『遊園地での別れ』【2】

side:健介
 
 健介は、遊園地の入り口で菜乃と見つめ合った。
(俺が、これから先の事を考えて苦悩するのはわかる。だが、どうして菜乃の表情が微妙に強ばっているんだ?)
「ごめんね、ムリ言って」
「いや、……最近デートらしいデートしなかったし」
 事実、菜乃とデートはしても、未来との事ばかり考えていた。この先どうすればいいのか、どうすれば菜乃と別れずにすむのか。
(俺と元カノとの間に子供が産まれそうだと知っても、菜乃は俺と一緒にいてくれるだろうか? 認知しても、菜乃は……俺の側にいてくれるだろうか?)
 健介は、その考えが自分の我が儘だという事は十分わかっていた。わかってはいたが、どうしても考えずにはいられなかった。
 ……菜乃を、ナノハナを愛してるから。
「今日は、いっぱい楽しもうね」
 菜乃が、健介の腕に手を絡めた。久しぶりの触れ合いから、健介はビクッと震えた。
 あぁ、菜乃。
 この些細な触れ合いさえ、ずっと忘れていたような気がする。こんなに菜乃の事が好きなのに、いったい何をしていたんだろう?
 今すぐにでも菜乃をこの腕で強く抱きしめて……気持ちを伝えたい。
 だが、それはまだ出来ない。今はまだ無理だ。菜乃に秘密を打ち明けるまでは。
 突然、菜乃に引っ張られた。
 健介は、脳裏に浮かんだ思いを無理やり振り払いながら、ゲートをくぐった。
(あぁ、今だけ……今だけでいいから、俺は全身全霊この身を菜乃へ捧げたい)
 全てを忘れ、菜乃を愛する事だけが幸せだった日々を思い出したい。
 
 
 * * * * *
 
 
 ―――昨日
「菜乃!?」
『……うん』
 健介は、ずっと菜乃と連絡を取ろうとしていたが、あの日以降全く繋がらなくてイライラしていた。
 それは、あの屈辱的な日と見事重なる。未来が顔を青ざめて気持ち悪い≠ニ言ったあの日と。
 健介は未来の躯を心配して、近くにあったラブホへと避難した。
 そのまま彼女をベッドに寝かせて、俺はソファに座り、彼女の青ざめた表情を見守っていた。そうしていると、未来は俺に両手を差し伸べて……抱いて≠ニ懇願した。
 未来の顔には辛そうな表情が浮かんでいたが、俺はその手を取る事が出来なかった。優しさからでも、その手を取ってはいけないとわかっていたから。
 未来とラブホに居るという事実に、息苦しさを感じながらも、健介は強固に未来の躯の為だけを考えジッと耐えていた。
 そんな時に、菜乃から妙な電話が入ったのだ。
 そして、それ以降連絡が取れなくなり……
「……俺が、どれだけ連絡を取ろうとしていたのか、知ってるのか?」
 あの日以降、健介は菜乃に拒絶されたと思って半狂乱に陥った。延ばし延ばしにしていた現実を、予告もなく見せつけられたような気がしたからだ。
 その思いから逃れるように、健介はギュッと瞼を閉じて思考を遮断する。
『ごめんなさい』
 それは、どういう意味のごめんなさい≠ネのだろうか?
(あぁ、ダメだ。俺が勝手に疑心暗鬼に陥ってどうする。まだ何も起きていないんだぞ)
『……ぁのね、明後日の日曜、遊園地行きたい。健介の……予定空いてるかな?』
「……空いてる」
 突然の菜乃の誘いに、健介はすかさず答えた。今まで音沙汰がなかっただけに、この誘いは健介を喜ばせた。
『良かった。わたし、いっぱい遊びたかったの』
 菜乃が、遊園地と時間を指定し、電話を切った後……健介は一瞬眉を顰めた。健介の言葉を聞きたくないような感じがした。
 一方的に話して、それで終わり……のような。それっていったい?
 
 
 * * * * *
 
 
「今日は、お弁当頑張って作ったんだよ」
 健介は、菜乃が持つ紙袋を見て手を伸ばした。
「持つよ」
「うん」
 菜乃は素直に、紙袋を手渡した。
「夢だったんだ、こうして彼氏と一緒に遊園地に行って、お弁当を食べるの」
(俺だって、こうしたかった。もちろんこの先もずっと……)
 途端、腕に鋭い痛みが生じた。
 腕に視線を向けると、まるで何かを怖がっているかのように菜乃が震えている。恐怖を押し止めるように、健介の腕にしがみついている。
 どうしたんだ? 菜乃?
 菜乃の意識が、どこかに飛んでいるのがわかった。
「菜乃、痛い」
 健介は意識を自分に向けて欲しく、ゆっくり言葉を発した。菜乃は傍目からもわかるように、ビクッと震えるなり急いで力を抜く。
「ごめん、健介」
 菜乃は、ゆっくり健介の腕を撫でる。ただ、触れているだけなのに、その行為が親密な愛撫を思い出させる。
 もう、どれぐらい……菜乃と愛し合っていないんだろう? 今はそんな事が出来るワケないのにな。
「何乗ろうっか?」
 菜乃が、綺麗な笑顔を向けてきた。
 その笑顔が、健介の目に眩しく映ったのは言うまでもない。
 
