「今、小牧が話したのが全てだ。次は千珠の番だ。どうやって、白桜邸の……主殿の奥深くにある庭園へ侵入できたんだ?」
まるで、何か目的があって泥棒に入ったと言わんばかりだ。
でも、泰成から見たらそうなのだろう。千珠は不審人物、警察に届けられても仕方のない行動を取っている。
あれ? こっちでは警察ではなくなんて呼ぶの? 検非違使(けびいし)だっけ? ――なんてことが頭に浮かび、千珠は空笑いを漏らす。
「そんなの、今は関係ないのに……」
「何が関係ないんだ?」
思わず口に出していたと気付き、千珠は力なく頭を振った。
「ううん、こっちの話。それより、わたし……その桜を見てみたい。わたしが倒れていたっていう場所へ連れていってくれませんか?」
今まで親切に対応してくれている泰成。だから、千珠の頼みをきいてくれると思っていた。
でも彼は表情を強張らせ、拒絶の意思を示した。
「今は申三刻(午後4時ごろ)。主殿へ行けば、そこら中に女房が行き来しているはず。そんなところに、千珠を連れてはいけない」
「だけど、その桜を見たいの。そうでなければ、わたしのことは何も話せない!」
そう強く言っても泰成は口を閉ざし、小牧は表情を歪めていた。
「もういい! それなら、わたしがひとりでその場所へ行ってくるから!」
勢いよく啖呵を切ったところまでは良かったが、躯の節々に痛みが走るのをすっかり頭から抜け落ちていた。
膝立ちをしようとして、無様な姿で前のめりにこけてしまう。
「千珠!」
すかさず泰成が千珠の腕に触れて助けてくれる。
至近距離で頼むなら今しかない。
「お願い! 確認させて! ……わたしは、わたしの考えが正しいのかどうか確認したいだけなの!」
感情の赴くまま、声を張り上げた。
千珠は知りたかった。
倒れていた場所に桜があったと小牧が言った時から、その桜をこの目で見たかった。
そもそも、現代での最後の記憶は、神木として祭られていたあの桜の大樹。
なんらかの共通点があるとしか考えられない。
それに、小牧が言った一陣の風≠燻vい当たる節がある。
だからこそこの目で桜を見て、確認してみたかった。
「小牧……、千珠の小袖の上に袿(うちき)を」
「蔵人少将さま? それでは千珠さまをお連れになるのですか!?」
わたしを連れていってくれるの? ――期待を込めて、千珠は泰成を仰ぎ見る。
「どうしてそこまでして、白桜邸の桜を気にするのかはわからない。だが、千珠が見たいと言うのなら、見せてやろうではないか」
「わかりましたわ」
小牧は立ち上がり、用意していたと思われる袿を手に持って千珠に近づく。
「小牧の信用できる女房に、桜の見える局を用意するよう伝えよ」
「かしこまりました」
地に文様を美しく織った綾織りの袿を千珠にかけると、小牧はさっと身を翻してすのこ縁へ足を向けた。
彼女が「小菊」と呼びかけて何かを話すその後ろ姿を見ていたら、いきなり泰成が千珠を横抱きに抱き上げた。
「あっ!」
咄嗟に彼の首に両腕を回す。筋肉に痛みが走って、思わず彼の鎖骨に顔を埋めた。
「少し、我慢するんだ」
続けて「小牧、ついて来なさい」と言った泰成は、千珠を抱いて几帳を横切った。小牧が御簾を上げるのを待って、廂(ひさし=廊下を幅広くしたような細長いスペース)へ、さらに孫廂(まごびさし=廂の外回りにある廊下)へ出る。
すかさず小牧が妻戸(つまど=両開きの板扉)を開くが、そこから出る前に、泰成が少し千珠を抱く腕に力を入れた。
「私がいいと言うまで面を上げないでほしい。いいね?」
千珠は、緊張したような泰成の声音に静かに頷いた。
「よし」
泰成は千珠を抱いたまま、すのこ縁(=孫廂の外回りにある縁側風廊下)を歩き、透渡殿を通って主殿へ入った。
東の対屋と同じように長いすのこ縁を進み始めた途端、人の息遣い、衣擦れの音が耳に届く。
面を上げるなと言われたが、急に周囲の状況を確かめたくて、千珠はこっそり目を走らせた。
その光景に、思わずハッと息を呑む。
開けられた格子の向こうに見える見事な寝殿造り、広大な敷地、そして先が見えない塀。
豪華なそれらを目の当たりにして、千珠の口が自然とポカンと開く。
しかも、目に入るのはそれだけではない。蝶のようにひらひらと舞う女性の表着が目の端に入る。
そんな彼女たちの囁き声だろうか。「蔵人少将さまよ」「少将泰成さまだわ!」という興奮した女性の声が、千珠の耳にまで届く。
当の泰成は特別気にする様子もなく、しっかりと千珠を抱いて前へ進む。
男を感じさせる力、堂々たる態度に胸がときめく。こんな想いを抱いたのは生まれて初めてだ。
千珠はさらに身を寄せ、泰成の肩に顔を埋める。現代の香水とは違って、なんとも言えない深い香りが彼からする。
香木なのだろうか? そういえばこの時代、香を焚いて着物に染み込ませるとかなんとか……
昔も今も、香りをまとって楽しんでいる。
使う用途は違うかもしれないが、香りを楽しむことに変わりはない。
香りが緊張を和らげてくれたのか、千珠の心臓は静かにトクントクンと胸を打つ。
ふっと口元を綻ばし、さらに彼の香りを楽しもうと胸いっぱいに吸い込んだ。
その時だった。
かすかにリン、リリン……≠ニ鳴る鈴の音がした。耳の奥で反響する聞き覚えのある音に、千珠の躯が強張る。
もしかして、桜に近寄った際に突如聞こえたあの……鈴の音!?
泰成にも聞こえているのかと彼を盗み見るが、特に気にする様子もない。
この音は、千珠にしか聞こえていないのだろうか。
「こちらの局をご用意いたしました」
小牧の声に続き、御簾を巻き上げる音がした。
泰成は彼は千珠を抱いたまま局へ入り、御簾越しに腰を下ろす。
だが、彼は千珠を離そうとはせず、しっかり抱く。
この意味はいったいなんだろう――ふとそんな風に思った瞬間、また鈴の音が聞こえてきた。
千珠はぶんぶん飛び回るハエを追い払うように頭を振り、鈴の音を遠ざけようとする。
でも、耳障りな鈴の音を振り払えない。
「あれが桜だ」
とうとう千珠は諦めて、泰成が指す方向へ視線を向けた。
瞬間、心臓がドキンと激しく高鳴る。
御簾越しのため、薄らとしか桜が見えない。
でも何かと呼応して、千珠の心を激しく揺さぶってきた。