『壊れたココロ 〜プロローグ〜』【2】

 ベットサイドのランプだけが、その部屋を艶めかしく照らしていた。
 莉世にとって、禁断の部屋。
 絶対立ち入り禁止の部屋。
 
 そして、とうとう莉世はベッドで動いている一貴を見た。
 陽に焼けたたくましい躰が、波のようにうねっている。
 幼い莉世にとっても、その姿はとても美しく見えた。
 全然パパの躰と違う……。
 だが、荒い息遣いとシーツが擦れる音の方に、莉世の視線は釘付けになった。
 
 
「ねぇ、かず…き、お願いっ……」
 その甘く誘うような声は、莉世も知っている声だった。
 宮野響子……一貴と一緒にいる時、携帯によくかけてきた女性。
 そして、一貴がパーティーへ行く時、よく連れて歩く女性。
 莉世は、彼女がママの言っていた……一貴が結婚を考えようとしている女性なんだと、改めて気付いた。
 泣き叫んでしまえばいい、そうしたら一貴はきっとこっちを振り返って私を抱きしめてくれる。
 でも、莉世は冷静に絶対そうはならないとわかっていた。
 莉世が絶対立ち入り禁止の寝室に、響子さんは入ってもいいのだから。
 それが、全てを立証している。
 一貴は……一貴は私の事なんか何とも思っていない!
 そう悟った瞬間、莉世の心の中で何かが壊れて砕け散った。
 その凄まじい弾け方は、莉世を呆然とさせる程だった。
 
 一貴は、ベッドスタンドに手を伸ばして、袋の包みを取った。
 莉世はそれが何かわかった……コンドームだ。
 ママから教えてもらった、避妊の道具。
「ねぇ、一貴……私、今日大丈夫な日だから付けなくても、」
「俺は、そんな安受け合いは絶対にしない。十分知ってる筈だろう、響子」
 この時、初めて一貴の声を聞いた。
 今までは、響子さんの一貴を呼ぶ声と、二人の喘ぎ声しか聞こえてなかったからだ。
 でもそんな事は、頭の隅に追いやられた。
 一貴はコンドームを装着すると、左手で響子さんの右膝裏を抱えた。
 莉世の目に、響子さんの白い足が飛び込んだ。
 それは……とても生々しく、莉世は思わずギュッと目を瞑った。
 
「っああぁぁぁ、んっっ!」
 途端、響子の悲鳴のような声を聞いて、莉世はハッとして目を開けた。
 真っ赤に塗られた爪が、一貴の背にきつく食い込んでいる。
 そして、一貴は…ゆっくりと腰を動かしながら、響子さんだけを見つめていた。
 どんな変化も見逃さないように……。
 でも、莉世は激しく喘ぐ響子さんに対して、一貴の態度が冷静なように感じられた。
 でもそんな事は、莉世には関係ない。
 二人が……今まさにしているのが、 セックスだとわかると、莉世はここにいる理由がなくなった。
 立ち去るべきだ……このマンションから。
 そして……一貴から。
 そう悟ると、莉世は踵を返した。
 
 
 莉世は放心状態で、家に戻ってきた。
「莉世! もう、この子は! 一貴さんのマンションへ電話しようか迷っていたのよ」
 ママが玄関先で怒鳴ると、莉世はビクッとした。
 怒鳴られた事にビクッとしたのではない。その言葉の意味にビクッとしたのだった。 一貴の……マンションという言葉に。
 急に莉世の脳裏に二人の姿が入り込んできた。
 イヤ……、嫌だ!
 しかし、莉世の目には涙がなかった。出なかったのだ。
 あまりにも放心状態で、感覚が追いつかないのだ。
「莉世? ……莉世、どうしたの? 莉世? ……あなた! 莉世が、早く来て!」
 
