『塗りつぶされた、黒いミラー』【5】

* * *
 
 その日、麻衣子はいつも乗っていた車両をやめて、ひとつ遅い時間のさらにふたつ後ろの車両に乗り込んだ。それが精一杯考えた結果の……痴漢撃退法だった。
 たった1本遅らせただけなのに、ホームも電車内もいつもより込んでいた。
 でも、これであの男とはもう二度と会う事はない。そうよね?
 表情は強ばったままだったが、押されるまま奥へと進み、電車が発車したところで麻衣子は一つ息を吐き出した。
 少し、安心感を覚えたからかもしれない。
 だが、それが徒労に終わったと気付いたのは、いつものように後ろから抱きつかれた時だった。
 
「見つけた」
 
(どうして? 髪も一本に束ねて、電車の時間も車両も移動したのに、どうしてわたしを簡単に見つけてしまうの?)
 その男は、逃げようとした麻衣子を罰するかのように、いきなりスカートの中に手を侵入させると、双丘を上下に撫で始めた。
「……っ!」
 麻衣子はいつものように歯を食い縛り、下を向いた。
「努力は認める。だが、まだ俺を誘っている」
(誘ってなんかないでしょ! わたしは、いつもの電車に乗らなかったじゃないの。それが答えでしょ?)
「ほら、もう糸がひく」
 嫌なのに、パンティがどんどん濡れていく。それに、ブラの下で乳首が痛いほど敏感になっている。お風呂から上がった時、冷気に触れてキュッと尖るのと同じぐらいに。
 男の手が動くたびに、麻衣子の呼吸は不規則になっていく。身を捩って位置を変えようとしたが、男がそうさせなかった。
 双丘を撫でていた手を大きく広げると、お臍の下からパンティの中に手を入れてきた。
「……っや!」
「逃げた罰だ」
(罰って……何? どうしてわたしが罰を受けなければいけないの? どうして!)
 茂みを覆われたかと思えば、そのままどんどん下へ進む。
(えっ? ……何? ……イヤ、やめて! やめてっ!!)
 その男の指が、誰も受入れたところのない麻衣子の秘部を犯した。
「痛ッ!」
 初めて感じる違和感の痛みに、麻衣子は顔を歪めて、その男の腕を引っ張ろうとしたが、パンティが少しずつ落ちるのを助けただけだった。
「バージンなんだ?」
 涙が込み上げてくる。
(何で? 何でわたしがこんな目に遭わないとダメなの? わたしが……いったい何をしたっていうのよ!)
「でも、締め付けてくる」
 ゆっくりと挿入を繰り返される度、麻衣子の口から小さな喘ぎ声が漏れ始めた。
(助けて……誰かわたしを助けて。ここから、連れ去って!)
 だが、そんな願いが叶えられるハズもない。電車の揺れに合わせて、腰を押しつけられ、誰の侵入も許さなかった秘部を弄られ、耳元ではその男の荒い息遣いが聞こえている今は。
 麻衣子の躯に異変が起き始めていた。躯は異常な熱を帯び、まさに腰砕けになりそうな状態だった。
 それが何を意味するのかわからない麻衣子は、早く駅に着く事だけを考えていた。
「……君が微笑むから悪いんだ。短いスカートを穿いて、大腿を見せびらかし、綺麗な髪を靡かせ、大きな瞳でジッと見つめるから」
 その男は、指の抽挿を繰り返しながら、何処かに触れた。
 その瞬間、麻衣子の躯は神々しく……光を放つように飛び散った。声にならない声を発し、躯の痙攣が収まるまで……弛緩するまで、男の胸に背中を押しつける。
 今、自分の身に何が起こったのかさっぱりわからなかったが、それがいけない事だと、頭のどこかでわかっていた。
 だから、扉が開いた瞬間、男の腕を振り払って外に走り出た。
足はふらふらで倒れそうになる。股間はスースーしギリギリスカートの部分で隠れていたので、脱がされたとは誰にもわからないが、麻衣子とあの男だけは知っていた。
 この時、麻衣子の中で何かがプツンと切れた。
 すぐに後ろを振り返り、今まで痴漢をされていた場所を見つめた。そこにはたった一人だけ、こちらを見つめる男性が居た。
 年齢は二十歳前後、痴漢をするような人には見えず、とても清潔感たっぷりの爽やかスポーツマンタイプの大学生風だった。
 本当に、あの男性がしたのだろうか?
 そう思ったが、その男が指を持ち上げて口元へ持っていき、そっと舐めたのを見て、彼が犯人だとわかった。
 電車が発車し、犯人がどんどん遠ざかって行く。
 麻衣子の目からは、静かに涙が零れ落ちていた。それを拭おうともせず、スカートの上からパンティの端を持って上に引き上げると、そのまま階段を上り、下り乗り場へ向かった。
 学校に行ける状態ではなかったからだ。
 泣いている麻衣子を、大人や学生がチラチラ観ていたが、全く気にならなかった。それよりも、あの痴漢男が囁いた言葉だけが、脳裏でぐるぐる渦巻いていた。
 
