『ミラーに吹く新しい風』

「…でさん。……楓さん!?」
「えっ!」
 社内報チーム主任補佐の楓麻衣子は、ハッと我に戻った。社内報九月号のラフ刷りを広げたまま、ボォ〜っとしていたようだ。
 声がした方へ視線を向けると、何と側に立っていたのは、男嫌いの麻衣子がずっと気になっていた如月篤史だった。
(何て事! 如月くんが側に立っていたのに、わたしったら意識を飛ばして!)
 気を取り直すと、麻衣子は視線だけでなく椅子を回して躯ごと如月に向けた。
「どうかしたの?」
「あっ、社内報ですけど……マジに、否……本当に号外チラシを作るんですか?」
「そうよ」
 何故、そんな事を訊くのか……と問うように眉を上げるが、麻衣子には如月の気持ちがわからないでもなかった。
 水嶋の三男夫妻の子供が無事に誕生したのだが、社内報の〆切に間に合わなかったのだ。その三男の妻というのが、如月の実姉だった。
 自分の姉の話題が、号外として特別扱いされるのが嫌なのだろう。
 でも、これは水島グループの事。その直系の子息に姉が嫁いだのだから、当然の事だと受けとめてもらわなければならない。
「これは、水嶋で働く人たちの関心事でもあるの。だからそんな情けない顔をするのはやめなさい」
「……はぁ〜い」
 よしよし! 立場はきちんとわかっているのね。
 麻衣子が頷いて目の前の仕事に戻ろうとした時、如月がボソッと呟いた。
「ちぇっ! 今までの楓さんは、もっと俺に対して優しかったのに」
 えっ?
 勢いよく視線を上へ向けると、如月はただ肩を竦めて原稿を手に印刷室へ向かった。
(どういう事? わたしが……如月くんに対して優しかった? ううん、そうじゃなくて、彼に対して優しくなくなった? どういう意味なの、それ。わたしは誰に対しても同じように接してきたのに)
 二人の会話を小耳に挟んでいた斜め前に座る須長は、ゆっくり身を乗り出すと、麻衣子の疑問に答えを出してくれた。
「最近の楓さん、心ここにあらず≠チて感じですよ? 新人の如月くんを可愛がっていたのは皆が知っていますけれど、今は何か雰囲気が変わって……。あっ、もちろん仕事は完璧に熟されてますけれど、突然ボォ〜とされて奥のロッカーを見つめたりもしてますし」
 麻衣子の頬が突然ピンク色に染まった。
「えっ、あの……ロッカーを見つめてる!?」
 突っ込まれる場所が違ったのだろう。麻衣子の言葉に須永はビックリしたが、少し頬を綻ばせながら再び仕事に意識を向けた。
 麻衣子はというと、その場に居たたまれず、目の前にあったラフ刷りを手に持つと席を立ち、給湯室へ向かった。
 
 カップにコーヒーを注いだ後も、麻衣子はボォ〜ッとくうを見つめていた。
(わたし、どうしちゃったの? そんなにロッカーばかり見つめていた? あそこには更衣室のロッカーとは違って、取材に必要な物を入れてあるだけなのに)
 もちろん、あの借りっぱなしになっているスーツも。
 ・・・。
(えぇ、認めるわよっ! わたしは、あのスーツを貸してくれた彼の事が、気になって気になって仕方ないわよ! ……如月くんよりも)
 麻衣子は、眼鏡を外しながら項垂れた。
(何で? わたしは男なんて大嫌いだ。でも如月くんは、いやらしくなくて……とても爽やかで気さくで、消えかけていたわたしの心に火を灯してくれた男性)
 にもかかわらず、どうして一度だけしか会った事のないあの男性の事が気になって仕方ないの? そう、気になるのよ! ……とっても。
「あっ、楓、そこに居たのか」
 給湯室に入ってきたのは、社内報チーム長の柴谷しばやだった。
「柴谷さん、どうしたんですか?」
 急いで眼鏡をかけ、柴谷の側へ近寄る。
「急な人事異動が通達された。我が広報課長に新しい人物が就く」
「えっ? でも、そんな話は一つもなかったのに。だから、社内報にも載せていませんよ?」
 無意識に持ってきた社内報のラフ刷りのページを開け、人事異動のページを開く。
「あぁ、そこには載せていない。彼は、重要ポストに就く為にヘッドハンティングされたらしい」
「重要ポスト?」
「そうだ。よくわからないが、部長がそんな話してるのを偶然耳にしてしまってさ」
 重要ポスト……ねぇ。水嶋での異動はそんなに珍しくはないが、ヘッドハンティングはそんなに多くあるものではない。
 という事は、かなり有能って事ね?
「柴谷さん、その新課長は、」
 どこの会社から来たのか訊こうとしたが、柴谷が突然慌てだした。
「ヤバッ! もう部長と新課長が広報部へ来た! その為に楓を探していたんだ。招集がかかっていたから」
 何てこと!
「それなら早く行かないと! 早々に目をつけられたくありませんからね」
「俺だってそうだよっ!」
 麻衣子は、流しにコーヒーを捨てると、とりあえずカップをその場に置いた。そのまますぐに柴谷と共に広報部へ走った。
 
