『ココロ、流れるまま』【2】

 藍華学院は、教務棟という塔のような別館が存在する。
 そこは、教師一人一人に個室が設けられている特別な棟だった。
 
 
――― 放課後。
 
 莉世は、まさしく一貴の個室である部屋に居た。
 莉世をソファに座らせたまま、一貴は書類等を整理して鞄に詰めている。
 その為、一貴が熱中している姿を、莉世は思う存分観察できた。
 
 いろいろ知りたい事がある。
 この7年間どうしていたか、何故教職についているのか、響子さんとの関係は? とか。
 ははっ、そんなの訊けるわけないのに。
 堂々巡りの質疑応答に頭を悩ませながら、莉世は寂しそうに軽く笑った。
 悩みたくない……でも、思いはどうしても一貴に戻ってしまう。
 その姿をどうしても見たい……というように、莉世が一貴を求めて視線を上げると、一貴は応接室で見せたように、ジィーと莉世を凝視していた。
 視線が合うと、一貴は鍵を手に取った。
 その時、一貴の瞳の中に浮かんだ何かが、莉世のココロに訴えかけてきた。
  何? 今のは何なの? 
 一貴の眼光に押されて、莉世の何かが揺り動かされた。
 しかし、一貴の瞳には……もうその光は消えてしまっていた。
 
 
 一貴の車の助手席に座らされ、車は学院から遠ざかりはじめた。
 莉世は、リラックスして運転している一貴の横顔を見つめた。
 特別なハンサムではないけれど、女性の目を惹かずにはいられない男っぽいその容貌は、以前と変わりはなかった。
 でも、やはりどこかイメージが違ってる。一貴は、こんなに冷たくなかったもの。
 ……それにしても、どうして以前使ってた車じゃないの?
 一貴の車は、黒に近い濃紺の国産車だったからだ。
「お前の弟……卓人、あいつかなりのシスコンだな」
 急に話しかけられて、莉世はドキッとした。
 ずっと見つめていたのが、わかったの?
「どうかな? 卓人は……ほら、ずっと一緒に暮らしてた、ワケじゃないし」
 莉世の声が、段々小さくなっていった。
 暗に留学していた事を、仄めかしたみたいだからだ。
 それを一貴が見逃す筈はない。
「あぁ、そうだな」
 つっけんどんなその物言いに、莉世のココロはぐちゃぐちゃになりそうだった。
 好きで留学したんじゃない! あんな光景見て、どうして一貴の側にいられるの? 響子さんと一緒にいる一貴を見たくなかった。
 だから、だから……私から離れてあげたのに。
 
 
 しばらく車を走らせると、一貴はあるお店の前で車を停めた。
 携帯ショップ。
 莉世は看板を見て、一貴がここに何の用があるんだろうと思った。
「ちょっと、待ってろ。すぐ戻ってくる」
 一貴が店に入るなり、すぐに出てきた。
 その手には小さな袋を持って。
「さてと、行くか」
 一貴は車に乗り込むなり、持っていた袋を莉世の膝へ置いた。
 硬直したまま、莉世はその袋に手を添えた。
 何なの、いったい……。
 車が走り出すと、一貴がワイパーを動かし始めた。
 気付けば、ポツリポツリと雨が降っている。
 その雨が本降りになった時、一貴は携帯を取り出しどこかへ電話し始めた。
 