君が微笑むから悪いんだ。短いスカートを穿いて、大腿を見せびらかし、綺麗な髪を靡かせ、大きな瞳でジッと見つめるから
 
 この日を境に、麻衣子はコンタクトから黒縁眼鏡に変え、髪も大人しい結びに変えると、登下校は下を向いて過ごすようになっていった。
 
 * * *
 
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 麻衣子は肩で大きな息をしながら、会社の前に来ると立ち止まった。
 思いだしたくもない事に囚われた麻衣子は、躯がブルッと震えるのがわかった。シニョンは乱れ、後れ毛は雨に濡れて肌に張りついている。
 麻衣子は整える事は難しいと諦めると、ピンを抜いて髪を解くと乱暴に手で梳いた。雨が周囲に飛び散るが、びしょ濡れな為にそれは構っていられない。
 眼鏡も外すと、スカートから濡れいていないハンカチを取りだし、レンズに付いた水滴を拭いた。
 
「いつまでもそんな格好をしているんじゃない!」
 
 突然怒鳴られたと同時に、肩に何かがかけられた。麻衣子は顔を上げて、側に立つ男性を見た。
 誰?
 30代後半だろうか? スポーツジムに通っているとわかるほど見事な体躯だった。180センチほどの身長に切れ長の目は、誰にでも威圧感を与えるように思えるが、その唇は薄くはなく、人情溢れる温かみがあると感じた。
 彼は、白いシャツにネクタイを締めているだけで、上着を着ていなかった。そこで初めて、肩にかけれた上着が、彼のズボンと同色の茶系だと知ると気付いた。
 しかも、自分は濡れている!
「これ、有り難いですけれど、わたし濡れてるので」
「だから貸してあげているんだろ!」
 何? どうして苛立たしそうに怒鳴るの?
 麻衣子は背筋を伸ばすと、主任補佐の立場を思い出してはっきり言った。
「……親切の押売りは結構です」
「何!?」
 麻衣子は、上着を肩から滑り落とそうとしたが、目の前の彼が手を伸ばしてギュッと掴んでそれを阻止した。
「ちょっと、」
「着ていろと言ってるんだ! まさか、社内でそんな格好でうろつきたい願望があるのなら、止めはしないが」
(わたしが、変な格好をしてるとでも? どこからそんな発想が出てくるのよっ!)
 だが、彼の視線がそれを示すように、麻衣子の胸元に落ちた。麻衣子もつられるように、自分の胸元を見下ろした。
「まぁっ!」
 咄嗟に彼の上着で前を隠し、頬を染めた。
 チラッと視線を上げると、そんな麻衣子の表情に驚いたように、彼は息を飲むような姿でこちらを見つめていた。
「あの……失礼しました。これお借りします」
 彼の眉が、それ見たことかとばかりに大きく動く。麻衣子は、非礼を詫びるように口元を綻ばせて、印象良くしようとした。
「……申し遅れました、わたし広報部の楓と申します」
「広報?」
「はい。社内報を主に担当しております。それで……この上着をお返しする時はどちらに伺えば宜しいですか?」
 更衣室に走って即効に着替えて、スピードクリーニングに出そうという手筈を組み立てたが、彼が麻衣子と同じように笑みを浮かべた。
 彼の笑みがあまりのも素敵だったので、その瞬間、今考えていた計画が全て消し飛んでしまった。
「こちらから取りに伺うよ」
「えっ?」
「……そんな下着を着る女なのに、かなり自分を騙して過ごしてきたんだな」
「・・・」
 麻衣子は何も答えられなかった。彼が名前を明かさす、同じ会社の社員かもわからないまま、そのままビル内に入って行ったからだ。
 
 麻衣子は、彼が誰なのかもうすぐ知る事となるが、今はまだ彼の圧倒的な存在に呆然とする事しか出来なかった。
 この時、彼がどういう存在になるか……麻衣子は予想すら出来なかった。
 なにせ、男嫌いなのだから。

2008/05/01
2008/01/15〜2008/05/01迄、SURPRISE BOXにて公開
  

Template by Starlit