『塗りつぶされた、黒いミラー』【3】

「これ使って下さい!」
 店主が麻衣子に差出したのは、白いビニール傘だった。
 フラワーショップの店舗内やアレンジメントを、デジタルカメラで撮影した後、麻衣子が会社へ戻ろうと外に出たら、小雨がだんだん激しくなりつつあったからだ。
「大丈夫です、会社まで目と鼻の先ですし、着替えも置いてますから」
「でも、雨脚が強くなって濡れてしまったら、風邪をひいてしまいますよ」
 麻衣子は、彼女に優しさに笑みを浮かべたが、再度頭を振った。
「ありがとうございます。でも、それはお客様に貸してあげて下さい。それがお店の為にもなりますしね」
 麻衣子は、先程雨から逃れるように店に飛び込んできた二人の女性が、店内の装飾に惹かれて花を観ていた事を指した。
 店主は、顔を顰めてどうしたものかと思案気にしている。
(ここは、わたしがはっきり言った方がいいわよね?)
 麻衣子はスーツのボタンを外し、それを脱ぐと、頭の上へかけるようにした。
「これで、大丈夫! じゃ、またご連絡しますね」
 ペコリと会釈をすると、麻衣子は雨の中を駆け出した。
「あっ、楓さん! 本当に気を付けてお帰り下さいね!」
 麻衣子は一瞬立ち止まって振り返ると、笑顔で頷き、再び走り出した。
 思ったより……本降りになりそうね。
 麻衣子は、雨がスーツやブラウスを濡らし始めるのを感じながら、信号が赤に変わったのを見ると、すぐ近くのビルの下に逃げ込んだ。
「……本当、雨の日ってイヤだわ」
 ブラウスが濡れて肌に張りつくのを感じた瞬間、嫌な記憶が再び脳裏を過った。
「あの日も、こんな雨だった…」
 麻衣子は、傘のように広げていたスーツを、ゆっくり下ろし……何かに取り憑かれたように、水たまりに雨が落ちる事で出来る波紋を見つめていた。
 
 * * *
 
 その日は雨という事で、いつもの出勤・通学ラッシュよりもっと混雑していた。寿司詰め状態とは、まさにこの事だと感じたのもこの日が始めてだった。
 しかも、傘を持っている人が多い為、足やバッグだけでなく制服も濡れていく。
(この満員電車を、わたしは三年間も体験しなくちゃいけないの!? それは、ちょっとイヤかも。だって、濡れた事でいろんな臭いが車中に充満して、何か臭いし……)
 それにせっかくセットした髪も、雨で畝ってきている。雨って、本当にイヤだ!
 
 その時だった。
 
 ―――!!
 
 ……何、コレ。気持ち悪い。まさか、これが痴漢!?
 だが、これだけ満員電車ともなれば、誰かのバッグが大腿を擦っているとも限られる。
 でも、それは明らかに……触れるか触れないかの力で上下に撫でていた。
 麻衣子はどうしたらいいのかわからず、咄嗟に顔を下に向けた。そこには、大きなゴツゴツとした大きな手が、麻衣子の大腿周辺を擦っていた。電車がガタッと大きく揺れると、車内の人も揺れる。
 その揺れを利用して、誰かわからない人の手がお腹に触れてきた。
「……っ!」
 触れてきただけではなく、支えるように、逃げないように腰を抱いているようにも感じ取れた。大腿にあったその手は……麻衣子のスカートをゆっくり持ち上げて、そのまま中に忍ばせて、大胆にもパンティの上から触れてきた。
「……ぁ」
 麻衣子は、怖くなって逃げようとした。
 だが、当然のことながら満員電車ではどこにも逃げられる隙間も場所もなく、身動きすらままならない。
 
 電車での痴漢は、初めての経験だった。その場所に……自分以外の人に触れられたのも初めての事だった。
 
 電車の揺れに合わせて、お尻にグィグィと何かを押しつけられる。微かに指を動かして双丘を撫で上げる。
(やだ、どうしよう! わたし、どうしたらいいの? どうしたら……)
 麻衣子は顔を真っ赤にしながら下を向き、大腿を閉じて、何とかスカートの中に忍び込んでいる手を振り解こうともがいた。
 だが、その途端……まだ大人しかった手の動きが容赦ない動作へ変わった。
「……はっ!」
 麻衣子は、思い切り息を吸い込んだ。
 お腹の上にある手に後ろへ引っ張られると、誰かの大きな躯に背中がぶつかった。同時に、パンティの上から撫でていたその指は、擦るような動きに変わった。
 下腹部が熱くなったかと思えば、秘部は痺れたようにジンジンしてきる。
 麻衣子は、初めて味わわされる感覚に、どうすればいいのか全くわからず、恐怖を覚えた。しかも、触れてくるその指の動きが、とてもイヤらしいのだ。
 胸は激しく上下し、口からはせわしない吐息が漏れるばかり。
(イヤだ……こんなの、イヤよ! どうしたらいいの? わたしはどうしたら!)
「ぬるぬるだね……」
 耳元で微かに囁かれ、麻衣子はハッと息を飲んだ。
「……えっちな子だな」
(何、何……えっちって? わたし、が? ……コレが、そういう、事?)
 麻衣子も、中学時代はティーンズ雑誌やちょっとえっちな漫画を見たりした事はあったが、ほとんど読み流していた。
 セックスに興味がある年齢でもあったが、それ以上に清心女学館への思いが強かった為、勉強ばかりでそっち方面は疎いと言っていい。
 ……でも、今は疎いせいで……どう反応すればいいいのか全くわからないときてる!
「……してあげる」
 してあげる? 何をするっていうの?
 その瞬間、パンティのゴムを押しのけて指が入ってきた。
(イヤ、イヤ……イヤッ!!)
 麻衣子は、人が動くのと同時に走るように動いた。ちょうど電車が駅に停まり、ドアが開いた瞬間でもあったのだ。
 何故膝がガクガクするのかわからないまま、周囲の大人たちに訝しげな視線を浴びても、ただやみくもに電車から飛び降りた。
 そんなに走ったわけでもないのに、麻衣子の口から荒い息が漏れる。
 電車のドアが閉る音がして、初めて麻衣子は後ろを振り返った。電車の窓は、車内の人たちをぼかすように雨で濡れていた。
 どしゃ降りの為、線路に近いホームでは水たまりが出来ていた。雨が落ちて波紋が広がるのを、麻衣子は放心したようにジッと見つめていた。
 この日、麻衣子は初めて遅刻をしてしまった。
 
 * * *
 
 ―――♪
 
 青信号に変わったという音楽が流れて、麻衣子はハッを我に戻った。
 過去の嫌な出来事を振り払うように、麻衣子は雨の中走り出した。傘替わりとしてしたスーツは、今では片手で握り締めている。
 その為、ブラウスは雨に濡れ、外見とは全く似合わない豪華なブラが透けていた。だが、麻衣子は全くそれに気にする事もなく、ただ走り続けた。
 再び襲いかかってくるアノ記憶を振り払うように……
 だが、その記憶は麻衣子を容赦なく攻め立ててきた。

2008/05/01
2008/01/15〜2008/05/01迄、SURPRISE BOXにて公開
  

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