『 熱く燃えるミラー』

「失礼します」
 メディア課長室に入ると、楓麻衣子はすぐに目に飛び込んできた新課長を見つめた。彼は、大きなマホガニーの机に腰を下ろし、優雅に書類を見つめている。
 
 彼、理崎駿一課長はシャツを肘まで捲り上げていた。
 
 その見事な体躯から香り立つ男らしさに、麻衣子はクラクラしそうだった。男らしい仕草を見慣れていないからだろう。引き寄せられるように、自然と彼の滑らかそうな腕から、書類を持つ手へと見る。その手は大きいが、指は長いように見えた。
 麻衣子は、手に持った手提げ袋をギュッと握ると、思考を読まれるのを防ぐように視線をすぐに下げた。
(バカ! そんな所を見てどうするの? わたしには一切関係のない事でしょ!)
 乙女の恥じらいからか、頬が熱を帯びていくのがわかった。
 すぐに気を取り直して視線を上げたその瞬間、同じようにこちらを見つめている理崎の視線とぶつかった。しかも、彼はあの時と同じように、侮蔑するような瞳でこちらを見ている。
(わたしが何をしたっていうの? ……わたしは盗んでなんかいない! こうやって新課長に返す為に、ずっとロッカーに入れていたのだから)
「あぁ、座ってくれ」
 目の前のソファを顎で示され、麻衣子はその言葉に従ったが、挨拶の時に見せてくれた謙虚な気持ちがなくなっているのを見て少し残念にも思った。
 確かに、初対面の時って……いい印象に見せようとしているとは思うけど、彼もそうだったなんて。
 だが、その態度について何か進言出来るような立場にはなかった。麻衣子は上司の掌で動かされるコマの一人に過ぎなかったからだ。
 まさしく、上司の一言でいろいろ動かされるようになるとは、この時麻衣子は予想すらしていなかった。
 