 ―――ガチャ。
 
 二人して室内へ入った瞬間、広報部の顔という顔が一斉に振り返り、視線の集中打を受けた。
「すみません、遅れまして……」
 そう言うなり、後方で佇む。
「今ので目をつけられたら嫌だな」
 麻衣子は弱気になっている、仮にも上司の柴谷の脇を小突いた。
「大丈夫ですよ。もう、しっかりして下さい!」
 ひそひそと呟くと、麻衣子は視線を前に向けた。
「これで全員揃ったかな? 病気療養中の前メディア課長の後任として、今月より就任した理崎駿一りざき しゅんいちくんだ。皆、補佐宜しく頼む。さっ、理崎くん」
「こちらで働かせていただく理崎駿一です。他社で広報の職に就いていましたが、こちらでは初めての事ばかりだと思う。皆さん、どうぞ宜しく頼みます」
 拍手が鳴り響く中、麻衣子はその声に聞き覚えがあった。その声音を聞くだけで、躯がブルブル震えて気分が向上してくる。
 もしかして? ……まさか! そんなハズはない。
 麻衣子は踵を上げて背伸びをし、新メディア課長を人目見ようとした。
「質問です! 理崎課長は、何歳でいらっしゃるんですか? 独身……じゃないですよね?」
  女性の声が響く。そして、笑い声も。
「どっちの方がいいんだろうか? ……先頃三十七歳になった独身男だ」
「独身!? 嘘っ!」
 キャーキャーと嬉しそうな声が鳴り響く中、麻衣子はひたすら前にある無数の頭を縫うように視線を動かした。
「楓? 何してるんだ?」
「新課長の顔を拝ませてもらおうと思って」
「お前、男には興味はないんだと思ってた」
 麻衣子は視線を柴谷に向けた。
「……ないです。だからと言って、女に興味があるっていうのでもないですけど」
「まぁ、レズだとは思ってもいないが。なぁ、知ってたか? バリアを張ってる楓の事を気にしている同僚が多いって」
 麻衣子は恐怖に引き攣った顔で、柴谷を凝視した。
「やめて! そんな事二度と言わないで下さい」
「言わなきゃ、いつまでたっても今のままだろ?」
「放っといてくれませんか? これはわたしの問題であって、柴谷さんの問題ではないんですから」
 柴谷が肩を竦めるのを見届けてから、麻衣子は再び背伸びをして前を見た。
「どうしてそんなに新課長を見たがるんだ?」
「気になるんです……、わたしの知っている男性と同じかどうか。どうせ違うとわかっていますけど、どうしても確かめたくって」
 二人が話をしている間、新課長への質問が繰り返されていたようで、女性社員は夢見るように前を見つめ、男性社員は憧れを抱くような視線を向けていた。
 一瞬で周囲を味方につけた新課長に尊敬を……否、違った意味で興味を抱きながら、顔を見ようとした。
「既に、君たちの仕事ぶりは伺っている。少しチーム内を異動してもらう予定だからそのつもりでいて欲しい。該当する社員とは、この後個人的に面接を行わせていただくからそのつもりで」
 チーム内異動!? 九月で? 普通なら三月中旬頃に発表されるのに、どうして今なの?
「まず社内報チームから。チーム長の柴谷さん」
「はい!」
 麻衣子の隣で、柴谷が大きく返事をした。瞬間、前を向いていた人たちが後ろを振り返り柴谷を見つめる。
 同時に、人垣が真っ二つに割れるように、柴谷の前が開いた。その先に居た人物を見た麻衣子は、ハッと息を呑んだ。
 そこに居たのは、スポーツジムに通っているとわかるほど見事な体躯に、一八〇センチほどの身長を持つ魅力的な大人の男性だった。切れ長の目は誰にでも威圧感を与えるように思えるが、その唇は薄くはなく、人情溢れる温かみを覚える。それで、ここにいる社員たちを掌握したのだろう。
(……わたしにしたのと同じように)
「後でリストアップした名簿を渡すから、順次課長室に寄越して欲しい」
「はい、わかりました!」
 新課長の理崎がチラリと視線を動かして、麻衣子を見た。瞬間、心臓が激しく高鳴り、真っ白だった心に、ほんのり明るい黄色の光が射し込んでくる。
(まさか、本当に? ……わたしにスーツを貸してくれた人が、新しい上司に!?)
 だが胸がときめくように高鳴ったのも束の間、理崎は麻衣子を見てから顔を顰めた。それも、軽蔑するような……とても冷たい視線だった。
 その視線は、思わず粗相をしてしまう程に麻衣子を脅えさせた。
 色付いた心は一瞬で影が射し、暖色系から水色のような寒色系へと変化していった。
 そのままどんどん暗い色に変化してもおかしくなかったが、理崎がゴミでも見るように麻衣子を見た後、顔を背けた為、心の変化は一瞬で止まった。
 それが合図となって、社員は再び前を向き、人垣が出来た事で理崎の姿は視界から消えた。
 麻衣子は、震える手を両手で握り締めると、誰にも表情を見られないように下を向いた。
(何? どうしてあんな風に見られたの? ……わたしにスーツを貸した事を、もしかして忘れてる? ううん、わたしがスーツを返していない事で、最低な女だと思われたの?)
 そうじゃないのに!
 そんな麻衣子の姿を、ただひとり……如月篤史だけが訝しそうに見つめていたが、その事に麻衣子が気付くことはなかった。

2008/07/20
2008/07/20〜2008/10/15迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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