麻衣子自身、自分の心は理崎には見せないし、彼も自分の気持ちを見せたことはなかった。
ふたりの間にあるものは、セックスのみ。
麻衣子は、自嘲しながら軽く俯いた。
セックス? わたしと駿一さんが? そんなの、一度もしたことがないっていうのに――呆れながら麻衣子は鼻で自分を笑う。
実は、理崎は今まで自分の欲望を麻衣子で満たそうとしたことはない。
先月のクリスマスイブには、何か起こるかもしれないと淡い期待を抱いた。
当日、予想していたとおり、本当の恋人のようにレストランでディナーをして、その後はシティホテルで一緒に過ごした。
いつもと違って、初めて一緒にバスルームに入り、そこで一度彼の手で悦ばせてもらった。ベッドの上では初めて彼も裸になって、余すところなく麻衣子の肌を堪能した。
でも、それだけだった。
彼は確かに勃起していたのに、性欲を満たそうとはしなかった。
年が明けて一緒に初詣へ行き……そのあとは彼のマンションの一室で気持ちよくさせてもらったが、そこから先へ進むことはなかった。
もしかして、彼は不能?
そんなことはない。麻衣子が赤面してしまうほど、彼のものは硬くなって上を向いていたし、太くしなっていた。
いったい何を思い出しているんだろう。ここは会社なのに……
「わたしったらバカバカ! ……はぁ」
やるせないため息が、またも口から零れる。
でもその漏れた息は妙に艶めかしく感じられて、麻衣子自身自分にドキッとした。
「ほら、そういうところが……男がいるんじゃないかって勘ぐられるんだよ」
慌てて面を上げると、理崎は顔を歪めながら麻衣子をじっと眺める。
「教えろよ。俺とお前の仲じゃないか。……入社してから、ずっと楓を買ってやっただろ?」
それは、麻衣子が男に興味を示さなかったからだろう。
彼も女としてそそられるものが麻衣子になかったから、心配せずに付き合えた。
ただ、それだけのことにすぎない。
「……できれば、昔と同じように接して欲しいんですけど」
「俺もそうしたいよ。だけど、もう無理だ。俺の目は、楓を追ってしまう」
麻衣子は自分を女としてみてくれる、社内報チーム長の真剣な瞳に目を向けた。
彼は、本当に麻衣子のことを女として意識してくれているように見える。
でも、自分は?
柴谷はいい人で、チームをまとめるリーダーシップを持った素晴らしい人。
でも、彼を男として意識したことは一度もない。
もし理崎と出会う前なら……、もし服装を変える前に好意を示してくれたら、違った感情を抱いたかもしれないが、今は無理だ。
「誰とも付き合ってはいません。柴谷さんも知っているでしょう? この3月に発表される異動に、わたしが人生を賭けていることを」
そう。それを忘れてはいけない。
麻衣子がこういう格好をしているのは、メディアチームへの異動を認めてもらうためにしているにすぎない。
そのあとに付け加えられたゲームも、男に対する免疫を付けて、自分の周囲に壁を作らないようにするため。
そう、それは自分でわかっている。
なのに、突然胸に針で刺したような痛みが走り、麻衣子は思わず顔を歪めた。
「おい、……大丈夫か?」
柴谷は心配そうに、麻衣子の肩に手を置く。
その瞬間、過去の記憶が甦って嫌悪が走り躯が強張った。
肩から手にかけて怖じ気に襲われ、何とかして拒もうと思っても自分では躯を動かせない。
しっかりしなさい! 柴谷さんは、わたしを犯したあの痴漢男とは違うんだから! ――そう何度も自分に言い聞かせるものの、どんどん血の気が引いてくる。
「楓? お前……!?」
――その時だった。
「……あの、すみません」
申し訳なさそうな男性の声に、麻衣子はビクッと飛び跳ねるほど驚いた。
それは柴谷同様で、熱いものにでも触れたかのように、麻衣子の肩から慌てて手を引く。
ふたり同時に給湯室の入り口を振り返った。
そこに立ち居心地悪そうに苦笑しているのは、後輩の如月篤志。そんな彼の後ろに立つのは、無表情の理崎課長だった。
悪いことをしているわけではないのに、麻衣子は衣服の乱れを直すように手で服を撫で付ける。
「あ、あの……」
如月や柴谷のことよりも、麻衣子は理崎の感情が読み取れない表情が気になって、言い訳をするように口を開くが、彼の顔つきは変わらない。
広報課の社員に見せる、いつもの上司の顔をしている。
これがいつもの理崎課長。会社では上司の顔、ふたりきりになれば麻衣子を情熱的に求めてくれる男になる人。
彼からレッスンを受けるとホテルで言ったあの時は、それが普通だと思っていたのに、どうして今になって気持ちが変わったのだろう。
これがもし、本当の恋人同士だったら……理崎は嫉妬してくれただろうか?
