愛し愛される喜びを知った昔を思い出すとともに、酷い言葉を投げつけて叶都と別れたことが鮮明に蘇った。
叶都があの日のことを許していはいないと知っていたはずなのに、彼から奪うようなキスをされて、天にも昇る気持ちを味わった。
そして、一気に落とされた……。侮蔑の光を宿した叶都に。
流した涙を拭った乃愛は、力なくウッドデッキから店内に戻った。
叶都はもう友達と帰ったのだろう。彼らが占領していた席は、既に空席になっていた。
ほかの客は思い思いに話したり、パソコンをしたり、本を読んだりとリラックスしている。
そんな穏やかな雰囲気に心を癒されながら、乃愛はカウンターで作業をしている夏海の元へ向かった。
「ごめんね、急にマッサージを頼まれちゃって。仕事、大丈夫だった?」
「うん、平気!」
夏海の頬は微妙に薔薇色に染まり、その口元は嬉しそうに綻んでもいた。
「夏海?」
「えっ、……な、何?」
嬉しさを隠しきれないこの表情。恋する乙女のように、躯の内からキラキラとした輝きを放っている姿。
その表情は、高校時代にも見たことがある。叶都とどう付き合えばいいのかわからなかったあの時、夏海はカフェに来る営業マンのことをよく口にしていた。
営業マン……?
乃愛がウッドデッキへ出るまで店内にいた営業マンで、ふたりが知っている常連さんと言えば、たったひとりしかいない。
やっと真実に気付いた乃愛は、夏海の前だというのに思わず呻き声を漏らした。
「ど、どうしたの? 乃愛?」
心配そうにして、乃愛の肩に手を置く夏海。
(どうして? 夏海はずっと奥薗さんのことが好きだったんでしょ? なのに、どうしてわたしと彼を引っつけようとしていたの?)
だが、乃愛は知っていた。夏海は昔から自分の幸せよりも、相手の幸せを望む女性だったことを。
つまり、夏海は奥園が乃愛に興味を持っていると知り、彼の背を押して上げていたのだ。
(バカ! 自分の好きな男のために心を砕くような真似をするなんて……。本当に信じられない)
自分の幸せを掴みっていいのよ――と告げたかったが、乃愛はグッと堪えた。
そう言ったところで、夏海が素直にうんと言うはずがないからだ。それならば、夏海が自分で掴み取れるように、今度は乃愛が行動すればいい。
夏海の恋は成就して欲しいから……
「乃愛?」
「ううん、何でもない。……もうすぐ17時だね。最後の焼き立てパンやパイを並べる前に、綺麗にしておこうかな」
ダスターを手にすると、カウンターを回ってガラスを拭き始めた。オーナーの焼いたパイが美味しそうに見えるように、客が触ってついた手垢も拭い取る。
乃愛にはわからないように、ずっと助けてくれていた夏海と、彼女の母のオーナーに感謝して。
―――1時間後。
予想どおり、店内は仕事を終えたOLや会社員の客で賑わう。
カフェでお茶をしていく人もいれば、袋いっぱいに品物を買ってくれる人もいた。
「いらっしゃいませ」
今日最後の書き入れ時だと言わんばかりに、夏海と一緒に乃愛も接客に大忙しだった。
こうやって忙しくしている方が、いろいろなことを考えなくて済む。今日起こったことは、全て夢だったと思おう。
「どうもありがとうございました!」
微笑みを絶やさず、テンポ良くレジを打っては接客をしていく。
長い付き合いで夏海の動くスピードも心得ているから、乃愛は彼女とカウンター裏でぶつかることもなくてきぱきと動くことができた。
ひっきりなしに客は入ってきたが、それも19時になったら一段落。
カフェで寛ぐ客に動きがないのを見て、乃愛はスタッフ専用のバックヤードでスポーツ飲料を注き、カウンターにいる夏海にグラスを手渡した。
「お疲れ。閉店まであと3時間、これを飲んで頑張ろう」
「ありがと、乃愛!」
客から見えないように軽く屈むと、渇いた喉を潤すように、夏海はグラスを傾けてゴクゴクと飲む。美味しそうに飲む夏海を見て、乃愛も彼女を見習って一口二口と飲んだ。
「う〜ん、美味しい!」
「今日も忙しかったよね……。明日は定休日だけど、乃愛の予定は?」
グラスを後ろのカウンター棚に置き、乃愛はただ肩を竦めた。
「部屋の掃除をして、シーツを洗って、買い物かな」
乃愛の言葉に、夏海が目をまん丸にさせる。
「そんなのつまんないよ。わたし、夏服を買いに行こうかなって思ってるんだけど、乃愛も一緒に行かない? 今話題になってるカフェも行ってみたいなって思ってて」
「う〜ん、どうしよう……」
ショッピングする気分には、到底なれそうもかった。なんとなく、今日起こったことをひとりで振り返りたい。
せっかく誘ってもらったが断ろう。気分が乗らない乃愛と出かけても、夏海だってきっと楽しくないに違いない。
「夏海……ありがとね、誘ってくれて。……でも、」
――♪
言葉を続けようと思った矢先、カフェの入り口の自動ドアが開き、ベルが鳴った。
乃愛も夏海も営業スマイルを張り付けて、正面を向く。
「いらっしゃいませ」
だが、目の前にいる人物を見て、乃愛は思わず息を呑んだ。
こちらを見つめていたのは、服装こそ違うけれど梢と呼ばれていた女子高生。親密そうに、叶都の腕に手を滑り込ませていた女性だった。
目の前の梢は、何故か乃愛を敵視するように見つめている。
彼女の表情に意表を突かれて、乃愛の開いた口から言葉が出なかった。
「……何か、お忘れ物でしょうか?」
すぐに立ち直ったものの、顔を強ばらせてカウンターを回り、梢の傍らへ寄る。
「少し、あなたとお話をしたいんですけど……」
(話? わたしと?)
ゆっくり振り返って、カウンターの向こうにいる夏海と目を合わせる。
「今忙しくないからいいよ。用事があったら呼びに行くから」
梢の表情が穏やかそうに見えないので、夏海は彼女を刺激しないように言ったのだろう。
何かあったら助けにいくから――と夏海が目で伝えてくる。
「じゃ、外で伺いますね」
店内は客がいるし、ウッドデッキにもカップルが座ってるので、話をするのなら外に出るしかなかった。
乃愛が先に立って自動ドアから外に出ると、梢もその後ろをついてきた。
外は既に陽は落ちて薄暗いので、カフェの前でも立ち話は可能だったが、梢が何を訊きたいのかわからない。
躊躇したものの、乃愛はカフェの裏にある駐車場へ向かった。
そこは、スタッフ専用の駐車場なので、客と鉢合わせをすることもない。
電柱の下に立ち、乃愛は振り返って距離を縮める梢を見た。
「話って何かしら? ネイルのこと?」
「……叶都とあなたはいったいどういう関係なの!」
「えっ?」
梢の話したいことが、叶都のことだとは思ってもみなかった。
呆気に取られた乃愛は、目をぱちくりさせて梢を見る。その態度が、彼女の気に障ったのだろう。
「わたし、見たんだから! あなたが叶都とキスをしているところを!」
いきなり大声を出したかと思ったら、梢のその愛らしい大きな瞳から涙が零れていた。