―――コンコン。
「はい?」
「桐谷です」
「……入っていいぞ」
莉世は大きく息を吸って、ドアを開けた。
部屋へ入った瞬間、タバコの匂いがした。
寝不足に、タバコの匂いが加わり、思わず吐き気が込み上げる。
しかし、生唾をゴクリと飲み込み、無理やり押し止めた。
「そこに座れ」
片瀬はタバコを挟みながらソファを示し、莉世は言われままにそこへ座った。
あぁ、ダメ……気持ち悪い、 せめて窓を開けて欲しい。
向かいに片瀬が座ると、莉世をジーッと見つめた。
「お前、自分が悪いと思ってるのか?」
「はい」
莉世は顔を伏せ、自分の手を見つめた。
何故か、片瀬の声が反響してるように聞こえたからだ。
頭まで、ガンガンしてくる。
「賢い方法はな、あぁいう時は口答えせずに謝ればいい」
「はい」
莉世は瞼を閉じた。
本当に気分が悪い……新鮮な空気が欲しい。
「授業中に居眠りはよくない、いくらお前が英語に精通していても、他の生徒がいる前で堂々と寝るのは駄目だ」
「……はい」
突然、煙が顔に懸かった。
思わず咽せてしまい咳込むが、それは余計吐き気を及ぼすしかなかった。
ダメ、もう我慢が出来ない!
「先生、窓を開けてもいいですか?」
苦しげに言うと、苛立たしそうに片瀬は頷き、莉世は立ち上がった。
途端、頭が重くなりふらついた。
目がグルグル回り、躰を直立に保てない。
景色がだんだん黒みを帯びて、視界を遮る。
あぁ、ダメ……
手を伸ばして何かを掴もうとするが、空を切るだけだった……。
平衡感覚がなくなるまま倒れ、莉世の意識はそこで途切れてしまった。
片瀬は、突然目の前で倒れた女生徒に驚いた。
「おい、桐谷? 先生はそんなに怒ってないぞ?」
片瀬はタバコを消しながら、弁護するように言うが、倒れた生徒はピクリともしない。
「桐谷? おい……桐谷!」
側に駆け寄り、頬をペチペチと叩いた。
しかし、瞼がピクリとも動かない。
「い、息は……」
片瀬は喉の脈に触れて、脈が動いてるのを感じ取った。
「だ、誰かを呼ばないと……そうだ、保健医だ!」
その前に、片瀬は首を締め付けないよう、息がしやすいように、赤いリボンを外し、ボタンを3つぐらいまで外した。
そして、スカートのファスナーを下ろし、ウエストが絞まらないようにした。
片瀬はまだ動かない生徒を見ながら、慌てて受話器に飛びついた時、ドアがノックされた。
誰かが助けに来てくれた、とその思いが強く、すぐに勢いよくドアを開けた。
そこにいたのは、同じ英語科の水嶋だった。
「俺のクラスの…桐谷が来ている筈なんですが……」
眉間を寄せて、突然鼻を鳴らす年下の水嶋を見て、片瀬はあの女生徒が水嶋のクラスの子だと、やっとわかった。
真実を話そうと口を開こうとした、しかし突然肩を押しのけられ、彼が中へ入ってきた。
「これは……」
目の前の状況を見て、一貴は一気に血の気が引いた。
ソファとテーブルの間の絨毯にぐったりと倒れている莉世は、ピクリとも動かない。
喉元のリボンとボタンは外されていて、ウエストのファスナーも開いており、短いスカートはめくれ上がってる。
一貴は、この状況を見て、理由は一つしか思い当たらなかった。
レイプ!
一貴はすぐに振り返り、片瀬の喉元に掴み懸かった。
「片瀬、きさまっ!」
突然首を絞められ、片瀬は驚いた。
「水嶋……いきなり何だよ!」
「なぜ、彼女に手を出したんだ」
一貴は冷酷そうな表情で、視線で人を殺すかの如く睨み付けた。
何故こいつが莉世に手を出すのかわからない。
こいつが好きなのは、あいつなのに!
「違う。手を出したんじゃない! いきなり倒れたんだよ」
倒れた?
「なら、何故ボタンを外してるんだ」
「息が……しやすいように、する、為だ!」
片瀬は、水嶋の手を振り解いた。
「俺が生徒に手を出すか!」
そうだ、こいつが生徒に手を出す筈はない。
沸騰寸前の怒りを抑えようと、一貴は肩を揺らせて深呼吸した。
「……桐谷の様子はどうだったんだ?」
「よくわからん。そういえば、急に窓を開けて欲しいと言って立ち上がった途端、倒れたんだ」
窓を?
一貴は、部屋に残る匂いを嗅ぎ取ると、思わず舌打ちが出そうになった。
タバコの匂いだ。
すぐに立ち上がり、窓を開ける。
だが、これぐらいの匂いで倒れるなんて事は、今までなかった。
なら何故?
