『ココロ、流れるまま』【1】

 莉世が編入した高等部は、幼稚部から大学部まである、付属の藍華学院だった。幼稚部から大学部まで同じ敷地内にあり、一種のマンモス団地のようにさえ見える。
 莉世は、その巨大な敷地に圧倒されながらも、どこかアソコに似ているような気がしていた。
 高台にあり、緑に囲まれた閑静な環境に存在する学校……、そう親ならこんな所で学ばせたいと思うだろう。国籍なんて関係はない。
 藍華学院は、帰国子女の受入れに力を入れていた為、莉世もこうして書類だけですんなり編入出来た。
 
 多分……アノ事は誰も知らないだろう。……だよね?
 
 
「莉世、じゃぁ俺の校舎はあっちだから」
 弟の卓人が、レンガ造りの巨大な門を入ると、すぐに左手を指しながら言った。
「莉世の校舎はあっち。誰かに訊けば、すぐに校長室の場所を教えてくれるよ」
 莉世は、卓人が指した右手奥に見える大きな校舎を見た。
「うん、わかった。じゃね」
 校舎に向けて一歩踏み出そうとした時、卓人が莉世の腕を掴んだ。
「莉世……俺が今朝言った事、覚えてるよな? 絶対逃げ帰るな、って言った事。頼むから、」
 本当に心配そうに見てくる。
「何心配してるの、卓人? 転校生なんて、最初は皆逃げ帰りたいって思うものなんだよ? 私だって、昔そうだったし………今もそう、すっごい心配。でも、大丈夫。わたしはあんまり気にしない質だから」
「ああぁぁぁー、くそっ! 絶対俺が言ってる意味わかってない。何故、お袋が “莉世一人で大丈夫よ” って言ったか、気にもしてないのか?」
「もう、うるさいよ、卓人。それじゃ、ね」
 莉世はひらひらと手を振って、意気揚々と高等部の校舎へ向かった。
 
 
「……それでは、当学院で勉学に励んで下さい」
 莉世は恰幅のいい校長先生と向かい合い、レザーのソファに座って、いろいろ提出しなければならない書類等に見入っていた。
 
 
――― コンコンッ。
 
 ドアがノックされたかと思うと、音も立てず開いた。
「あぁ、やっと来てくれましたね。彼女が先生のクラスに編入になった子です」
「桐谷さん?」
 名前を呼ばれて我に返ると、莉世は書類から顔を上げて、校長先生に視線を向けた。
「紹介しましょう。彼があなたのクラスの担任で、英語科担当、水嶋一貴先生です」
「えっ?」
 莉世は、唐突に言われたその名前に反応した。
 何故、校長先生が一貴の事を知ってるの? まさか、提出した書類に一貴の名前を無意識に記入してしまったとか? なんて恥ずかしい事をしたの、わたしったら!
 ……頬を染めながら、校長先生が顔を向けてる方向へと視線を向けた。
 途端、莉世は彼の射るような視線にぶつかった。
 その突然の対面に、莉世は傍目からもわかるぐらいハッと息を飲んだ。
 先程赤らめた顔は、さっと血の気が引き、今では青ざめてさえいた。
 嘘……な、なんで一貴が、こんな……ところに?!
 
 
 一貴は莉世を鋭く一瞥すると、話しかけてくる校長先生へと視線を向けた。
 しかし、莉世の頭はパニックへと陥ってしまった為、大人しく座ってなどいられなかった。
 急に立ち上がると、逃げるように窓辺へ行き、そのまま外の素晴らしい景色に目を凝らした。
 でも、傍目からはそう見えるだけで、実際は雲が強風に吹かれて速度を早めて移動するように、莉世の脳裏も強風に煽られるように混乱に満ちていた。
 だから、 校長先生と一貴が話してる言葉さえ耳に入ってこない。
 一貴と会いたくなかったと言えば、嘘になる。
 わかってる、わたしの心が誰を求めているかなんて、そんなの向こうで思い知った筈じゃないの。でも、まさか……こんな前触れもなく、しかも担任として会うなんて、思ってもみなかった。
 
