走れると思っていた。こんなに荷物が重たくなければ……
麻衣子の足は、数メートル進んだけで止まってしまった。
段ボールを下に置き、額の汗を手の甲で拭う。
ビジネスマンが不審げに麻衣子を見ては通り過ぎていくが、そっちには目も暮れず、麻衣子は周囲を見回した。
台車を使うような店はどこにも見当たらない。どこもかしこもオフィスビルしかない。
吐息を零した麻衣子は、足元に置いた段ボールをじっと見下ろした。
そして、履いているピンヒールを見る。
足が傷つくのなんて、どうってことない。仕事を失敗してメディアチームから追い出されたり、理崎の顔に泥を塗ったりしてしまう方が嫌だ。
麻衣子は意を決すると段ボールを開け、脱いだピンヒール薄紙の上に置いた。
その下には緩衝材を置いてあるから、資料を汚すことはない。
大丈夫、これで頑張ってホテルまで行ける。
たぶん……
麻衣子は段ボールを持ち上げると、早歩きで歩道を歩いた。
砂利を踏んでは足の裏に走る痛みに、何度も躯がビクンと飛び跳ねる。顔は歪み、こめかみから嫌な汗が流れる。
だが、ピンヒールを履いて歩くよりも速く進める。
心配そうに声をかけてくれる女性もいたが、麻衣子は「ありがとうございます、でも大丈夫です」と声をかけて、ホテルへ向けて歩く。
歩けば歩くほど、ズキズキした痛みが足の裏から脳天まで突き抜ける。
「……っ!」
うめき声を漏らしては段ボールを持ち直し、それを何度も繰り返す。
その時、コンビニエンスストアが目に入った。
ホテルの近くにそれがあったのを思い出し、あともう少し歩けばホテルへ着くとわかった。
無理を言ってでも、なんとかしてあそこで台車を借りよう。
ふらふらしながら数メートル先のコンビニエンスストアを目指した。
そこにたどり着いてドアを開けた時、店内にいた店員がびっくりして表情を浮かべて麻衣子を見る。
「すみません、台車を……貸していただけませんか?」
最初は胡散臭そうに麻衣子を見ていた店員だったが、必死に事情を説明すると、なんとか理解してくれた。
「ありがとうございます。必ず返しに来ますから」
「あっ、何かスリッパを貸そうか?」
店員が、麻衣子の足元を指す。
そこは、パンティストッキングがビリビリに破れ、足は擦り切れていた。血は出ていないもの、足の裏は真っ赤になっている。
この状態で履き物を借りるには、申し訳なさ過ぎる。
そこで麻衣子は、コンビニエンスストアで靴下でも買えばいいと気付くが、その時間さえも惜しかった。
店内の時計を見れば、藍原に電話をしてから既に15分は過ぎている。
「大丈夫です! 急がなければいけませんから。それでは、あとで返しにきますから!」
失礼しますと頭を下げると、麻衣子は台車を押して走り出した。
台車に体重を少し乗せられるので、さっきよりも軽く先へ急げた。
どけどけと言わんばかりに、歩道を走っていると、ホテルがやっと見えてきた。
あと少し!
横断歩道に一歩足を踏み入れた瞬間、信号が点滅し始める。ここで一呼吸している暇はない。
真ん中で信号が赤に変わってしまったが、麻衣子は思い切り走って事なきを得た。
「良かった……」
ふぅ〜と長い息をついた時。
「楓さん!」
突然聞こえた藍原の声に、麻衣子は顔を上げる。
ホテルのエントランスにいた藍原が、麻衣子のところへ駆け寄ってくる姿が見えた。
彼はすぐさま麻衣子に近寄り、傍で足を止める。
「藍原さん……、すみませんこんなに遅くなってしまって」
「大丈夫。でもとにかく早く行かないと、遅らせるにも限界がある」
藍原は麻衣子は台車を奪うと、それを押して走り出す。麻衣子も彼のあと追って走り、一緒にホテルへ入った。
記者会見が行われている会場の前へ行くと、おろおろしている北見と梶田が麻衣子を見るなり駆け寄ってきた。
「良かった! いろいろあったとは聞いてましたけど、なんとか無事に間に合って……って、どうしたんです、その足!」
北見が麻衣子の足を指して驚き、それを見た藍原と梶田が愕然とする。
「あっ、大丈夫です。それより……」
麻衣子は段ボールを開け、そこからピンヒールを取り出した。
「これじゃ走れませんから」
「楓さん……」
藍原がなんともいえない表情をして、麻衣子の名をボソッと呟くが、すぐに我に返って強くかぶりを振った。
「楓さん、このあとは任せて。その足じゃ動けないと思うから座ってて」
麻衣子にそう言うと、藍原は北見に目を向けた。
「楓さんの代わりに手伝ってもらえますか? たぶん、これ以上会見を引き延ばすのは無理だと思うから、早く会場に入って資料を配らないと」
「もちろんです! わたしが頑張ります!」
北見が藍原に頷くと、ふたりは段ボールからクリアフォルダーを腕に抱え始めた。
梶田も手伝おうとするが、麻衣子は彼の名を呼ぶ。
「なんです? どうかしました?」
「梶田くんには、この台車をコンビニに返しにいってもらえませんか? 無理を言って借りたので早く返さないと」
「いいですよ。楓さんひとりに背負わせてしまったので、ここからは任せてください」
ホテルから北へ十数メートル行ったところにあると教えると、梶田は台車を押してこの場を去った。
それに合わせて、藍原と北見が会場に入っていった。