憔悴しきった莉世の顔を見て、胸がギュゥと締めつけられた。
「……桐谷?」
一貴は、側に跪くと莉世の頬を叩いた。
すると、微かだが瞼がピクリと動いた。
開けられた胸元に微かに変色した痕が見える。
俺がつけたキスマーク。
きっと片瀬に見られたに違いない……そう思いながら、襟に触れてその痕を隠すようにした。
そのまま喉元へ手を持っていき、脈を診る。
正常だ。 熱は……ない、ただ……顔色が悪い、クマが出来てる。
「桐谷?」
その声に反応するように、再び瞼がピクリと動く。
「あっ、まだ保健医を呼んでなかった」
片瀬が今思い出したように、すぐに受話器を取り上げた。
「片瀬、いい。もうすぐ目が覚めそうだ」
「だが、」
「大丈夫だ」
一貴は、莉世を抱き上げるとソファにゆっくり置いた。
莉世……
青ざめた頬を撫でクマをなぞる、そして顔にかかる髪を後ろに払ってやった。
「水嶋……それ以上触ると、セクハラだと訴えられるかもしれないぞ?」
不審そうにしながら言う片瀬に、一貴は苦笑いした。
莉世が唸りながら、頭を振る。
「り……桐谷? どうした?」
手がピクリと動くのを見て、片瀬がいるのにその手を強く握った。
「桐谷?」
また一貴のマンション……
嫌だ……これ以上進みたくなくない。もう見たくない!
しかし、意思とは無関係に、視界はどんどん開かれて行く。
あぁ、お願い……これ以上悪夢を見させないで。
涙が溢れる。
助けて……嫌、行きたくない。見たくない!
その時、慣れ親しんだ愛しい声が、突然聞こえてきた。
いつも莉世と呼ぶその声は、今は桐谷と呼んでいる。
桐谷と呼ぶ時、それは無機質にしか響かないのに、今聞こえるその声音は、とてもココロに優しく響いてくる。
一貴……
莉世は振り返って手を伸ばした。
大きな愛しい人の手を求めて……
わたしを見つけ出して、この悪夢から救ってくれる手を求めて。
何かを掴んだ。
途端、心臓が高鳴り、ゆっくり光が差し込んできた。
「桐谷?」
莉世は視界がぼやけるのを感じながら、瞬きをした。
すると、目尻から涙が一筋零れた。
「わたし……」
莉世は、眩しい光を遮断するように、ゆっくり瞼を閉じた。
「気を失ったんだ」
気を、失った?
……そうだ、片瀬先生に呼ばれて、タバコの匂いがして。
しかし、今タバコの匂いは微かにしかしない。
莉世は手に力を入れようとすると、誰かにきつく握り締められた。
この手……見るまでもない、この温もりは一貴の温もりだ。悪夢から助けてくれた手と……同じ手。
だけど、どうして一貴がここにいるのだろう?
「桐谷、温まるぞ?」
片瀬が莉世にお茶を差し出した。
莉世はゆっくり身を起こすと、お茶を受取り、少しだけ啜った。
温かいお茶が、躰の末端まで温めてくれた。
しかし、すぐに一貴がそれをテーブルに置く。
「何故、気を失ったかわかるか?」
隣に座る一貴が問う。
片瀬を見ると、彼も同じように理由が知りたいようだった。
「……寝不足です。ここ数日眠れなくて……」
「何故眠れない?」
何故? 言えるわけない。
莉世は頭を振った。
固唾を飲んで、莉世の言葉を待っていたようだったが、一貴はそれ以上追求しようとはしなかった。
「送ってやろう。その前に、ボタンをかけろ」
そう言われて初めてボタンが外され、ウエストも心もとない事がわかった。
一つずつボタンをかけ、ウエストのファスナーを上げる。
「立てるか?」
「……はい」
まだふらつくが、歩けないほどではない。
一貴に腕を支えられて、歩き出した。
「桐谷、今日の説教はなかった事にしよう。具合が悪かったんだからな」
片瀬が後ろから声をかける。
「ありがとうございます」
「それと、水嶋。……お前とは近いうちに話しよう」
一貴は、その声に反応する事なくドアを閉めた。
途端、一貴が莉世を抱き上げた。
莉世は息を飲んだだけで、何も抗議しなかった。
今は、一貴の温もりだけを求めていたから。
学校で抱き上げられるのは、決して良くないってわかってる。
でも、安らぎが欲しかった。
危険を承知で、莉世は安らぎを求めた。
一貴は、そのままエレベーターで下りると、駐車場に行き、莉世を助手席に座らせる。
静かに運転する一貴の横で、莉世は再び目を閉じた。
今なら、安心して眠れそうな気がする
莉世の右手は、一貴の左手に包まれていたからだ。
この手だけが……わたしを悪夢から、救ってくれる。さっきのように……
安心したと同時に気が緩むと、莉世は強い力で、忘却の底まで引きずり込まれた。