右の者を、四月一日付けで社内報チームからメディアチームへ異動とする
掲示板に張られた、社内人事辞令書の内の1枚。
その発表に間違いはないのか、麻衣子は何度も穴が開くほど目をやり、そこに書かれている名前を確認する。
「これは正式発表……。つまり、わたしはこれで理崎課長の試験をクリアしたってことなのね!」
「……楓がメディアチームに異動か。俺はもうお前の直属の上司じゃなくなったんだな」
社内報チーム長の柴谷は麻衣子の隣に立ち、残念そうにため息をついて肩を落とす。
「喜んでくださいよ。わたしがずっとしたかった仕事なんですから」
「お前ね、わかってる? 確かに、メディアチームに入りたかったのかもしれない。でも向こうは男だらけの職場、しかもお前は一番下っ端になるんだ。今まで積み上げてきた社内報の実績なんて糞みたいになる。それでもいいのか?」
「いいも何も、もう辞令が出てるんですから。1番下っ端? 上等ですよ! そこから這い上がってみせます!」
そうでなければ、理崎に言われて女に変身した意味がない。
そうですよね、駿一さん――後ろを振り返り、麻衣子はメディア課にいる理崎に目を向けた。
彼はメディアチームに何か指示を出し、そこにいる男性社員は慌ててバタバタと動き始める。きっと予定になかったことを言われたのだろう。
それでも彼らの目は生き生きしている。
麻衣子もメディアチームの一員として、彼らのように仕事をこなしていきたいと思いながら、もう一度辞令書に目を向けた。
そこに書かれてある楓麻衣子≠フ字に、さらにやる気がむくむくと湧き上がってくる。
「よし、頑張るぞ!」
意気込みだけは十分の麻衣子。
この先だんだん薄着の季節に突入するのに、紅一点の麻衣子が耐えられるのだろうか。
その後どうなるかは神のみぞ知る……
***
「このたび、社内報チームから異動になりました楓です! 頑張りますのでよろしくお願いします」
モデルや芸能人かと見まがう、容姿端麗なメディアチームのメンバーに頭を下げてから約2週間。
麻衣子は、もう精も根も尽き果ててバテバテだった。
最初の数日は、まず現在入っている取材の確認、その後はこれからメディアから取材が入りそうな案件のチェックだった。
目下の重大イベントは、この秋に設立される名古屋支社の件。
大阪支社のメディアチームが名古屋へ行き来して大忙しらしいが、麻衣子はデスクに座ってひたすら仕事を頭に入れることに没頭していた。
ここまでは良かった。
理崎に呼び出され、藍原祐司の下へ付くように言われるまでは……
彼は麻衣子より2歳年下の27歳。一度麻衣子が大変身をした時、わざわざコーヒーを持ってきてくれたのに、その相手に冷たく接した、あの藍原だ。
少しやりにくさを覚えたがそのことを極力考えないようにし、四六時中彼と共にテレビ、ラジオ、雑誌のインタビュー会場を巡る役員の補佐に付き、その後は情報収集で府立図書館にも足を運んだ。
全て役員を補佐する彼の雑用だったが、それでも彼と一緒にいるだけで勉強になることも多く、麻衣子は全てを吸収すべく動き回った。
それがたたって、現在に至っている。
ヒールで何時間歩いても疲れを感じたことはないのに、やはり男と女の違いだろうか。
いくら藍沢の方が若いとはいえ、この疲れの度合いが違うのは少々プライドが傷つく。
そんな麻衣子を知ってか知らずかわからないが、理崎からの呼び出しはピタリと鳴りを潜めていた。
麻衣子を引き抜いたはいいけど、あまりの出来の悪さに呆れてるとか?
そんな風には考えたくない!
デスクの上で何度も頭を振り気持ちを落ち着けて、そっと課長室のドアへ目を向ける。
仕事が山積みなのだろう。
4月に入ってからというのも、理崎は部屋に籠もってなかなか出てこない。
今日は午前中から席を空を外しているので彼の姿を目にできないのは仕方ないが、やはりこうも放って置かれると寂しくなる。
彼の胸に引き寄せられ抱かれるたびに感じた、あの胸の高まり。
それが意味するものは何か、理解できない感情を知りたくてたまらないのに、理崎からの連絡が途絶えてしまったらその意味を知る術はない。
もしかしてバレたのだろうか。彼をレッスンの相手としてではなく男として……気になり始めているということを。
「はあ……」
仕事の疲れからか、それとも誘ってもらえない辛さなのかわからないため息が、自然と麻衣子の口から零れる。
「大丈夫? かなり辛そうだね」
ガバッと飛び起きた麻衣子の隣に立つのは、藍原だった。
彼はコーヒーをふたつ持ち、一方を麻衣子のデスクの上に置く。
「どうぞ」
「あっ、すみません! 本当なら、わたしが動かないとダメなのに」
「そんなこと気にしないで。楓さんは、俺ら男だらけのチームに入ってくれたお姫さまだから」
恥ずかしげもなく、簡単にそう口にする藍原。それが余計麻衣子を慌てさせる。
もしこれが社内報チームの後輩だった如月の口から出たものであれば、軽くいなして頭をバチンと叩くが、年下とはいえ麻衣子の指導にあたってくれる藍原にそんなことができるはずもなく。
「あの……、わたし、そういう姫キャラ≠ナはないんで、あまり……」
「なんで? 楓さんは俺らのチームに咲いた可憐な華なんだよ。やっと女子社員を入れてくれた〜って、俺ら最高な気分なんだ。だから楓さんは堂々と甘えたらいいよ。逆ハーレム最高〜ってね」
「ぎゃ、ぎゃ、逆……ハーレム!?」
とんでもない言葉に目を回し、椅子の上でバタバタする麻衣子に、藍原はにこやかに微笑み、隣の自分の椅子に腰を下ろした。
「なんていうんだろう……。できない妹を持った感じ? でも男の中で一生懸命仕事に打ち込む姿を見ていたら、思わず手助けしたいって衝動に駆られる……仲間意識っていうのかな」
麻衣子は苦笑しながら、藍原の楽しそうな横顔を見つめた。
褒めているようで、ズバッと麻衣子を貶していることを彼はわかっているのだろうか。
彼のできない妹#ュ言に愕然とするものの、それは真実なので何も言えない。
ただ、仲間だと思ってもらえてることは嬉しかった。
「それに」
藍原はいきなり振り返り、麻衣子を見ながら優しい笑みを浮かべる。
「楓さん、すごい大変身したでしょ。さなぎから蝶に孵った……あの劇的なイメチェンに俺らも興味津々だったんだよね。あれは、絶対に男が絡んでるって噂してたんだ」
「お、男!?」
麻衣子は恥ずかしさから顔を真っ赤にさせ、彼から逃げるように身を反らした。
「あっ、きゃぁ!」
その反動が大きすぎたせいで、椅子から転げ落ち尻餅をつく。
「楓さん大丈夫!」
藍原は椅子から飛び上がり、麻衣子の傍に膝をついた。
「だ、大丈夫です」
そう言って顔を上げた時、目の前に迫力のある格好いい彼の顔にドキンと心臓が高鳴る。
理崎と親密な付き合いをするようになって以降、男性とここまで顔を近づけたのは初めてだったからだ。
理崎を前にすると緊張と欲望が混ざり、もぞもぞと躯を動かしてしまうほど甘い疼きが湧き起こるが、どうも藍原を前にするとそれとはまた違った感情が生まれる。
嬉しい……というか、ドキドキするというか。
これは、いったい何?