 莉世が気付くと、ママとパパと一緒にソファにいた。
 玄関からここまでの記憶が、すっぽり抜け落ちている。
「莉世、どうしたんだ? 何かあったのか? ちゃんと言わないと、パパもママもどうすればいいかわからないよ?」
 莉世は空ろなまま、パパの視線を捕らえた。
 頭は動いている。動いてはいるが、顔が強ばり、上手く感情を表すことが出来ない。
 すると、パパは優しく莉世を抱きしめた。
「莉世……パパとママはお前を大切に思ってるんだ。だから、莉世がそんな状態だと、とっても悲しいし、苦しい。少しずつでいいから、ゆっくりパパとママの元へ戻っておいで?」
 莉世の心に、パパの温もりが伝わってくると、躰がポカポカしてきた。
 しかし、莉世が発した言葉は、両親が望んでいたものではなかった。
 
「…留学したい」
 絞り出したような、掠れた声がリビングに響いた。
「莉世!」
 と、叫んだママを、パパが手で制した。
「そっか、莉世は留学したいのか。だけど、わかっているのか? 留学すれば、パパやママ、莉世の大好きな弟・卓人(たくと)とも離れ離れになるし、お友達とも会えなくなるんだぞ? それがわかって言ってるのかな?」
 一瞬、莉世の目に感情が表れたのを、莉世のパパ・卓也(たくや)は見逃さなかった。
 莉世は、何度も何度も頷いた。
「留学したい……」
 パパは、莉世の頭をポンとたたいた。
「よし! パパは莉世の事をよくわかっているよ。だから、ようく聞いて欲しいんだ。パパも留学した経験があるから、それがどんなに厳しいものか、どんなに寂しいものか知っている。だが、莉世が頑張るというのなら、パパもそれを応援しよう」
 莉世は頷いた。
「駄目だ、莉世。ちゃんと言葉に表わしなさい。そうしなければ、自分の意思がはっきり見えないぞ」
 急に、莉世の目に涙が溢れそうになった。
「わたしぃ……は、頑張るぅ、ちゃんと頑張るぅ」
 莉世のきめ細かい肌の上を、涙が流れた。
 
 やっと……、莉世の感情が戻ってきたのだ。
 卓也は、その事にどれだけホッとしたことか。
「そうだ、ちゃんと自分の意思をはっきり表現しないとな。……ところで、パパの考えだが、きちんと4年生を無事終業してから留学の準備をしよう。パパは中途半端は許さない、わかっているね?」
 莉世は小さな声で、うん、と答えた。
「あと1ヶ月、頑張って勉強しなさい。……さて、晩ご飯の用意をしようか。莉世は顔を洗ってきなさい」
 莉世は頷き、洗面所へ行った。
 その後、パパを睨むように見ていたママを、パパがどのように話したのか、莉世は知るよしもなかった。
 
* * * * *
 
 
――― ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ!
 
 莉世は、その音で目が覚めた。
 またも、無意識のうちに泣いてしまっていた。現実にあった夢のせいだった。
 この夢は、何度もわたしを襲う。でも、夢から醒めると、朝はかなり気分が良くなるのも事実だった。
 あの時と同じ暗闇ではないからだろう。それとも、くよくよ考えたりしないから?
 わたし ……一貴の事を忘れられるの?
 
 莉世は勢いよく起き上がると、頬の涙を拭って「う〜んっ」と言いながら伸びをした。
 窓から差し込む朝日が、莉世を照らし出す。
 その姿態は、輝いているように見えた。
 アメリカ生活で、莉世はパジャマではなく、ナイティやネグリジェを愛用している。
 だから、その生地が反射しているだけで、輝いてみえるのかも知れないが、莉世は本当に愛らしい女性へと成長した。
 
 莉世はナイティを脱ぎ捨てると、新しい制服を着た。
 緑と紺のチェックの巻きスカート風の短いスカート、白いブラウスに大きな赤いリボン、ダブルになっている丈が短めの濃い緑のブレザー。
 鏡で入念に自分の制服姿を見た。
 弟で、同じ付属中等部3年に在籍している卓人が言うには、この女子の制服は、都内一可愛い制服だと言う。
 この制服を着ている女性なら、是が非でも彼女にしたいとか…。
 変な話……。
 莉世の頭は、そのところがちょっと抜けている。
 アメリカ生活では、それとは逆だったからかも知れない。
 
