「いつまでもそんなところに突っ立ってないで、こっちに来いよ」
心を突き刺すような冷たい声音に、乃愛は白昼夢からハッと我に返った。
視線を上げると、オープンテラスの席に座って静かに乃愛を見つめ叶都の目とぶつかった。
髪型も、面影も、そして身長さえも二年前とは全然違う叶都が目の前にいる。
いつも乃愛に向けていた優しい瞳は、もうそこにはない。
二人にしか見えない立ち入り禁止のトラテープを持ち上げて、叶都が乃愛を過去へと誘ったのは、ほんの数分前のこと。
まさか、ここまで鮮やかに過去を思い出すことになろうとは思ってもみなかった。
今、このテラス席には叶都と乃愛の他には誰もいない。否応なしに、叶都と向き合わなければならない。
大丈夫……。心配するようなことは何も起こらない。あれから二年が経ち、三年目を迎えた今になって、昔の女のことなんか気になんてしないだろう……
昔話に花を咲かせたいわけでもない。何もなかったように取り繕って、世間話をしたいわけでもない。
この状況を作り出したのは叶都本人で、希望したのはハンドマッサージ。乃愛はネイリストになりきり、叶都をただのお客だと思えばいい。
乃愛はポケットからハンドクリームとタイマーを取り出し、叶都の前の椅子に腰を下ろした。奥園にした時と同じように、タイマーをセットしてからハンドクリームを手の甲に乗せ、手のひらでクリームを温める。
「手を……」
普通にしようと思っているのに、勝手に声が震える。叶都も気付いているはずなのに、彼は何も言わずに手を差し伸べてきた。
その手を見て、思わずハッと息を呑んだ。乃愛が想像していた手よりも大きくなっていたからだ。
乃愛の髪や乳房を揉みしだいた時よりも節も大きく、ゴツゴツとした男っぽい手になっている。
だが、そこには乃愛の知らない傷痕があった。怪我をしてから時間が経っているせいで、周辺の皮膚と馴染んではいるが、明らかにそこだけがかすかに色が白くなっている。
拳を作って、何かを殴った時にできたのだろうか?
乃愛は面を上げて、叶都へ視線を向けた。
いったいどうしたの? ――思わず訊ねそうになったが、無表情のまま乃愛を見つめてくる叶都の目を見て、一度開けた口を力なく閉じた。
こうなってしまった原因は、全て乃愛にある。仕方がないと割り切るべきなのに、乃愛は悔やむように下唇を歯で噛んだ。
「失礼いたします」
叶都の手を掴み、手のひらからマッサージを始めた。
この指が乃愛の秘部から膣へ侵入し、たくさん悦ばせてくれたんだと思うと、いきなり躯が火照り始めてきた。
意識をしたらダメ! 躯が疼いた時、いつも叶都にバレていたことを忘れてしまったの?
女の悦びを知っている乃愛だったが、叶都と別れてからというもの、躯が疼いたことは一度もなかった。
誰かの肩にもたれてその温もりを求めたくなることはあっても、ここまであからさまに躯の芯が熱を保ち始めるのは、本当に久しぶりのことだった。
だが、湧き起こる躯の反応に意識を向けていたら、さらにもっと悪くなる。
乃愛は他のことを考えようと、叶都の手に視線を落とした。
手首のところに、外部刺激によって起こる炎症ができていた。十円玉ぐらいの大きさ、位置から考えて、パソコンをよく使う人に見て取れる症状。
まだ、あのパソコンを使っているの? ――問いかけられない想いを伝えるように、そっと指の腹でその周囲を撫でた
どうして三台も必要だったのか、今でもわからないが、きっと今でもあのパソコンを使っているのだろう。
よく揉んで血流をよくしたり、柔らかい布をあてて一点に力が集中しないようにしたりしなければ、いつの日か皮膚の表面が角質化して
少しでも改善する手助けになればと思い、赤くなったその部分に触れる。
「ほんの少しでもいいから、こうやってマッサージをして。痛いでしょ?」
「……こんなのは、痛みのうちに入らない」
「肩が痛い時は、肩を回すでしょ? それと同じように、時々でいいから指でマッサージを」
「いつから姉貴面をするようになった?」
剣を含んだ言い方に、乃愛の手は止まった。同時にタイマーが鳴り響く。
叶都から手を離してタイマーをセットし、もう片方の手に移った。
「俺が訊いてるんだぞ!」
声量は抑えてるが、叶都がイライラしているのが乃愛にも伝わってきた。面を上げると、眼鏡のレンズ越しから、鋭い眼差しを投げつける。
「わたし……もう成人式を迎えたのよ。あなたは、まだ十八歳になったばかりでしょ? わたしの方が、教える立場にあるのよ」
叶都の表情が歪む。
「教える? 乃愛が、俺に? いろいろと教えてやったのは、俺の方だと思っていたが」
乃愛の心臓が、一瞬で高鳴った。乃愛の名前などもう忘れていると思っていたのに、叶都は乃愛を名前で呼んだからだ。
酷いことを言って叶都を傷つけたのに、乃愛の名前を覚えていてくれていた?
そう思ったのと同時に、叶都がセックスのことを持ち出したことにも気付いた。
だが、それを追求すればどうなるのか目に見えている。気付かなかったフリをして、乃愛は叶都の左手を揉み出した。
されるがままだったのに、いきなり叶都が乃愛の手を返した。指の間に指を絡ませて、ギュッと握る。
その組み方をされて、乃愛はハッと息を呑んだ。
それは、叶都に愛されている時によく乃愛から求めた組み方だった。手のひらをぴったり合わせて指を絡めるだけで、さらに深く結びつくような気がしたからだ。
そんな乃愛をいつも笑っていたが、叶都も乃愛に愛情を示す手段の一つとして用いるようになっていた。
……これはどういう意味? 付き合っていた頃と同じように、愛してると伝えている?
それはあり得ない。あんなにも酷く叶都を振った乃愛を、愛してるはずがない。
叶都から侮蔑に似た目を向けられたことを、今でも思い出しては涙を流すのだから。
その時のことがあるだけに、叶都がこういう行動を起こすのが信じられない。裏切られた腹いせに、乃愛のことをからかっているのだろうか?
手を握られてドキマギしている乃愛を見て、楽しんでいるかも知れない――と思った途端、乃愛は叶都の手を振りほどこうとした。
「あっ!」
思っていたより強く握られていたので、簡単に振り離せない。反動でテーブルに置いていたタイマーに当たり、それはテーブルから転げ落ちた。
消えたタイマーへチラッと視線を向けた叶都だったが、乃愛に視線を戻してからやっと手を離してくれた。
ホッと吐息をついてから、乃愛は椅子から腰を浮かすとしゃがみ込んだ。躯を前屈みにしたことで、ペンダントが重力に従って揺れる。
一瞬ハッとしたが、視界にペンダントトップが入らないので、ブラウスの中に収まっているのだろう。
ホッと安心を覚えながら、タイマーに手を伸ばす。同時にゴツゴツとした男っぽい手が伸びて、タイマーを掴んだ乃愛の手に手を重ねた。
「叶都!」
乃愛の口から、勝手に叶都の名が飛び出した。
叶都と再会しても、必死に他人行儀のように振る舞っていたというのに……