『塗りつぶされた、黒いミラー』【4】

* * *
 
 初めての経験が脳裏から消えず、その日はただ息をするだけのように静かに過ごしていた。
 帰宅する時間になると、電車に乗るのが怖いと思う程だった。
 だが、友達と途中まで一緒だった為、その時ばかりは気にする事もなかった。友達と別れ、痴漢に遭遇した路線に一人で乗らなければならないと気付くと、再び恐怖が襲ってくる。
 朝のような満員電車ではなかったが、麻衣子は電車を二本ずらしてまで座って帰れるようにした。
 家に帰ると、すぐにお風呂に飛び込み、躯をゴシゴシ洗った。今朝の汚れを落とすように。
 でも、それはその日で終わるものではなかった。
 麻衣子は……あの男から目をつけられた事実を、この時はまだ知らなかったのだから。
 
 翌日、麻衣子の口数がちょっと少なかったせいで、母が気にしているようだったが、麻衣子はいつもどおり家を出た。
 この日は晴れだったので、雨の日よりも込み具合もマシだろうと思っていたが、昨日の出来事があった為かそうは思えなかった。
 電車内でのちょっとの触れ合いでも、躯が硬直してしまう為、なるべく他の人とは接触しないようにした。
(大丈夫……大丈夫よ! アレは、昨日の事。こんなにいっぱい乗っているんだから、もう一度痴漢になんか遭うハズがない。そうでしょ? ……だよね?)
 電車が停まるたびに人が乗ってくる為、麻衣子はいつもと同じように奥へ奥へと押された。
 苦しい体勢だったが、視線を窓の方へ向けて流れゆく景色を眺め、いつまでも嫌な記憶に振り回されてはダメだと、自分に言い聞かせていた。
 まさにその時、麻衣子の躯が一瞬で硬直した。
 昨日と全く同じ……ように、腰を抱かれ、手はスカートの中へ忍び込んできたからだ。
 
「また会えたね」
 
 昨日の、人……
 直感でわかった。麻衣子は、恐怖から躯を動かす事も、声を出す事も出来ない。それをいい事に、後ろの男は大胆にも大腿を掌で撫で上げる。
 麻衣子は顔を下に向けて、ギュッと瞼を瞑った。
(どうして? 何で? ……何でわたしがこんな目に遭わなければいけないの?)
 大腿を撫でていた手が、そっとパンティの上から撫でた。麻衣子の躯がビクッと震える。
(怖い……怖いのに、何で触られている部分は熱くなってくるの? 普通なら凍りついてしまうのが普通でしょ?)
「最初からわかっていた。君は……とても感じやすい子だって」
 麻衣子に聞こえるか聞こえないかの小さな声で、耳元に囁く。
 感じやすいって、何!?
 昨日と同様、スカートの上から男の手をどかそうと試みた。
 だが、男のクスッという笑い声で麻衣子の手が止まった。
「何故? 誘っているのは君なのに」
(わ、わたしが!? 誘い方なんてものも知らないのに? そもそも、わたしは誘っていない!)
 突然、甘い痺れが麻衣子を襲った。
「……っぁん」
 吐息のような小さな声が、麻衣子の口から漏れた。
(今の声って……わたし?)
「ほらね」
 麻衣子の顔が、恥ずかしさから真っ赤になった。その男の手はだんだん大胆になり、パンティの隙間から指を入れてきた。
 再び躯が硬直する。
 嫌だ、やめて……やめて。
 自分の意思とは裏腹に、その男の指が擦り上げるのを助けるように、濡れていくのがわかった。
 麻衣子の目に、屈辱の涙が浮かんだ。
 大腿を合わせても、何の助けにもならない。より一層その男の指が滑り込んでくるのを、躯で感じるハメに陥っただけだった。
 指を動かされるたび、くちゅくちゅと淫猥な音が鳴る。車中の誰かに気付かれるかも知れないと思うと堪らなく嫌だったが、それよりもこの淫らな行為を止めさせたかった。止めさせたかったが、大声を出して注目を浴びて恥をかくのも嫌だった。
 だから、麻衣子はただ歯を食い縛ってその行為に目を瞑ろうと必死になった。
 それが、痴漢行為を増幅させる原因になるとは思わずに。
 長い道のりだったが、終着駅に着いた途端、麻衣子は逃げるように駆けて行った。気持ち悪いパンティを早く脱ぎたい……と思いながら。
 
(わたしがいけないんだろうか? でも何がいけないの? 誘っていもいない、痴漢を探しているわけでもない。なのに、どうしてわたしが標的にならなければいけないの?)
 
 翌日、麻衣子は今まで下ろしていた髪を一つのポニーテールに引っ詰めた。
「麻衣子……あなた大丈夫?」
 母が何故そう訊ねてくるのかわからないまま、麻衣子は頷いた。
 だが、そこには……いつもの幸せいっぱいな笑みは一切なかった。
 
 * * *
 
「やめて……やめてっ!」
 麻衣子は、周囲にも気付かない程の小声で叫んだ。封印したい過去、思い出したくもない体験が、否応なしに襲いかかってきたからだ。
 あの時の事は無知だったから≠ニ……何度も言い訳をして過ごしてきたが、大人になった今は、それだけではない事を知っている。
 気持ち悪くて逃げたかったのに、麻衣子の躯は勝手に反応して濡れてしまった。その事実が、あの男の行為を増長させてしまった。
無知≠セという事は、決して悪くない。
 でも、麻衣子は彼を憤然とした態度で拒否をしたり、淫猥な行為を防ぐ事が出来た。なのに、それが出来なかった。
 ただ、泣き寝入りしただけ。
 もちろん、今なら痴漢の手を捕って駅員に突き出す事は出来る。十五歳の時には、それが出来なかった。
(だから、わたしは!)
 麻衣子は顔を顰めながら、会社前の横断歩道を走った。
 そんな麻衣子を、周囲のスーツマンは物欲しそうに眺めていた。支社ビル玄関前に降り立った一人の男性も、乳房を揺らして走り寄ってくる麻衣子を、ギョッとした表情で見つめていた。

2008/05/01
2008/01/15〜2008/05/01迄、SURPRISE BOXにて公開
  

Template by Starlit