自然と脳裏に浮かんだ嫉妬≠ニいう言葉に、麻衣子は息を呑んだ。
どういう、こと? 駿一さんに嫉妬してもらいたいって思ってるの? それってつまり――突如湧いた感情に、麻衣子は目を見開いた。
「あの、その……いきなり声をかけてすみません。課長が柴谷チーム長を探していたから、俺……案内して。ああ、もう! どうして俺って、こういつもタイミングが悪いねんっ!」
素を出す如月の言葉に、その場がほんの少しだけ和んだ。
理崎が軽く口角を上げて、笑ったように見えたからかもしれない。
「柴谷さん、4月発行予定の社内報の原稿を拝見したんだか、直してほしいところがあるので、至急チェックをお願いしたい。私の部屋へ来てもらえませんか?」
「あっ、はい!」
柴谷は慌てて歩き出し、如月の横を通って理崎と共に消えた。
チラリと麻衣子に目配せをすることもせず、簡単に背を向けた理崎。
今年の8月、こうやって簡単に麻衣子に背を向けて、彼は名古屋へ行ってしまう。
そう思っただけで、心臓を手で握りつぶされるような痛みを覚えて顔を歪める。
この感情は……もしかして、彼を好きに……なってしまった?
恋愛映画でよく見るように、愛している≠ニ言われてキスされたことは一度もない。
理崎から愛されているなんて、麻衣子自身思ったこともなかった。
それでも彼を好きになってしまうものだろうか。
麻衣子は自分の気持ちがよくわからなかった。
恋人同士でする行為を理崎としているが、それは鏡の前で誰に触れられているのか見て、確認し、自分を解放していくゲームにすぎない。
「あの、楓さん?」
麻衣子はハッと我に返って、まだそこにいる如月を見つめた。
「まだ戻っていなかったの?」
「あっ、はい。なんか……楓さんの顔色が悪かったんで」
「そ、そう……」
手に持っていたマグカップに目を落とし、コーヒーを一口啜るものの、既に冷たくなっていて飲む気も失せてしまった。
もったいないが、麻衣子はそれを流しに捨てた。
「……すみません。俺、まさか……チーム長が本気で楓さんのことを好きやったなんて、気付かへんかったわ。俺、チーム長に首を絞められるかもな」
如月はハハハッと楽しそうに笑い声を上げるが、麻衣子は笑えなかった。
ただ身じろぎもせず如月をじっと見つめていると、彼の声がだんだん尻すぼみに小さくなる。
「えっと、じゃ……俺仕事に戻ります。名古屋支社創設の特集号の会議に向けて、いろいろと資料集めがあるんで」
如月は踵を返して一歩進んだが、すぐに立ち止まって振り返る。
「楓さん。あの……俺と課長がここへ来た時なんやけど、その……ふたりの姿を見て、課長はびっくりしたように息を呑んでました。もしかしたら……楓さんのこと、気に入ってたんかな? ……男は綺麗な女の人を見ると野獣になるから、くれぐれも気を付けてくださいね。相手があのスマートな課長でも……。もちろん俺も対象ですよ!」
如月は最後の言葉でふざけたように笑い、そして給湯室から出ていった。
独り残された麻衣子は、その場から動けず、ただ静かにその場に佇む。
でも、その顔は火照るほど熱くなっていた。
「嘘、でしょう? ……駿一さん、が!?」
ドキドキする胸の高まりに戸惑いながらも、麻衣子はこの理解できない感情が嫌ではなかった。