「あ、あの……」
なんて言えばいいのだろう――と、乃愛は狼狽えた。梢の目があまりにも真剣で、叶都をとても愛していると伝わってきたからだ。
(この目、わたし知ってる。3年前のわたしと同じ。叶都のおじさまに詰め寄って、叶都を愛している≠ニ何度も言ったあの時と……)
考えてみれば、梢は乃愛が真剣に恋をしていた18歳と全く同じだった。
梢も、あの時の乃愛のように真剣に叶都を愛している……
「彼は、今まで自分から誰かにキスをすることはなかったのよ。いつも受け身で……。どうして? どうして叶都があなたにキスをするのよ!」
梢を子供扱いしてはいけない。乃愛自身、叶都の父に本気の恋≠鼻であしらわれた時、とても悲しかったから。
全てを語らなくてもいい。一生懸命に恋をしている梢には、同じ女として接しよう。
乃愛はゆっくりと息を吸い込み、相手に威圧感を与えないようにして温和な表情を浮かべた。
「あのね、わたしの父と叶都……くんのお父さんは、同じ会社に勤めているの」
「えっ?」
梢の目が、驚愕に満ち開く。
まさか、ふたりの親が知り合いだとは想像もしていなかったのだろう。
「その縁もあってね。わたし、4ヶ月ほど叶都くんの家庭教師をしていたことがあるの」
「それって、……いつのこと?」
「叶都くんが、中学3年のときよ。あなたは、彼をいつから知ってるの?」
いきなり質問されてビックリしたのか、梢が大きく息を呑む。
「わ、わたしは……叶都と同じ高校に入ってから、です」
少し落ち着いたのか、梢の口調が最初に比べるとかなり丁寧になってきた。彼女の態度に微笑ましく思うのが普通なのに、彼女の言葉に乃愛の頬が強ばる。
それを押し隠すように軽く俯き、無理やり微笑みを作ってから梢に頷いた。
「そう。じゃ……あなたはわたしの知らない……叶都の高校2年間と数ヶ月を知っているのね」
(わたしの知らない叶都……。彼女の言葉が正しければ、近寄ってくる女の子がキスを迫ってきたら、されるがままキスを受けていたということになる)
梢とはキスをしたのだろうか――とふと頭を過ったが、二人が抱き合って舌を絡める姿を想像したくはない。
グッと歯を食い縛り、乃愛は打ち消すように瞼を一瞬閉じた。
「わたし、家庭教師を辞めてから……叶都くんとはずっと会っていなかったわ。会ったのは、今日が初めてなの」
「それじゃ、どうして叶都はあなたとふたりきりになって、隠れるようにキスをしたの?」
あなたはどうしてそのキスに応えたの? ――そう訊かれなかったことに、乃愛は安堵の吐息を漏らした。
(ふたりの関係を、彼女に知られなくてすむから。もし、わたしと叶都の関係を知ったら……)
叶都とは、今は全く関係がない。だから、そんな心配をする必要もない。
そして、乃愛には他人の心配をしている暇はない。宙ぶらりんな状態で日々を過ごすことにそろそろ終止符を打ち、将来のことを考えなければいけないのだから。
「叶都くん、多分怒っていたんだと思う。彼と最後に会った2年前、喧嘩してしまったの。彼をすごく怒らせてしまってね。だから、きっと……わたしに怒りをぶつけたかったんだと思う。現に、わたしを見る叶都くんの目って、侮蔑が宿っていたでしょ?」
「それは……」
思いを隠すように、梢が目を泳がす。その姿を見ているだけで、心臓を鷲掴みされたような痛みが乃愛の胸に走り、思わず顔を顰めた。
(つまり、梢さんの目から見ても、叶都はわたしに憤怒を漲らせていたと知っていたのね)
「……この2年で、わたしのことなんか忘れてもよさそうなのにね」
乃愛は、ボソッと呟いた。
「では、あなたと叶都は関係がないんですね」
はっきり答えて欲しいと、一歩乃愛に詰め寄ってくる。
「ええ、関係ないわ」
今は――と、心の中で呟く。
「誰か、お付き合いされてる方がいるんですか? もしくは、好きな人とか」
(梢さんは、必死なのね……。わたしと叶都の間に何もないとわかっているのに、彼がわたしにキスをするのを見たから)
「今、特に好きな人はいないし、付き合ってる人もいないわ。でも、付き合って欲しいと告白されたわ。あなたたちがカフェに来るほんの少し前にね」
梢が目を輝かせて、胸の前で手を叩く。
「もしかして、わたしたちがカフェに入ってカウンターで並んでる時、マッサージをされていた男性ですか?」
まさか見られていたとは思わなかった。
乃愛は苦笑いを浮かべて、ゆっくり頷く。
「わあ、素敵! 大人の恋愛……羨ましいな」
叶都のことは全く関係ないとわかった途端、梢は男性の心も惹きつけるような満面の笑みを零した。
奥園とは付き合う予定は全くないし、既にお付き合いはできないと断っている。
もし、夏海が相手ならきちんと訂正するけど、梢に関しては特に気にしなくてもいいだろう。
乃愛は小さく吐息をつき、少し面を上げて光り輝く月を見上げた。
叶都と再会した今日の日を区切りにして、前向きになるのがいいのかも知れない。
(わたしは忘れると言っておきながら、今でも……叶都からもらったクロムハーツのペアリングをペンダントトップにして身に付けている。彼の愛を肌身離さず持つのはもうやめて、終わりにしなければ……)
「ありがとうございました。こうやってもう一度カフェに戻って、あなたと話すことができて、わたしもすっきりしました! 今度カフェへ立ち寄らせていただく時は、ネイルを持ってきますね」
にっこり微笑むと、梢は軽く頭を下げた。
その時だった。
梢が頭を下げたことで、3メートルほど後ろに人が立っていたことに気付いた。
「……えっ? なつ、み!?」
夏海は乃愛から顔を背けるように軽く俯くものの、すぐに面を上げて微笑む。
「大丈夫、かなって心配になって見に来たんだけど……わたし、先に戻ってるね!」
乃愛の右後方から、車が走ってくる。車のライトが、夏海の顔を明るく照らし出した。彼女が背を向けるその一瞬、その大きな瞳がキラリと光る。
(今のって、涙? もしかして、夏海、わたしたちの会話を聞いていた!?)
「夏海っ!」
駆け出して夏海の後を追おうとしたが、目の前できょとんとした表情を浮かべている梢を置いて、何も言わずにこの場を去ることはできない。
「ごめんね。わたし、もうカフェに戻らないと。もういいかな?」
梢がしっかり頷くのを見てから、乃愛は慌ててカフェへ戻るために走り出した。
店内に入ると、数人の客が列を成しているのが目に入った。
夏海は目を赤くさせ、必死に注文を受けている。自分の言葉で、どれほど夏海が心を痛めたのか目の当たりにして、乃愛は下唇を噛みながら俯いた。
(バカ、わたしのバカ!)
カウンターの横にあるスタッフ専用の洗面所ですぐに手を洗い、消毒液をかけると手袋を填めた。
「いらっしゃいませ、こちらもどうぞ!」
仕事中なので夏海に声をかけることはできなかったが、かえってそれが良かったのかも知れない。