 
 我が広報部のメディア新課長の理崎との出会いは、これが初めてではなかった。
 ある日、雨の中を走った麻衣子は、下着が透ける程びしょ濡れになった。その時、偶然にもスーツの上着を貸してくれたのが、目の前にいる新課長として配属されてきた彼だったのだ。
「名前は……」
 理崎がその先へと続ける前に、麻衣子が素早く口を開いた。
「楓麻衣子、二十九歳。入社後広報部メディア課に配属、社内報チームに所属し、二年前に主任補佐として、」
「全てを注ぎ込んできた」
 今度は、理崎に口を挟まられる事になった。
「はい」
「女を捨てる程?」
女を捨てる≠ニはどういう意味? それって、セクハラじゃないの!?
 麻衣子は奥歯を噛み締め、上司を睨み付けた。本来なら、こんな態度を取るべきではない。だが、麻衣子が心の奥底に沈めた女≠刺激されると、反発せずにはいられない。
「お言葉ですが、」
「セクハラにあたると?」
 またも先に言われた麻衣子は、湧き起こってきた怒りでどうにかなりそうだった。
「まぁ、その件に関しては今はいいとして」
(今はいい!? 何、この人! わたしに……スーツを貸してくれた時はとてもいい人で、好印象さえ抱いたのに。そんなわたしがバカみたいじゃないの!)
 いつもなら、冷静に対処する麻衣子だったが、何故か感情が先に動いてしまった。
 理崎から退室を命じられる前に、いきなり立ち上がったのだ。目で人を殺せるのなら、きっと彼を殺していただろう。
 だが、理崎は満足気に口元を緩めて笑みを浮かべていた。
 そんな表情を見せられた麻衣子は、呆気に取られてしまった。怒ったらいいのか、笑えばいいのか、このまま立ち尽くすべきなのか、あのドアから出て行けばいいのか……どうすればいいのかわからず、ただ理崎を見つめ返した。
「これによると、楓は社内報からメディアへ移りたいと希望を持っているようだが?」
 あぁ、今そういう事を言うのね。
 麻衣子は怒りをグッと抑えると、再びソファに座った。理崎に、そこに「もう一度座れ」と強制されたわけでも、促されたわけでもない。
 麻衣子がずっと望んでいた言葉で刺激してきた為、思わず彼に屈してしまったという事だった。
「……はい。社内報の仕事も日々忙しく、でも意欲を持って取り組んできました。ですが、広報部に配属された時から、わたしはいつの日かメディアチームに入りたいと、そこでいろんな事を学びたいと思ってきました」
 理崎は、手に持っていた資料を膝に置くと、背筋をピンッと伸ばす麻衣子を舐めるように見つめてきた。
 麻衣子は、そんな視線に動じる事もなく座っていた。スカートはきちんと膝頭で止まっているし、ブラウスも上から一つ目を開けているだけなので、露出を問われる事もない。
 だから、挑むように真っ直ぐ前を向いていた。
「……結婚は?」
「しませんし、する予定もありません。恋人がいて仕事を疎かにすると思われると侵害なので、今この場ではっきり言っておきますが、その心配はご無用です。仕事一筋で頑張りますし、仕事に穴を開けるような……会社のイメージを害うような事は決してしません」
 麻衣子は、男性社員同様働くと宣言したのだ。これで仕事への意欲が通じたと思った。
 だが、理崎は満足気に頷くどころか、腕を組んで唸り声を上げた。
(いったい何がいけないとでもいうの? わたしは仕事に賭けているのよ! 恋とかそんなものには目も暮れず、仕事を頑張ると言ってるのに、どうして!?)
 膝の上に置いていた両手に思わず力が入り、自然と握り拳を作っていた。
「楓の……仕事への意欲はわかった。だが、それだと楓以外の男性社員でもよくないか?」
「男性社員にも劣らない仕事をしてきました! わたしが参加した社内報の仕事をご覧いただければ、」
 麻衣子の必死な言葉を、理崎は片手で一蹴した。
「社内報とメディアは全く違う。わからないか? まず、両方共人と接する事から始まるが、前者は何度でも校正が出来るし、紙面で発表すればそれで終わりだ。だが、メディアは慎重な態度を取らないと、相手記者が言葉をねじ曲げていく。メディアチームには、そういう事にも対処が出来る……機敏に行動出来る人物が欲しい」
「わかってます、だからわたしは、」
 理崎は、麻衣子の言葉に問いかけるように頭を振った。
「楓と同じように意欲を持つ男性社員は、他にもいると言ってるんだ」
(結局は、わたしではダメだと言っているのね)
 せっかくチャンスを得られるかと思ったのに、真正面から拒絶された悔しさから、麻衣子は視線を伏せた。奥歯をギュッと噛み、口から迸り出そうな罵詈雑言を抑え込む。
「わかりました、わたしでは、」
 負けたくはなかったが、麻衣子はこの場を仕切る上司との話を切り上げようとした。ところが、麻衣子のその言葉を聞いていなかったように、理崎は言葉を続けた。
 
