最終章『忘れられない蜜華』【5】

 カラカラになった喉を潤すように唾を呑む込むと、乃愛は意を決して口を開いた。
「叶都……」
「まず、俺に話をさせてくれ」
 叶都は距離を縮めるように、一歩乃愛へ近づく。
「乃愛に別れを告げられたあの日、何かがおかしいと思った。学校のことを何ひとつ知らせてはいなかったのに、俺が新入生代表として挨拶をすると知っていたから。だが、俺は……他の男に心移りをしたと言われて頭に血が上り、乃愛への想いを葬り去った。そう思っていた……。今日、ここで偶然に乃愛と再会するまでは」
 揺るぎない想いを伝えようとしているのか、叶都はさらに乃愛へと近づいた。手を上げて、乃愛のショートカットの髪にそっと触れる。
「乃愛のことを忘れたことは、今まで一度もなかった……。俺を捨てた女のことは、記憶から葬り去るのが普通なのに。だから、あの長くて綺麗な髪を切っていても、俺はすぐに乃愛だとわかった。なのに、乃愛は俺が誰なのか気付きもしなかった」
「それは!」
 叶都が想像よりもずっと大人っぽくなっていたからよ――と告げるつもりだったのに、叶都がいきなり乃愛の唇に指を置く。
 突然親しげに触れられたせいで、言葉が喉の奥に詰まる。
「それが悔しかった。本当に悔しくて、腹が立った。それで乃愛をウッドデッキへ呼ぶために策を練ったんだ。乃愛が俺に対して他人行儀に振る舞うのなら、乃愛の感情を引っ張り出そうとさえ思った」
 乃愛の唇に視線を落としたまま、叶都は軟らかい乃愛の唇を指の腹でそっと撫でる。
 性的な意味で触れられているわけではないのに、乃愛の背中が急に甘い戦慄が走った。
「ミイラ取りがミイラになる≠ニは、よく言ったものだよな。まさに俺がそうだった。我慢ができなくなって、無理やり乃愛にキスをしたんだから。その時にわかったんだ。乃愛は、決して俺を忘れていたわけではななかったんだと」
 乃愛の下唇をめくるように軽く押してくる。歯を見せることに恥ずかしさを覚えて、乃愛はその手から逃れようと下を向いた。
「カフェを出てから、俺は今まで背を向けていた過去の記憶を引っ張り出してみた。別れを告げられたあの日、乃愛は俺が主席合格をしたことを知っていた。それを知っているのは、両親だけ。もし乃愛が母と接触していれば、あの日ではなく数日前に会った時に変化があったはず。だが、乃愛にその気配はなかった」
 叶都の手は、露になっている白い首筋を指で優しく撫で始めた。叶都しか知らない、乃愛が感じる耳朶の下をそっと撫で下ろす。
 ぞくぞくする快感が、乃愛の躯の芯を駆け抜ける。
「……っぁ!」
 我慢できず、乃愛は喘ぎ声を漏らしながら軽くのけ反った。そうすることで、乃愛を見下ろす叶都の視線を真っ正面から受けることになる。
「俺、あの日のことをもう一度思い出してみたんだ。乃愛は、見覚えのある外国車から出てきた。そこで俺は、母ではなく父が絡んでると思った。……だからここに来る前、父が勤める会社へ行ってきた」
「えっ?」
 カフェを出てから叶都が行動を起こしていたと知って、乃愛はビックリした。
「そんなに驚くことか?」
 自己嫌悪するように顔を歪めて笑いながら、叶都は乃愛の耳朶に軽く触れて、短い髪を耳にかける。
「会社には行ったが、父には会っていない。会ったのは、父の運転手を何年も勤めている人だ。俺は彼に問い詰めた。最初こそ知らないと言い張っていたが、ちょっとかまをかけると、二年前のことをペラペラと話してくれた。美容専門学校の前で一人の女性を乗せたあと、父は俺のことでお礼を言ったが、その女性に対して理不尽な扱いをしたと。ここへ来た時、俺は乃愛に何があったのかもう全てわかっていた」
 信じられなかった。叶都は自分の力で答えを導き出し、そして乃愛に会いにカフェへ来てくれた。
