『おぼろ月』

 その強い刺激に咽せそうになり、思わずゴホッと咳を漏らした。
 一息ついてから視線を上げると、志月が観察するように菜乃を見つめていた。
 どうして志月に電話してしまったんだろう? まだ仕事だって終わっていないっていうのに。
「志月、ごめんね。電話して。仕事あるのに」
「気にするな。これでも俺は優秀だからな。会社だって金の生る木≠みすみす手放すものか」
 志月も菜乃と同様に、グラスを煽る。
「さてと……それじゃ、どうして菜乃らしからぬ行動を取ったのか、説明してもらおうか?」
 き、きた……。
 菜乃は、ゴクリと唾を飲み込むと、握り締めたグラスに視線を落した。
 お風呂場で結論が出た事を話せばいい。それだけでいいのよ。
 菜乃は覚悟を決めるように、再び強いブランデーを一口呑んだ。
 
「わたし…自分の事しか考えてなかったみたい」
 菜乃は、グラスを傾けて氷同士をぶつけた。
「まぁ、確かにそうだな。お前は自分の事しか考えず、こうして俺に心配させるような行動を起こしたんだから」
 その言葉に、二の句も告げる事が出来ない。
「ごめんなさい」
「謝るより、明らかにして欲しいね」
 尤もな言葉だった。健介と菜乃の問題だったのに、志月まで巻き込んでしまったのだから。
(それは、わたしの責任……)
「志月にも、口すっぱく言ってた事あったよね?」
 志月が、グラスの縁から真っ直ぐ菜乃を見返す。その瞳には、何の感情も浮かんではなかった。ただ、全て受け止めてやる……というオーラは出ていた。
「わたし、志月には……いろんな女性と恋愛するのはいいけれど、絶対恋人の仲を裂くような、そういう行動はダメって何回も言ってきた」
 そう、いつも言ってきた。志月は、いろんな女性と付き合うがいつも長続きしないから。
 だからこそ、幸せそうにしている恋人の仲を裂いて一時の情熱に走るのはよくないと言ってきた。
 そう思っていたからこそ、何度も言ったのに……
 菜乃は、お酒の力を借りるかのように、もう一度グィとブランデーを呑む。
「わたし……言ってたのに……まさか自分がそういう事をしてしまうなんて!」
 グラスをきつく握り締めた。
「青年が、二股かけていたと言うんだな?」
 その声に潜む怒気に、菜乃はハッとして面を上げた。
「ち、違う! そうじゃないの。……健介と出会う前、健介には彼女がいた。わたしは、そうとは知らずに二人の間に割り込んでしまった。……彼女から健介を奪ってしまったのよ」
 そう、付き合っていた彼女を押しのけて、菜乃は健介を奪ってしまった。
 何て……ひどい事をしたんだろう? 何て、残酷な事を。
「根本的に間違ってるな。それは、お前の問題じゃない。青年の問題だ」
 菜乃は否定するように、何度も頭を振った。
「菜乃!」
 勢いよく肩を掴まれ、菜乃はビクッとした。
「前から言おうと思っていたが、お前の考えは凝り固まってる。好きな人に誰か他の女がいたら潔く諦めるのか? お前がいくらそいつを好きでも?」
 菜乃は、呆然と揺すぶられるままになった。
「それは、恋じゃない、愛じゃない。……多分、菜乃の事だ。青年と別れる…という考えかも知れない。だがな、そういう結果を望んでいるというなら……所詮お前は青年を好きですらなかったって事だ」
「なっ、何て事言うの? 好きだよ。とっても好きだよ。今までだっていろんな人いたけど、健介に感じた想いを他の人に感じた事なんて一度もない!」
 志月は、切実なる想いを聞き出せた事に満足しながら、愛情を込めて……菜乃の柔らかい頬を甲で軽く撫でた。
「……ほら、な。菜乃の中では、青年はなくてはならない存在なんだよ。今、混乱しているだけだ。青年はお前を大事にしている。俺が言うんだ、間違いない」
「なら、どうして昔の彼女とラブホに入るの?」
 その瞬間、志月の目が凍りついた。
「どういう事、だ?」
 言ってはいけない事を言ってしまった。
 菜乃は、奥歯をギュッと噛み締めて視線を避ける。
「志月には関係ない、だからもう訊かないで」
「ここまで迷惑かけといて、関係ない事はないだろ」
 抑え気味だが、長年の付き合いで志月がとても怒っているのがわかる。