「あぁ、一貴です。ご無沙汰しております。……ええ、そうですね。いずれまた。……ははっ、よくおわかりで。そういう事ですから、心配しないで下さい。はい、わかりました。それでは失礼します」
 一貴は電源を消すと、その携帯を無造作にバックシートに放り投げた。
「ねぇ」
「何だ」
「……私の家に向かってるのよね?」
 返事が返ってこない。
「ねぇったら!」
「お前の家に向かってるように見えるか?」
 莉世は、やっぱり一貴の事をわかってなかったのだ。
 今、目の前にいる一貴は……わたしの知ってる一貴じゃない!
  その思いが伝わったのかどうかわからないが、一貴がフッと笑った。
「俺のマンションだ。言ったろ? 話すべき事はたくさんあるってな」
 莉世は、恐怖を感じた。
 いったい何に? 
 それすらわからない。ただ、一貴に操られてるような気がしてならなかった。
 そう、今は……一貴の意思で私が流されてる! 駄目よ、このまま一貴のマンションへ行って、そして響子さんが出迎えたりしたら?
 結婚していないとしても、恋人なら一貴の部屋に居ても不思議じゃない。
 その響子さんが玄関に出て来て、一貴を迎える姿を見ていられる? 
 わたしがその場所に立ちたいのに、その場所を奪ってしまった響子さんに、昔のようにニッコリなんて笑えるの?
 そんなの……そんなの絶対出来っこない!
「イヤよ! お願い一貴、家へ帰して。別に何も話す事なんてないじゃない。わたしに何を訊きたいっていうの? ただ、留学して戻ってきただけよ、他に何も言う事なんてないんだから!」
 涙が溢れそうだった。
 でも、子供のように泣き叫びたくはない。
 それじゃ、また一貴に子供だと言われてしまう。それだけは絶対イヤッ!
 そんな莉世を無視したまま、一貴は車を走らせていた。
「お願い、一貴……家に送って」
 莉世の哀願は、一貴には届かなかった。
 
 
 唇を噛む事で涙が零れないようにしていると、車が止まった。
 ウィンドウを下ろし、マンションの駐車場に通る為に、セキュリティを解除していた。
 今だ!
 莉世は、咄嗟に車のドアから飛び出した。
 その時、莉世の膝にあったあの袋が、雨が降りしきる道路にゴトンと落ちた。
 飛び出した箱の表面には、携帯の形が描かれていて、その箱の中身はまさしく携帯であろうと推測出来た。
 一貴は、さっき携帯を持っていた………どうしてまた買ったの?
 何故? わからない、わからない!
 問いただそうと一貴を見ると、一貴は怒りに満ちた表情で運転席から飛び出し、莉世に向かって来ようとした。
 怖い!
 莉世は、彼から逃げるように走り出した。
 あんな……、あんな怒った顔一度も見た事ない!
 いつも一貴はニコニコして、わたしの我儘を快く受け止めてくれていた。
 何をしても怒らないで、わたしを諭すように……親身になってくれていたのに!
 
 降りしきる雨など気にせず、びしょ濡れになった莉世の腕に、誰かがきつく捕んだ。
「痛ッ!」
 無理やり振り向かされると、怒りに目をギラギラさせ、莉世同様びしょ濡れになった一貴本人がいた。
「いい加減にしろ!」
 心臓がドクンッと高鳴った。あまりにも近くにいたからだ。
 莉世は一貴の顔を見上げて、初めて彼の目の奥に宿る怒りと他の何かに気が付いた。
 それは……心配だろうか?
 グイと莉世の腕を思いっきり引っ張ると、一貴はそのままマンションのエントランスへ向かった。
 やだ、やだッ!
「一貴。行きたくないって、わたしが言ってるのよ。お願いだから、」
 振りほどこうと必死になっていると、警備員室から一人の男性が出てきた。
 年齢は40歳後半の、どこかで見た事がある顔だった。
「悪い、佐伯さん。俺の車がゲートの所で止まったままなんだ。すまないが、駐車場にいれておいてくれないか? 鍵はそのままついている」
 一貴はそれだけ言うと、暗証番号を打ち込み始めた。
「水嶋さん……もちろん車は地下へ入れますけど、問題になりませんか? 嫌がる生徒さんを部屋に無理やりあげようとするのは。すいません、余計な事を言ってしまって。しかし、これも仕事ですから」
 一瞬、一貴は莉世の腕をより一層強く掴んだ。
「うっ」
 莉世は、痛さから顔を顰めた。
 こんな酷い扱い、一貴にはされた事なかったのに。
「気にしなくていい、佐伯さん。こいつ、莉世だから」
 一貴の言葉に、佐伯が驚いた。
「莉世って……、あの “莉世ちゃん” ですか?」
「そう、あの “莉世ちゃん” だよ! 覚えていてくれて良かった」
 その皮肉を込めた言葉に、莉世は捕まれた腕の痛さを忘れ、一貴の顔を見上げた。
 そこには、何か物言いたげな表情が浮かんでいた。
 それから、警備員の方へ視線を向けると、彼は視線をキョロキョロと動かしそわそわしていた。
 そこで、初めて警備員が誰だったのか思い出した。
 あの時……わたしを中へ入れてくれたおじさん!
 
