もしかして小牧が言ったように、泰成は千珠に好意を持ってくれている?
とそこまで考えた時だった。
「千珠さま……」
突然小牧に名を呼ばれて、千珠は今考えていたことを頭の片隅へと追いやる。そして彼女の方へ意識を向けた。
「あっ、何?」
だが、小牧は苦しそうに顔を歪めて千珠を見ている。
「ど、どうしたの?」
「小牧が申し上げることではないのですが……千珠さまはご存知ないので、あえて口にしたいと思います」
「うん? ……何?」
大層な小牧の言い方に小首を傾げつつも、彼女の気をまぎらわせようと頬を緩める。
だが、彼女の緊張は解けない。
そうされると、千珠まで何故か緊張してきて背筋を伸ばした。
「……小牧が下がる前に局を退出された蔵人少将さまが、再び千珠さまの元へ忍んでこられたというお話。これは、とても意味深いのです!」
小牧の剣幕にびっくりして千珠は一瞬上体を反らして逃げるが、さらに彼女が詰め寄ってきた。
「で、でも……そんなのって普通でしょ? ただ、わたしのことが心配になっただけで」
「心配されるのであれば、今は千珠さま付きとして任されてる小牧に言付けすればいいのです。にもかかわらず、御自ら千珠さまの元へ……しかも暗闇に乗じて通われたのはきちんとした意味があるのです!」
また通う≠ニいう単語に、千珠は自然と顔をしかめる。
こんな風に戸惑うなら、もっと勉強しておけば良かった――と思いながら、千珠は小牧を窺った。
「えっと、ちょっと気になってたんだけど通う≠チて意味は何? 局から局へ移動するという意味とは……また別?」
小牧は呆気に取られた表情をしたが、すぐに顎を引いて千珠をまじまじと見返した。
「そうですね。これからいろいろと教えて差し上げます。千珠さまにはここでの暮らしに慣れてほしいですから。まず通う≠ナすが――」
小牧が静かに説明し始める。彼女の言葉が進めば進むほど千珠は息を呑み、そして頬を染めて口元を手で覆った。
泰成が昨夜千珠の元へ訪れたのは、こちらに来て初めての夜だから、心配してくれたとばかり思っていた。
そんな彼の行動の裏にあったのは、千珠をほしいという感情。
それを知らされて、心の奥が急にほんわかとなり、だんだん熱くなる。
「……でも、まだ会って間もないのに?」
戸惑いながら訊ねる千珠に、小牧が小首を傾げる。
「どうしてです? 本来は内裏でいろいろな姫の噂を耳にされ、興味をそそられ、そして殿方は姫の住まう邸へ通うのですよ。ですが、泰成さまは直接千珠さまのお顔を明るい場所でご覧になり、そして腕に抱かれた。蔵人少将さまが千珠さまに心をお寄せになるのは、当然のことですわ!」
「だけど――」
「千珠さまのお国ではどういう決まりがあるのかわかりません。でも、蔵人少将泰成さまの行動が何を意味するのか知っておくべきです。あの、泰成さまを……お嫌いではないのでしょう?」
嫌い? 泰成のことを? ……ま、まさか!
千珠は、ぶんぶん頭を振った。
嫌いどころか、泰成の率直な物言いや頭の回転の速さには心惹かれるものがある。突然やってきた千珠を最初は疑いを持ったとしても、自分の考えを持つ精神の強さに男らしさを感じた。
そして、千珠を見る真摯な目つき……
言葉を交わさなくても、泰成が傍にいてくれるだけで、胸の奥が熱くなる。心臓はドキドキし、もっと彼と話したくなる。
明け方近くもそう感じた。
泰成が腰を上げた時、もっといてほしいと口走りそうになったぐらいだ。
そんな風に千珠が思っている時、泰成も同じ気持ちだったのだろう。
ああ、どうしよう……、嬉しいかもしれない。
でもそこで、小牧が泰成の妻の話をした時に取った彼の態度が脳裏を過った。
あんな態度を取ったのは、10年も寄り添っている北の方≠フ存在を知らせたくなかったからだろう。
理由は多分、千珠が自分の国では一夫一妻の話をしたからだ。
千珠をなんとも思っていなければ、隠す必要さえなかったはず。でも彼は小牧に口を閉じるように言った。
妻のある身で千珠を求めたら軽蔑されると思った? それほど千珠を求めているということ?
千珠はあまりの嬉しさに、頬をピンク色に染めた。
だが、湧き起こる彼への想いに戸惑いも覚えていた。
時代を超えて出会ったふたりが求め合い、妻のある男性に身を投げしてもいいのだろうかと。
護寿神社と白桜邸にある桜は、年季の差は違うが全く同じだった。
それはつまり、今いる過去が未来の現代へつながっているということだろう。
もしその考えが本当だった場合、千珠が過去で動くたびに未来に影響を与えてしまわないだろうか。
もしここで動いてしまったら、千珠の暮らしていた未来はどうなるのだろう。
なくなる? それとも、何も……変わらない?
千珠は袿(うちき)の袷を両手でしっかり掴み、ゆっくり立ち上がった。
「千珠さま? どうなさったのですか?」
小牧に声をかけられても千珠は返事をせず、御帳台を出ると几帳を回ってまっすぐ御簾まで歩く。それを手で押し上げると、局から孫廂に出た。
「千珠さま!」
小牧が駆け寄り、千珠の腕をしっかり掴む。
「どちらへ行かれるのですか!?」
「外の空気を吸わせて。あそこでいいから……」
千珠は孫廂からすのこ縁へ出て、そこで腰を下ろした。
「いけませんわ。どうか局に戻ってください」
小牧が腕を引っ張って立たせようとするが、千珠は頑な態度でその場に居座る。
無理だとわかったのだろう。
彼女はため息をつくと、千珠の後ろに腰を下ろした。
別に付き添わなくてもいいのに……
そう言ったところで、小牧は立ち去ろうとはしないに違いない。
彼女は千珠が驚くほど順応性が高く、明るい性格で魅力的な女房だ。その反面、意外と頑固な面もある。
こうだと決めたことに関してそれが正しいと思ったら、彼女は絶対にテコでも動かないに違いない。
そして今、小牧は千珠の傍から離れないと態度で示していた。
千珠はふっと口元を緩めはしたものの、小牧に声をかけなかった。
一生この世界に留まることになった場合、自分はどうすればいいのかを考えながら、広い庭園を見るともなしに眺める。
陽が傾き、小牧に「もう酉の刻(午後5時〜)ですわ」と言われるまで、千珠はその場から決して動かなかった。
「千珠さま?」
「わかったわ……」
小さな声で呟き、千珠は小牧の手を借りて立ち上がる。
樹の陰に佇むひとりの男性が、じっと千珠を覗き見ていたと気付きもせず、千珠は小牧に促されるまま泰成に与えられた局に戻った。