 莉世は、ハッとした。
 今朝、ママは「莉世なら、ママがついて行かなくても一人で大丈夫よ。逆に行かない方がいいのかもね」なんて、言ってた。
 それに、卓人だって奥歯に物が挟まった妙な言い方をして、はっきりと口に出して言わなかった。
 瞬間、一気に頭の中の霧が霞んで、詳細になっていくのがわかった。
 家族は知ってたんだ!
 卓人は、パパがこの学校を選んだと言った。パパは水嶋グループで働いているし、一貴のおじさまとは親友同士。だから、この手の事情も知っていたんだ。
 でも、どうして? パパもママもはっきりと言わなかったけど、わたしが留学した理由を知っている筈よ。
 わたしが、一貴から離れる為、一貴を解放する為、一貴を兄のように思う為。そう、全て一貴が中心にまわっていたという事を。
 それなのに、どうして今さら一貴のいる学校なんか選んだの? どうして一貴が教師に?
 彼は、本来なら水嶋グループで働いている筈なのに。
 
 
 莉世は、急に部屋へと意識を戻した。
 妙に空気が張り詰めているのを、感じ取ったからだ。
 莉世は躰中のあらゆるアンテナを揮にし、状況を判断しようと努めた。
 この応接室から、何も物音がしない。校長先生、一貴の声も一切聞こえない。
 ……でも、この部屋中に放たれている一貴の気配を、肌を通じて敏感に察知する事は出来た。
 莉世は呼吸を整えると、ゆっくり振り返った。
 一貴は、先程校長先生が座っていた同じ場所に座り、莉世を見つめていた。
 一貴が放つ瞳は冷たく……まるで莉世など知らぬも同然みたいな無表情をしている。
 
「いつまでそこにいるつもりだ?」
 莉世は、7年ぶりに一貴の声を生で聴いた。
 その声は、覚えていたものより低く、より一層一貴という男を魅力的にさせていた。
 あぁ……わたし、一貴を忘れる事が出来るなんて、どうして思っていたの? 会えば、わたしの心は一貴を求めるのに。
 そう、だからわたしは彼の元を去った。会えば求めてしまうから……。
 でも、わたしが望むモノは、一貴は決してくれない。
 わたしが欲しいモノ、それは……響子さんが手に入れてしまったのだから。
 莉世は、先程まで座っていたソファに歩み寄り、そっと腰を下ろした。
 震えてる足を、悟られませんように。
 莉世は一貴の視線を避け、自然と一貴の膝に組まれた手……左手の薬指を見た。
 しかし、そこには指輪が填まっていない。
 えっ?! どうして?
 莉世は、咄嗟に面を上げ一貴を見た。
 
 一貴は莉世に何も言わず、ただジィーと莉世を見ていた。
 莉世が、居心地悪くなった時、やっと一貴が口を開いた。
「なぜ、黙って留学したんだ?」
 莉世は息を飲んだ。
 最初に発せられる言葉が問いかけだとは、思っていなかったからだ。
「それが、久しぶりに会った…… “妹” のような存在のわたしに言う言葉なの?」
 一貴は眉間に皺を寄せて、鋭い視線のまま莉世を見つめた。
 こんな視線、耐えられない!
 でも、わたしがずっと欲しかったものを、今まさに一貴が与えてくれてる。
 それが、例え責めるような視線でも……一貴の瞳はわたしだけを見つめてくれてる!
 莉世は震えないように、言葉を繋げた。
「久しぶりなんだよ? え〜と、」
「7年ぶりだ、莉世」
  一貴に自分の名を呼ばれた途端、甘い痺れが電流のように躰中を駆け巡った。
 とうとう耐えられなくなり、莉世は双の瞼を閉じた。
 あぁ、わたしやっぱり駄目。こんな近くに居て見つめられたら、一貴の側から離れられなくなる。いったいどうしたらいいの?
 心を決めかねないまま、莉世は再び一貴を見た。
 
「お前には、言いたい事がたくさんある」
 まるで子供に言い聞かせるような話し方と、全て莉世が悪いんだという言葉に、莉世はムッときた。
「わたしだって、言いたい事はたくさんある! まず一つ目、わたしを子供扱いしないで」
「そういう言い方が子供なんだよ。……だが、子供じゃないって事ぐらい、俺にだってわかるさ。まぁ、高校生なんて、子供だと思ってはいるがな」
 唇の端を軽く上げて一貴は笑ったが、その瞳は全く笑っていない。
「今、そんな事をごちゃごちゃ言ってる時間はない。もうすぐホームルームが始まるんだからな。この話は、あとで決着をつけようじゃないか?」
 あと?
 莉世は、7年前の記憶とは違う、少し乱暴な一貴の態度に震えを感じた。
 今まで知っていた一貴は、本当の一貴じゃなかったのかも知れない。
 何故か、そう思わずにはいられなかった。
「ところで、莉世。お前、携帯持ってるのか?」
 話がコロコロ変わり、莉世は混乱し始めた。
「えっ? 携帯? ううん、持ってない。何故?」
 一貴は、初めて固い殻を脱ぎ捨てたように、はぁ〜とため息をついた。
「……それも入れておかないと」
「えっ、入れておく? 何言ってるの?」
 一貴は莉世の言葉を無視し、立ち上がると扉へ向かった。
「一貴! 何、何なの? はっきり言ってくれなきゃ、わからない」
 その悲痛な叫びに一貴は振り向いたが、先程の冷たい表情に戻っていた。
「行くぞ」
 発せられたのは、ただその一言だけだった。
 
