健介を見上げた。
「何乗ろうっか?」
急流滑りに乗り込んだ時、思わずドキッとした。健介の前に座った途端、ウエストに腕を絡めてきたから。
健介の温もりが、背中を通して伝わってくる。我知らず、その温もりを求めてる自分がいた。だからなのか、自然と健介に凭れている。
(弱い、弱いよ……わたし)
肩ごしに振り返ると、健介がジッと菜乃を見下ろしていた。彼の薄らと開いた唇に目が釘づけになる。
視線を上げると、情熱を浮かべた健介の眼差しとばっちり重なった。
(きっと……わたしの目も、健介と同じように相手を求めてる。健介だけを!)
健介の顔が下がってきた。
キスされる!
本当は避けなければいけない、別れると決めたのだから。
でも、一回だけ……この一回だけ許して。
菜乃は、ゆっくり瞼を閉じた。
瞬間、健介の荒々しいキスが襲ってきた。まるで何かを貪るように、全てを求めるようなそのキスに、菜乃も全身全霊で応えた。周囲にいる家族連れや、子供のグループなんてもう目に入らない。
だって、今日だけだから。健介の彼女としていられるのは、今日だけなんだから。
荒い息をしながら、顔を離す健介を縋るように見つめた。しっとりと濡れ、赤くなった健介の唇は微かに震えている。
あの唇に触れたい。
そう思ったが、菜乃は気持ちをグッと抑えて前を向いた。軽やかな風を頬に受け、菜乃は呟く。
「……気持ちいいね」
「……あぁ」
今は、それだけで十分。
菜乃は、ウエストにある健介の腕をしっかりと握っていた。
ちょうど区切りがつき、十三時を過ぎた頃。
「お弁当食べよ」
菜乃は、木陰を指した。まだ残暑が厳しいが、健介と二人だけになりたかった。
「暑くないか?」
「うん、大丈夫」
健介の手に、手を滑り込ませるとその芝生へと歩いた。敷物を敷くと、四隅にきちんと石を乗せる。
「ははっ、そういうところ、変わってないな。ナノハナは」
菜乃の心臓が、その言葉で一瞬激しく撥ねた。
ナノハナ……。
(今の言葉で、わたしは健介の幼なじみという立場になったの? バカだよ、わたし。もちろんそうに決まってる)
健介は、菜乃よりも元カノとヨリを戻す方を選んだのだから。
「そうなの! すぐに、生活習慣が変わるワケないんだからね」
菜乃は目を伏せて、心の奥に潜む思いを読み取られないようにお弁当を広げた。
「健介の口にあうといいんだけれど」
「そんなの、あうに決まってる。俺は、菜乃が作るモノなら何でも食べるよ」
「健介の大嫌いなモノでも?」
「当然」
直球で戻ってくる健介の言葉は、菜乃をとても喜ばせてくれる。
もし、元カノとヨリが戻っていなかったらこのまま健介に抱きついていたかも知れない。彼女として、健介に愛情をたっぷり示したかもしれない。
だが、菜乃は真実を知っている。そういう行動を、もう取ってはいけない。
既に、キスという行為もしてしまったんだから。
「いただきます」
「どうぞ」
おしぼりで手を拭くと、健介はおにぎりを食べた。
「うんまい!」
その微笑みに、菜乃も笑みを返す。
「良かった〜。これでも料理は大好きなんだ。あっ、卵焼きなんだけど、どっちが好きかわからなかったから両方作ったよ」
健介は、差し出された卵焼きを一つ食べ、また違う卵焼きを一つ食べた。
「俺の家は、砂糖入り卵焼きが普通なんだけど、お弁当だと塩入りの方がいいかもな。まっ、菜乃の手作りならどっちも美味しいけれど」
(気を使ってくれてるの? わたしががっかりしないように?)