 
 莉世は、一貴の玄関のドアの前でも、諦めず拒絶を示した。
 だが、一貴はドアを開けると、莉世を無理やり押し込み鍵をかけた。
 そのガチャリという音は……静かな部屋に大きく響き渡った。
 その音は、莉世を閉じ込めた事を意味している。
 莉世は戦きながらも、咄嗟に玄関を見下ろした。
 そこには……女性ものの靴が一つもなかった。
 響子さんは、いないんだ。
 
 安心したのも束の間、一貴が逃げ道を閉ざした事を思い出すと、莉世は強気に出て一貴を見上げた。
「信じられない……一貴にこんな事する権利ないのに」
 一貴は、莉世を見下ろした。
 その時、一貴がどれだけ怒りを抑えていたのか、何故それほどまで怒っているのか察するべきだった。
 でも、莉世はあまりにも一貴の事がわかっていなかった。
 知っているのは、兄のように優しかった姿だけ……、今のこんな一貴は見た事がなかったのだから。
 一貴は急に莉世の顎を捕まえると、乱暴に上を向かせた。
「っぁ」
 莉世が、一貴の右手に手を置き、離させようとした。
「やめ、あっ!」
 一貴は莉世が何かを言うまえに、その口を塞いだ。
 奪うような、全く優しくないキス。
 激しく、荒々しい痛めつけるようなキス。
「んっっ……やっ、かず、き」
 一貴の冷たい唇は、何度も莉世の柔らかな唇を捕らえては、様々に動き回り激しく吸う。
 莉世の思考回路はまさしくパンクしてしまい、考えられるのは……一貴にキスされてるというその事実だけだった。
 そして、乱暴に奪われてるというのに、そのキスを止めて欲しくないと、頭の片隅で思ってる自分もいた。
 突然、一貴が下唇を強く吸った。
「んッ!」
 その痛さに、莉世は一貴を強く押しやった。
 一貴は、すんなり後ろに一歩退いた。
 莉世は、そこで我に返った。
 どうして、一貴はこんなキスを?
 激しく高鳴る動悸は、とても隠しきれるものではなかった。
 逆に、一貴は変わらず冷静で、莉世の昂ぶっている興奮を見逃さないように見つめていた。
 
 一貴は莉世の腕を捕ると、部屋の中に連れて行き、右手奥にあるバスルームに莉世を押し込めた。
「シャワーを浴びるんだ。ずぶ濡れのままでは風邪をひいてしまうからな。あとで、ガウンを持ってきてやる」
 そのまま動こうとしない莉世に、一貴は苛立ち一歩前に踏み出した。
「脱げないんなら、俺が脱がしてやってもいいんだぞ!」
 な、何言うの?!
 絶句する莉世に、一貴はニヤッと笑った。
「早くしろ。俺も、莉世のせいでずぶ濡れになったのを思い出すんだな。いつまでものんびり入ってると、俺も入ってくる事になるぞ」
 莉世は、パッと顔を赤らめた。
「浴びるわよ。だから、早く出て行って!」
  一貴は、肩を竦めるとドアの外へ出た。
 一貴が再び戻って来ないように、莉世はすぐに制服を脱ぎ捨て、シャワーブースへ入った。
 
 
 その時、 一貴は、既に濡れた服を全て脱ぎ捨て、バスローブをひっかけてソファに崩れるように座り、きつく拳を握って天井を見ていた。
 
 その一貴の胸が、まるで長距離を走ったように……激しく上下しているのを、莉世は知るよしもなかった。

2003/03/14
  

Template by Starlit