第三章『愛していると言えなくて…』【2】

 当然、乃愛は失敗したと思った。
 叶都の名を呼ぶべきではなかったのに、彼の名を呼んだことで、なんとか保たれていた均衡がガラガラと音を立てて崩れていく。
 乃愛の目を避けるように、一瞬叶都の視線が下へ落ちた。
「……クソッ!」
 叶都は苛立たしそうに悪態をつき、さらに舌打ちをした。
 ミニスカートがピンと張り、隙間からパンティが見えていることを知らない乃愛は、彼の態度にビクッと躯を震わせた。
 何!? 叶都の中で何が起こってるの?
 こういう時の叶都とは、関わり合いにならない方がいい。
 彼の手の中から自分の手を引き抜こうとしたが、叶都はきつく乃愛の手首を掴んで離そうとしない。
 手を離して――と言うつもりで、乃愛は視線を上げて叶都の顔を見た。
 ところが叶都は目を大きくさせて、乃愛ではなく胸元を見ているように見えた。
 乃愛が確認する前に、すぐ瞼を閉じたので定かではない。
 いったい何を見ていたのだろう?
 少し気になったが、いきなり叶都がカッと目を見開いて乃愛を睨んできたので、その思いは一瞬にしてどこかへ吹き飛んだ。
 その眼光の鋭さに萎縮してしまい、全く動けなくなる。
 そんな乃愛の手首をさらに強く掴むと、叶都は思い切り彼の方へ乃愛を引っ張った。
「えっ? ……あっ!」
 前に倒れそうになるのを防ぐために、空いた手をウッドデッキの床に置く。そこまでは良かったが、強く引っ張ったその反動で叶都も乃愛の方へ倒れてくる。
 叶都の顔が、どんどん近づいてくる……
 彼の目、鼻、そして口が目の前に迫ってきても、乃愛は自分の身を支えるだけで精一杯だった。
 
「……っん!」
 
 顔を傾けた叶都に、乃愛は無理やり唇を奪われた。
 2年ぶりのキスに、彼女の躯が勝手に震え出す。無理やりされているのに、叶都からキスを求めたことが嬉しくて、涙が溢れそうだった。
 彼のことが嫌いになって別れたのではないので、それも当然のこと。
 叶都は、酷い言葉を投げつけた乃愛を許してくれたのだろうか?
 数年会わなかったのが、まるで嘘のようだった。
 叶都が乃愛の唇を貪るように動かしてきても、それに合わせることを躯が忘れてはいない。
 彼のキスを待ち焦がれていたこの躯は、数年前のように反応を示していた。
 そのとき、叶都が乃愛の唇を割って舌を差し込んできた。
「っんんん!」
 俺の舌に絡ませるんだ――と言わんばかりに、乃愛の口腔を犯す。
 堪らず、乃愛は彼の求めに従って舌を絡ませた。
 ぞくぞくする甘い電流が、背中を駆け上がる。期待するように膣奥が熱を保ち始めたかと思ったら、パンティがしっとりと濡れてきたのがわかった。
 叶都っ! 今でも、愛してる……。わたしにはあなただけ――そんな想いを伝えるように、自ら顔を傾けてキスがしやすいように動いた。
「ふぁ……う、っんぁ」
 息つぎをするために少し身を退こうとしたが、それを防ぐように叶都が乃愛の後頭部に手を回してさらにキスを深めてきた。
 付き合っていた当時、叶都は乃愛の後頭部に触れるのが好きだった。さらに長い髪を梳きながら、キスはこめかみから耳殻へと移っていくのが常だった。
 今も、叶都は乃愛の髪の中に手を埋めている。
 でも、昔あった長い髪は……もうそこにはない。
 梳く髪がないことで我に返ったのか、叶都のキスは唐突に終わった。
 まるで汚いものを見るように乃愛を一瞥して、彼はすぐに立ち上がる。
「昔の男に、すぐ簡単に足を開く女がいるって言うが、乃愛もその中のひとりなんだな。実際足は開いてはいないが、似たようなものだろ」
 酷い言葉に、乃愛の表情は凍りついた。
「わたしが、そういう女だと言うの?」
 声を震わせながらも、乃愛は必死に言葉を発する。
「そうだろ? ほかに好きな男ができたと言って俺をフッたのは乃愛自身。にもかかわらず、俺に無理やりキスをされても拒みさえしなかった。いや、それよりも……俺とふたりきりになることさえノーと言わなかった!」
 この状況を身振りで示す叶都に、乃愛は目を見開いて彼を見上げた。
 乃愛は、このカフェで働いているということがわからないのだろうか? お客が見ている前で、私情を持ち込めるとでも思っている?
 学生服を着ていても、叶都は乃愛より年上に見えるかもしれない。有名進学校に通うぐらい、頭がいいのかもしれない。
 でも、仕事をするというのはどういうものなのか、全然わかっていない。
 力なく頭を振ると、乃愛はゆっくり立ち上がった。
 突然ふらついたことにビックリしながら、テーブルに手を置いて躯を支える。
 たった1回のキスだけで、期待するように躯が疼くなんて……
「そう思いたければそう思えばいいわ。わたし……叶都とはもう……関係ないもの」
 躯に残る余韻を振り払うように、乃愛は小さく深呼吸をした。
「……クソッ!」
 苛立たしそうに顔を背けると、叶都は乃愛に背を向けて店の中へ入っていった。
 
 そんな彼の後ろ姿を見つめていると、ふと強い視線を感じた。
 叶都を呼び捨てにしていた梢が、店の中から窓越しに乃愛をジッと見つめている。
 彼好みのロングヘアを耳にかけて、梢は乃愛から叶都へ視線を移し、そのまま彼の腕に手を滑り込ませた。
 叶都は、その行為を嫌がる素振りすらみせない。
「いったい……わたしに、どうしろって言うのよ!」
 小さい声で悲痛な叫びを漏らすと、乃愛は片手で目を覆って俯いた。
 叶都と再会し、キスをされたことで、再び2年前の古傷から血が流れ始めた。
 それは、乃愛が叶都をまだ愛しているという何よりの証拠だった……

2011/06/19
  

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