……今さら健介の好みを覚えても仕方ないけれど。
そう思いながらも、菜乃は健介好みの味つけをしっかり記憶した。この楽しい一時を記憶するかのように。
食後はウィンドーショッピングとなった。
ぶらぶら店から店へと渡り歩き、手作りクッキーを作っている職人や、ガラス細工を作る職人を見た。
チーズ作りを体験したり、ウィンナーの試食までも楽しみながら店から店へと渡り歩く。
そんな風に楽しんでいると、菜乃の目にあるモノが飛び込んできた。
「あぁー! 見て、健介。ステンドグラス! 綺麗……」
隣で、健介がプッと吹き出した。
「またかよ。菜乃は、本当にステンドグラス好きだな」
「仕方ないよ。綺麗なものは綺麗なんだから」
健介が、ステンドグラスに興味がないって事知ってる。
でも、口では興味なさそうにしているのに、こうして菜乃が夢中になって見ていたら、後ろでソッと控えてくれる。
そういう男性と、また巡り会えるかな? ……健介以外の男性と。
菜乃はステンドグラスに魅入っていた為、健介が途中でいなくなった事に気付かなかった。
しばらく経つと、健介が菜乃の肩に手を置いた。
「まだ見たい?」
菜乃は頭を振った。
「ゆっくり見れたから。行こう。いつの間にか、陽が落ちてきてるし……ね」
陽が傾いた景色を見て、菜乃は……時間は決して待ってくれないという事をしみじみと感じた。
この日が終わらないで欲しい。楽しい時間を終わらせないで。いくら、そう願っても……叶う筈ないのに。
「観覧車乗ろう!」
菜乃は、健介の手をグィグィ引っ張った。
「暑いぞ?」
「いいの、乗りたいんだから」
そう、乗り込んで……二人だけの空間を作って言うつもりだった。
別れよう……って。
それが、健介の望みだとわかっているから。
「はい、どうぞ」
ドアを押さえられている内に、菜乃が先に乗り込み、健介が後を追った。
―――ガチャン。
その扉を閉る音を聞いて、菜乃は二人きりになったと実感した。別れの時がやってきた。
地上がどんどん遠ざかる。メリーゴーランドやコーヒーカップが小さくなる。人もアリのように小さくなり、今存在するのは二人きりのような錯覚にさえ陥る。
その時が来た。
唾をゴクリと呑み、頂点まであと少しというところで、菜乃は健介を正面から見据えた。
「健介……今日で、わたしたち別れよう」
外の景色を見ていた健介の躯が、ビクッと震えたのがわかった。驚愕に満ちた目で、ゆっくりと菜乃の方へ視線を移す。
「……どうして?」
微かに掠れたように感じたのは、気のせい?
菜乃は、そう思いながら肩を竦めた。
「ずっと考えてたの。健介は、わたしを見ていないって。それに気付いたから、わたし……健介を解放してあげようと思って」
「ち、違う、菜乃」
(やめて、今さら……元カノとわたしの違いを比べてなんて欲しくない)
……違う、菜乃が元カノと呼ばれることになる。健介の幼なじみという場所に戻ってしまう。
ずっと閉じ込めていた想いが、胸の奥から沸き上がってくる。目が熱くなり、菜乃は思わず瞼を閉じた。
「……今まで楽しかったよ健介。わたしの殻を破ってくれた事、一目でわたしが誰か悟ってくれた事。そして……何よりわたしのバージンを貰ってくれた事」
瞬間、膝に何かが触れるのを感じ、目を開けた。健介が正面から手を伸ばして、菜乃の膝に触れていた。
「やめて、触らないで!」
膝を引いて、端へと躯を動かす。
「菜乃」
そう囁きながら、傷ついたような目をしている健介。
(どうして? どうして健介が傷ついたような目をするの? 傷つき、裏切られたのは、このわたしなのよ? わたしが、傷ついてるのよ?)
地上から遠く離れたと思っていたのに、いつの間にかどんどん元の世界へと戻って行く。決して逃げる事は出来ない、現実に立ち向かうしかない……というように。
アリのように見えた人たちが、もう既に人だとわかる。
魔法の時間は、終わる。健介との時間は終わってしまう。この空間から出たら……すぐに。
「菜乃、聞いてくれ。俺はずっと隠してきた事があるんだ」
隠してきた事……それはつまり、元カノだった彼女と、現在(いま)付き合ってるって事?
菜乃は、健介の言葉を拒絶するように、手を突き出した。
「言わないで。わたし、わかってるから」
「わかって、る?」
健介の眉間が動く。
「それって、どういう?」
赤い服を着た観覧車の従業員が、菜乃の視界に入る。
もうすぐ、第三者が二人の世界に入ってくる。早く、早く言わなくちゃ!
「わたし、嫌な女になりたくなかった。なのに、いつの間にか嫌な女になっていたんだね。ごめんさい、わたし全く気付いていなかったの。健介に彼女がいたって」
健介が、勢いよく息を吸うのがわかった。
きっと、菜乃が知っていると思わなかったんだろう。
「わたし、二番目の女になんかなりたくない。好きな人の一番目でいたい。でも、わたしは健介の一番目じゃないってわかったの」
健介の口が、パクパク動いている。
何か言いたいの? それとも、的を射られたから何も言えないの?
もう、いい。どっちでもいい。健介は、答えを出しているんだから。あのラブホに入ったと同時に、菜乃を切り捨て彼女を選んだのだから。
「……菜乃、俺の一番は菜乃だよ。菜乃しか見えてない!」
「なら、どうして元カノとラブホへ行くのよ!」
―――ガチャ。
「ありがとうございました」
その声で、この二人きりの空間が破れた事に気付いた。
菜乃は立ち上がった。
「彼女と幸せにね」
そう捨てゼリフを言うと、菜乃は降りた瞬間走り出した。
……健介は菜乃の名を呼んだりはしなかった。追ってこようともしなかった。
健介は、はっきり示したのだ。二人の関係が、終わったという事を……