「菜乃」
 有無を言わさない、その声音。
 菜乃は表情を青ざめながら、その言外に含まれる感情を読み取った。
 これ以上、隠す事は絶対出来ない。もし、ここで言わないと言っても、志月と押し問答になる。そして、結局は菜乃が負けてしまう事になる。
 いつもそうだったから。
 菜乃は意を決し、再び視線を志月に向けた。
「今日、健介を大学の正門で待っていたら……カップルが出てきたの。とっても親密そうだった。たまたま、その場に居た健介の友達に聞いたら、わたしと出会う前に付き合ってた彼女らしくって……二人はそのままラブホに消えたの」
 何故、健介の大学に行ったのかは言わなかった。というか、言いたくなかった。
 それ以前から、健介の態度が変だったなんて……どうして言えるだろう。言えるワケない、そんな恥さらしな事を言うなんて、それだけは絶対にダメ。
「アイツが菜乃を裏切ったって事か……」
 そう言っていいの? 確かに裏切られたって気もする。
 でもそれは、菜乃の中にある何かが健介を裏切りへと走らせたのでは?
 氷が溶けて薄くなったブランデーを、菜乃は再び口に含んだ。
「どうするつもりなんだ?」
 どうする? そんなの決まってる。
「別れる……別れるよ。わたしは、健介の二番手なんて絶対イヤ。それに、二人の関係に終止符を打たせたのはわたしだし……。そうなると、退くのもわたしでしょう?」
 志月の強い眼差しが、菜乃を突き刺す。
「戦わずして逃げるのか? そんなものが……お前の恋だったのか?」
「戦ってどうなるのよ! 健介はもう選んだの。わたしより、元カノを」
 感情が昂ぶり、唇を震わす菜乃を見た志月は、腕を周して肩を抱き寄せた。
「お前は……まだまだ子供だな」
「何よ、子供って」
 菜乃は、いつものように優しくなった志月に安堵感を覚えながら、顎を突き出して軽く睨み付けた。
「恋愛に関しては、お子さまって事だ」
 お子さま!? ……志月に比べたら菜乃はお子さまかも知れないけど、恋愛した事のない志月に言われたくない。
「フンッ!」
「今日は、泊まって行くか? もしそうなら家に連絡しておかないとな」
 菜乃は立ち上がった拍子に、志月を見下ろした。
「泊まって……いいの?」
 志月は、気怠そうに肩を竦める。
「仕方ないだろう? 弱っている姪を助けるのも、叔父の役割さ」
「血の繋がらない姪なのに?」
「血なんか関係あるか。菜乃は、兄貴にとって大切な娘。となると、菜乃は俺にとっても大切な姪だ」
 その嬉しい言葉に胸を高鳴らせて、菜乃は視線を落とした。
「部屋行って、ちょっと休んでろ。俺が連絡しておくから」
 菜乃は頷いた。
「ありがとう、志月」
 感謝を込めながら、でも弱い笑みしか作れず……菜乃は戸惑いながらリビングから出て行った。
「あんのっガキ!!」
 その押し殺した志月の声は、菜乃には全く聞こえなかった。
 
 客用寝室に入ると、すぐベッドに腰を下ろした。
 本当は、こんな日になる筈じゃなかったのにね。
 自嘲しながら、立て膝をつくと顎を乗せた。
 開け放たれたカーテンの外では、既に雨は止み、月が光り輝いてる。まるで、泣くのはもう終わりだと言うように。
 本当、そうだね。
(そして、次にわたしがするのは……健介と別れる事)
 きちんとケジメをつけたい。何もなかったように、ずるずると付き合ってはいけないから。
 今までの楽しかった出来事が、走馬灯のように蘇る。
 初めてキスした時の感触、躯に触れられた時の感激、そして……初めて知った女としての痛み。全て、どれも素晴らしい思い出だ。
 もちろん、二人してデートした数々の思い出、失敗談も……忘れる事は出来ない。
(……あれ? わたし変だ。二人が一緒にいるところを見ても、一緒にラブホに入るのを目にしても、涙なんかでなかったのに、どうして今になって、こんなに月がぼやけるんだろう?)
 まるで、おぼろ月のように見える。
 菜乃は、どうして急に涙が込み上げてきたのか、全くわからなかった。わからないまま、菜乃は涙を流し……そのまま月を眺めていた。

2004/06/05
  

Template by Starlit