 
「席につけ。転入生を紹介するぞ」
 莉世は何もかも納得いかないまま、一貴の後ろから教室へ入った。
「桐谷莉世、以上」
 えっ、そんな短い説明で終わり?
 莉世は信じられない思いで一貴を横目で見上げるが、先程と同じ冷たい表情のままだった。
「水嶋センセ! 彼女、戸惑ってるじゃん! え〜と、桐谷……、ああぁぁぁもう! いいや、莉世って呼ぶよ? うちの担任、いつもこんなだから、気にしないで。いつも、いつも偉ぶっててさ」
 その言葉を発した人は、とても背の高いショートカットの美人だった。
「おいっ、三崎……お前いい加減にしろよ?」
 冷たく、苛立った声を出した一貴に、三崎は無視を決め込んだ。
「あたし、三崎彰子。皆、彰子って呼ぶから、莉世も彰子って呼んで。あっ、そうそう、よろしくね」
「こちらこそ」
 莉世は、美人で活発で大らかな彼女、三崎彰子をすぐに好きになった。
「桐谷。お前の席は、あのおしゃべり三崎の隣にしてやる」
 莉世は、彰子の隣の空いてる席に腰を下ろした。
「ホームルーム終わり」
 そう言うと、一貴はドアに向かって歩きかけたが、素早く莉世に振り返った。
 一瞬、ドキッとしたのは言うまでもない。
「桐谷……授業終了しても帰るんじゃないぞ。お前、さっきの書類を全て記入していないんだからな。そういうわけだ、三崎。一緒に帰ろうなんて言いだすんじゃないぞ」
 一貴は、最後は彰子に向かって、ジロリと睨んだ。
「さっすが水嶋センセだね。あたしの行動読んでるじゃん」
 一貴は、そんな彰子の態度を気にもせず、教室から出て行った。
 途端、彰子が莉世の方を向いた。
「ねぇねぇ、何で編入してきたの? 一応、ココってレベル高いからさ」
 確かに。
 莉世は、卓人がかなり勉強頑張って、中等部から入学したのを知っている。
「ははっ。わたし、帰国子女扱いで編入したから」
「帰国子女?!」
 その大声は、クラス中に響き渡った。
 彰子と莉世の周囲にいる女子・男子も含めて、皆莉世を見つめた。
「ひゃ〜、帰国子女で可愛いときたら、男子はめろめろだよ」
 彰子は、男子たちの「すっげ〜可愛い♪」と言う声を聴きながら、興味津々で莉世を眺めた。
「あたしたち、上手くやっていけそうだね、莉世」
「だね」
 莉世は、にっこり微笑んだ。
 本当に、彰子とは気が合いそうだ。
 彼女の性格が、アメリカでの友人たちと似ていて、気持ちを隠さないからかも知れない。
 
 楽しい学校生活が始まるだろう。
 ただ……、難関なのは一貴の事だけ。
 一貴を見て、一貴の声を聞いて、わたしは我慢できるだろうか?
 頭ではわかっていた……一貴を兄のように思わなければならない、と。
 でも、ココロの中では違っていた。
 彼が欲しい、全てが欲しい! と悲痛に叫んでいる。
 そしてもう一つ、莉世はわかっていた。
 クラスメートがいる中で、莉世に放課後残れと言った意味。
 わたしが勝手に帰らないようにする為、……そして話す事がたくさんあると言ったあの言葉を、遂行する為。
 
 だが、莉世はまだわかっていなかった。
 放課後から先 、どうなるかを……。
 莉世のココロが流れるままに……一貴の元へと走っていくという事を。

2003/03/10
  

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