 急流滑りに乗り込んだ時、思わずドキッとした。
 菜乃が健介の足の間に座ると、甘い香りが緩やかな風にのり、健介の鼻腔を刺激した。そして、柔らかい魅力的な躯が健介の前にある。
 健介は、思わず菜乃のウエストに腕を絡めた。
 菜乃はこんなに細かったか? ……それすら思い出せないほど、触れ合っていなかったという事か。
 健介が哀しく思った時、自然と菜乃が凭れてきた。温かい体温が、胸板から伝わってくる。
(あぁ、菜乃! 俺はお前が欲しい、お前の全てが欲しい!)
 その気持ちを感じ取ったのか、菜乃が肩ごしに振り返った。菜乃の眼差しと視線が重なる。
 菜乃……綺麗だ。
 まるで磁石が吸いつくように、健介は菜乃の唇を求めた。
 優しくキスをしたかった。
 だが、触れ合った瞬間、それは無駄な努力だと悟った。柔らかくて、甘い味……それら全てにおいて翻弄された健介は、奪うような激しいキスをした。
 そのキスに、菜乃も反応し自ら応えてくる。
(菜乃、俺だけの菜乃!)
 荒い息をしながら顔を離すと、菜乃が照れるように前を向いた。
「……気持ちいいね」
「……あぁ」
 これだけで、今は十分。菜乃が、こうして俺の腕の中にいる。それだけで……。
 
 ちょうど区切りがつき、十三時を過ぎた頃。
「お弁当食べよ」
 菜乃が、木陰を指した。
 しかし、照りつける太陽が肌を射す。
「暑くないか?」
「うん、大丈夫」
 菜乃が、健介の手に手を滑り込ませると、その芝生へと歩いた。敷物を敷くと、四隅にきちんと石を乗せる。
 その光景を見て、幼稚園の頃の菜乃を思い出し、健介は笑みを浮かべた。
「ははっ、そういうところ、変わってないな。ナノハナは」
「そうなの! すぐに、生活習慣が変わるワケないんだからね」
 菜乃は、お弁当を広げた。
「健介の口にあうといいんだけれど」
「そんなの、あうに決まってる。俺は菜乃が作るモノなら、何でも食べるよ」
 そう、菜乃が健介の為にしてくれる事なら、何でも喜んで受け取る。
「健介の大嫌いなモノでも?」
「当然。いただきます」
「どうぞ」
 おしぼりで手を拭くと、健介はおにぎりを食べた。
「うんまい!」
 その微笑みに、菜乃も笑みを返す。
「良かった〜。これでもお料理は大好きなんだ。あっ、卵焼きなんだけど、どっちが好きかわからなかったから両方作ったよ」
 健介は、差し出された卵焼きを一つ食べ、また違う卵焼きを一つ食べた。
「俺の家は、砂糖入り卵焼きが普通なんだけど、お弁当だと塩入りの方がいいかもな。まっ、菜乃の手作りなら、どっちも美味しいけれど」
 健介は、菜乃に向かって微笑んだ。
 こうして菜乃と一緒に……向かい合って食べられるだけで健介は幸せだった。
 
 
 食後はウィンドーショッピングとなった。
 ぶらぶら店から店へと歩き、手作りクッキーを作っている職人や、ガラス細工を作る職人を見た。チーズ作りを体験したり、ウィンナーの試食も進んで食べた。
 そんな風に楽しんでいると、健介の目にあるモノが飛び込んできた。
 うわっ、菜乃の態度が変わるぞ!
 そう思った瞬間、菜乃の歓喜に満ちた声が上がった。
「見て、健介。ステンドグラス! 綺麗……」
 思っていたとおりになり、健介はプッと吹き出した。
「またかよ。菜乃は、本当にステンドグラス好きだな」
「仕方ないよ。綺麗なものは綺麗なんだから」
 菜乃はそう言うなり、目の前にあるステンドグラスのランプや衝立に魅入った。
 そんな愛らしい姿を目の端で捕えながら、健介は売り物のステンドグラスを見た。今日の記念に、何か一つプレゼントしたかった。菜乃の好きなステンドグラスの一つを。
 どれにしようか迷ったが、ステンドグラス仕立ての小さな宝石入れに決めた。
 ピアスでも、指輪でも……旅行に行った時にはそこへ入れておく事が出来る。
 健介は、プレゼント用として包んで貰うと、未だ棒立ちの菜乃の後ろにつくとそっと肩に手を置いた。
「まだ見たい?」
 菜乃は頭を振った。
「ゆっくり見れたから。行こう。いつの間にか、陽が落ちてきてるし……ね」
 健介も、菜乃の視線を追って、陽が傾いた景色を眺めた。
「観覧車乗ろう!」
 菜乃は、健介の手をグィグィ引っ張った。
「暑いぞ?」
「いいの、乗りたいんだから」
 健介は、仕方ないなというように微笑んだ。
「はい、どうぞ」
 ドアを押さえられている内に、菜乃が先に乗り込み、健介が後を追った。
 