「では、彼らには出来ない……楓だからこそ一歩先に対処出来る術はいったい何だと思う?」
 
 えっ?
 全て終わらせようとしていたにもかかわらず、理崎が何もなかったかのように訊ねたので、麻衣子は口をポカンと開けた。
「楓と同じくらい有能な男性社員とは違って、お前に出来る事とは一体何だ?」
(わたしに、出来る事? 有能な他の男性社員とは違って?)
 麻衣子は、ジッと見つめられる事に恥ずかしさを覚えたが、その事を顔に出すような真似はせず、ひたすら彼が言った事を考えた。
 しかし、脳裏には何も浮かんでこない。男性社員とは違う才能等、麻衣子には全くないからだ。
 そんな麻衣子に対して、理崎はため息をついて頭を振った。
「わからないのか? 彼らと楓と決定的に違うところを」
「わかりません。いったい何を仰しゃってるんですか?」
 理崎は立ち上がると、再びマホガニーの机の前に行き、手に持っていた書類を放り投げた。
「……それほど、疎くなってしまっているのか?」
「えっ?」
 麻衣子と視線を合わすようにクルッと向きを返ると、理崎はあの時と同じように軽蔑な眼差しを向けてきた。
「決定的な違い、それは男と女だ」
 麻衣子はセクハラを受けたように、顔を真っ赤にさせた。
「わたしは……男性と女性といったように区別は出来ません」
「それなら、メディアチームには一生移る事は出来ない」
「そんなっ!」
 何故? いったいどうしてそんな酷い事を言うの? こんなに仕事熱心だと言ってるのに!
「楓は、男にも負けない仕事をしたいのかもしれない。だが、所詮女だ。俺は、女には女の仕事をしてもらいたいと思っている。それが出来ない楓を、メディアチームへ推す事は出来ない」
 理崎の物言いに、麻衣子は勢いよく立ち上がった。
「そんなの横暴よ、女性差別だわ!」
「そうだろうか? 今までの経験上、記者が男だった場合、女が彼らに対応する方がスムーズにいく。俺は、優秀な女の人材が欲しい。優秀だが女を捨てた女は必要ない! ……メディアチームには」
 腕を組み、ジッと真摯に見つめてくる理崎から、麻衣子は逃げるように視線を下げた。
(女を捨てた、女……。まさしく、わたしの事を言ってる。でも、捨てたくて捨てたんじゃない! そうさせたのは、男のせいよ。男の……)
 麻衣子は理崎に背を向けると、この部屋から出て行こうとドアへ歩き出した。
「楓、俺はお前が優秀だという事は、報告書から見てもわかった。そして、メディアへの異動を強く望んでいる事も知った。そんな優秀な人材を、俺はメディアチームへ引き抜きたいと思う」
(引き抜きたい……このわたしを!?)
 麻衣子は足を止めると、勢いよく振り返った。
 希望するチームへ異動させてもらえる! そう思った時、理崎から爆弾を落とされた。
 
「但し! ……楓が女に戻ったらの話だ。意味わかるよな? その武装するようなおばさんスタイルを改め、年相応のOLらしく、またメディアチームの一員として見栄えがするような服と髪型、化粧をして仕事をする事が条件だ」
 
「……っ!」
 麻衣子は、彼の条件に双の目を大きく見開いた。文句を言おうとしたが、何故か喉が締めつけられて声も出ない。
「買い物もあるだろうから、再来週の金曜・出勤した時、俺の言う女≠ノ戻っていたら、喜んでメディアチームへ引き抜こう」
 誰が……誰が、言うことを聞くもんですか!
 心の中では、激しい怒りが渦巻いていたが、頭の片隅にはメディアへの異動が夢叶うかもしれない……という希望の光が射し込んでいた。
 だが、今この場では何も答えられそうにない麻衣子は、再び彼に背を向けてドアノブに手を置いた。
 
「あぁ、そうだ。楓が手に持っている俺の<Xーツ、再来週の金曜、仕事が終わった後に受け取ろう」
 
 そう言われて、麻衣子は手に持っていた手提げ袋に視線を落とした。
「俺は、仕事中に私事を持ち込まないようにしているんでね。その時、また話そう。さぁ、もう出て行っていいぞ」
 麻衣子は、ドアノブをギュッと握り締めた。
 麻衣子の方から先に出て行くハズだったのに、甘いお菓子を見せられて躊躇してしまった。しかも、その甘いお菓子は、とんでもない条件との交換しか応じないとまで言われてしまった!
「失礼しましたっ」
 大きな声でそう言うと、思い切りドアを開けて……ゆっくり閉めた。本当なら大きな音を立てたかったが、常識が麻衣子を押し止めたのだ。
 ドアの向こうで、理崎が笑みを零してるとは思いもせず、麻衣子は頭から湯気が出るくらい憤怒しながら、社内報チームの一画へ歩き出した。
彼≠フスーツが入った手提げ袋を、しっかり手に持って……

2008/10/15
2008/10/15〜2009/06/29迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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