(真実を知って、叶都の方からわたしの元へ来てくれた。それがどれほど嬉しいか!)
 ひとりで胸に抱えてきたその苦しみが、徐々に軽くなっていき、蓋をして押し止めていた叶都への想いが、どんどん湧き上がってくる。
「父のしたことは、許されないことだ。俺たちを苦しめたこの2年間を返せと言いたい。だが、あの別れがなければ、今の俺はなかっただろう。乃愛を忘れるために勉強ばかりしてきたが、そのお蔭で今の俺がある」
「……そう言えるなんて。叶都は、本当に大人になったんだね」
 乃愛は、叶都の父親がしたことを絶対に知ってほしくなかった。家族のことで、叶都は辛い思いをいっぱいしてきたからだ。
 だけど、乃愛が心配していたほど、叶都はそのことに捕らわれているようには見えない。叶都は、昔と違って心も強くなっている。乃愛の前で礼儀正しく父≠ニ呼ぶのも、成長した証だ。
 叶都の成長をこの目で見ることができて、乃愛は感極まるのがわかった。自然と叶都の顔がボヤけていく。
(バカ、こんなことで涙を流すなんて……)
 目尻から涙が一筋零れ落ちる。それでも乃愛は叶都から目を逸らさず、首筋に触れていた指を鎖骨まで走らせる。
 そして、ブラウスの中に収まっていたペンダントのチェーンに指をかけ、そのまま外へ引っ張り出した。
「まだ、持っていてくれたんだな」
 もう隠す必要はない。乃愛は、軽く頷いた。
 叶都が乃愛に贈ってくれたクロムハーツの指輪。ネックレスのペンダントトップとして、今もそこにあるのが叶都にはわかったのだ。
「叶都に酷い言葉を投げつけたけど、あれは本心じゃなかったわ。でも、どうしても叶都と付き合い続ける≠ニも言えなかった。父が失職するのを恐れたの。そんなことをした自分を許せなくて、叶都が好きだった髪をばっさり切ったわ。叶都への想いもそれで断ち切ったつもりだった。でも、嫌いになって別れたわけじゃない。そう簡単に……叶都を忘れられるわけがない」
 まだ乃愛の指輪に触れている叶都の手に、乃愛はそっと触れた。
「だから、叶都の愛情が籠ったこの指輪を肌身離さず持っていたの。嫌われているとわかっていても、これを持っているだけで叶都の愛を感じられたから」
「乃愛!」
 叶都は、乃愛を強く抱きしめた。2年前、抱き合った時はすぐに叶都の顔が横にあったが、今では乃愛の頬は叶都の鎖骨の下に当たった。
 叶都とは、何度も愛し合った。乃愛を抱いた男性と同じだから免疫があるはずなのに、心臓が早鐘を打っている。
 それはつまり、成長した叶都に胸をときめかせているということ。
 でも、いくら叶都を意識してももうどうにもならないだろう。彼にはあの可愛い梢がいるのだから。
「ありがとう、叶都。あの日にあったことを、こうしてふたりで話せるなんて思ってもみなかった。わたしを許して……とは言えないけれど、これで二人とも前を向けていけるね」
 そのとき、叶都が抱擁を解いた。乃愛の肩を強く押して、目を覗き込んでくる。
「それ、どういう意味?」
「えっ? ……あの……叶都は、梢さんと付き合っているんでしょ?」
「梢?」
 乃愛を見つめる叶都の目が、訝しげに細められる。
「だって、名前で呼び合っていたし……一緒にカフェへ寄るぐらいだから、カノジョだと思ったんだけど。……違うの?」
 叶都は嬉しそうに笑いだした。そして、乃愛の額に自分の額をくっつける。
「あいつは元副会長。あの席にいたのは元生徒会の仲間たち。乃愛が心配するようなことは何ひとつない。乃愛の方は? 夕方、手を握られていたあのリーマンとの関係は?」
(リーマンって、もしかして奥園さんのこと!?)

2011/09/15
  

Template by Starlit