 ―――ガチャン。
 
 健介は、その無情な音にビクッとした。
 何をビクついてるんだ?
 その不安な思いを振り払うと、外の景色へと視線を移した。
 地上がどんどん遠ざかる。メリーゴーランドやコーヒーカップが小さくなる。人もアリのように小さくなっていった……その時だった。
「健介……今日で、わたしたち別れよう」
 外の景色を見ていた健介は、突然のその言葉にビクッと躯を震わせた。
 別れ、よう? それって、いったいどういう事なんだ?
 驚愕に満ちた目で、ゆっくり菜乃へと視線を移す。
「……どうして?」
 恐怖から、微かに健介の声が掠れる。
「ずっと考えてたの。健介は、わたしを見ていないって。それに気付いたから、わたし……健介を解放してあげようと思って」
「ち、違う、菜乃」
(俺は菜乃を見てる! 菜乃がそう感じたのも無理かも知れないが、そうじゃないんだ。俺の気持ちを聞いてくれ)
 しかし、開いた口からは声が出なかった。
「……今まで楽しかったよ健介。わたしの殻を破ってくれた事、一目でわたしが誰か悟ってくれた事、そして……何よりわたしのバージンを貰ってくれた事」
(やめてくれ。俺が何かを話す前に、二人の関係を勝手に終わらせないでくれ。菜乃お願いだ!)
 健介は縋り付くように、菜乃の膝に手を乗せた。
「やめて、触らないで!」
 菜乃が膝を引いて、端へと躯を動かす。健介の両手は、空を切った。
「菜乃」
 縋るような情けない声が、健介の口から出ていく。
 だが、恥ずかしいとは思わなかった。なぜなら、菜乃とは決して別れたくないとわかっていたから。
「菜乃、聞いてくれ。俺はずっと隠してきた事があるんだ」
(俺が、どうして物思いに耽っていたか聞いてくれ。俺がどうして悩んでいたか、聞いてくれ。俺を支えてくれ。俺を愛してるなら、俺の言葉を聞いてくれ)
 だが、菜乃は健介の言葉を拒絶するように、手を突き出した。
「言わないで。わたし、わかってるから」
「わかって、る?」
 健介の眉間が動く。
「それって、どういう?」
「わたし、嫌な女になりたくなかった。なのに、いつの間にか嫌な女になっていたんだね。ごめんさい、わたし全く気付いていなかったの。健介に彼女がいたって」
 健介は、勢いよく息を吸った。
(俺に、彼女って……まさか未来の事を知っていた?)
 そんな筈はない。菜乃は、未来の存在すら知らないはず。
「わたし、二番目の女になんかなりたくない。好きな人の一番目でいたい。でも、わたしは健介の一番目じゃないってわかったの」
 違う、そうじゃない。
 言葉を発しようとしたが、健介の口からは空気の音が漏れただけだった。
 しっかりしろ、健介! 菜乃に誤解されたままなんだぞ!
 唾をゴクリと呑み込むと、健介は思い切り息を吸った。
「……菜乃、俺の一番は菜乃だよ。菜乃しか見えてない!」
「なら、どうして元カノとラブホへ行くのよ!」
 
 ―――ガチャ。
 
「ありがとうございました」
 その声で、この二人きりの空間が破れた。菜乃が、すくっと立ち上がる。
「彼女と幸せにね」
 そう捨てゼリフを吐くとと、菜乃は降りた瞬間走り出した。
 健介は、走り去って行く菜乃を見つめる事しか出来なかった。もちろん追いかけたかったが、あまりにも衝撃的な言葉に、足が動かなかった。
 そして、菜乃が……健介の事を信用していなかったという事実に、打ちのめされてもいた。
(菜乃という恋人がいるのに、俺が未来と浮気するとでも思ったのか? こんなに、菜乃の事だけを愛してるというのに?)
 一言の弁解も聞いてくれなかった菜乃。
 初めから、今日は別れるつもりだったのか?
(それなら、なぜ俺の腕に抱かれた? キスさせた? 弁当を作ってきたんだ?)
 感情を抑えようときつく拳を作った時、カサッと音がした。それは、菜乃へプレゼントする筈だったステンドグラスの宝石箱。
 それを見ながら、健介はやっとわかった。二人の関係が、終わったという事を……

2004/06/29
  

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