 
――― コンコンッ。
 
「はい?」
「いい?」
「いいよ」
 卓人が入ってくると、第一声目。
「うわっ! やっぱり莉世って可愛いよなぁ〜。その制服すごく似合ってるよ」
 莉世は眉をひそめた。
「卓人、バカじゃないの? 制服を褒めてどうするの? ……それより、莉世って呼び捨てにしないで、お姉さんと呼びなさい」
「それって、説得ねぇ〜。今まで1年に1回、しかも数日しか一緒に過ごせなかったんだぞ? それで、姉貴面されてもなぁ〜」
「あっ、そう。卓人がそうくるなら、」
 莉世はさっと近づくなり、卓人の頬にキスをした。
 卓人の顔は、みるみるうちに真っ赤になった。
 言葉を失ってる間に、莉世は笑いながらドアを開けた。
 
「Hurry up!Are you going to go late to school ?」
§ 早く! 学校に遅れるよ?
 
 卓人は、我に戻ると莉世をうらめしそうに睨んだ。
「莉世! ここはアメリカじゃないんだからな! 親愛の情なんかしなくたっていいんだよ。普通、実の弟にキスなんてしねぇよ、ったく。それに莉世は日本人なんだぞ」
 卓人は何て可愛いんだろう!
 莉世は、クスクス笑いながら成長した弟を見つめた。
 卓人は男にしておくにはもったいない程、本当に可愛い。
 本人は「目指せ、ジャ○ーズJr!」とか言ってるけど、それが何なのか莉世にはさっぱりだった。
 聞くところによると、可愛い男の子はモテるんだとか……。
 まぁ、本人に勝手に言わせておこう。
「わかった、わかった。それなら、卓人もお姉さんと呼びなさい。昔は“お姉ちゃん、お姉ちゃん”って言って、可愛かったのになぁ」
「そんなの、俺がガキの頃の話だろっ! それに、俺は絶対莉世の事を“姉貴”って呼ばないからな」
 莉世は、ハイハイと言うように部屋を出た。
 
 階段を降りようとした時、後ろから卓人に呼び止められた。
「くそっ、莉世……しっかり気をもてよ? 学校へ行っても、逃げ帰ってくるんじゃないぞ?」
 莉世は、問うように卓人を見た。
「あぁぁぁ、もう! だから嫌だったんだよ、莉世が付属の高等部へ編入するのは」
「何言ってるの、卓人? 確か……あんたが推薦したんじゃなかった?」
 卓人はイライラとしながら、ボサボサに整えた(?)髪を、さらに手でくしゃくしゃに掻き乱した。
「俺じゃないぞ、絶対に。親父が言い出したんだ、あの策士! 俺は反対だって言ったのに。くそっ、親父のヤツ」
「もう、何の事を言ってるのか全然わかんないよ」
 卓人は急いで莉世の側までやってくると、腕を強く掴んだ。
 弟といってもたった2つ年下だけで、成長期まっさかりの男。
 175cmの卓人から見れば、163cmの莉世を見下ろすのは簡単だ。
 莉世は驚きながら、苦しそうに顔を歪めてる弟の瞳をジィと見た。
 その視線に耐え切れなくなった卓人は、パッと視線を逸らした。
「俺、絶対莉世を守るから、」
 振り向くと、莉世を真剣に見つめた。
「だから、逃げ出さないでくれ。何かあったら、俺が絶対……に仕返ししてやるから。だから、気をしっかりもてよ、なっ?」
「う、うん……ありがとう」
 莉世は、何が何だかわからないまま頷いた。
 もしかしたら、卓人は姉を守らなきゃいけないと思ったのでは?
 まるで、兄が妹を守るように。
 莉世はそう考えると、ニコッと笑って卓人の背中をたたいた。
「よし、よし。それじゃ、卓人に守ってもらうとしようかな?」
 軽い調子でそう言い捨てると、莉世は気にもせずに階下へ降りて行った。
 
「違うんだよ……俺、もう莉世が傷つく姿みたくないんだよ」
 ボソリとつぶやいたその声は、莉世の耳には届かなかった。
 
 そしてこの時……卓人が言った言葉の意味を知るのは、そう遅くはなかった。

2003/03/06
  

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