莉世の家の前に、ゆっくりタクシーが止まった。
「ありがとう。じゃぁ、また明日ね」
莉世がタクシーから下りると、一貴も一緒に下りてきた。
ええっ? 何? どうして、一緒に下りてくるの?
驚いて立ち止まってしまった時、玄関が突然開いた。
「莉世、いったい何時だと思ってるんだ!」
莉世は、パパの怒りを抑えた冷たい声を聞いて、一瞬で目を瞑った。
「すみません、おじさん」
突然、後ろから一貴の声が響いた。
「一貴……くんか? 何だ、君と一緒だったのか。それなら良かった」
パパが、ホッと安堵の吐息を漏らしたその後、
「甘いな、親父。一兄だからこそ、危ないんだよ」
ドアの隙間から、卓人が睨み付けるように、莉世と一貴を交互に見た。
「「卓人!」」
莉世とパパとの怒声が、見事に重なった。
「莉世、パパは一貴くんと話があるから、先に中に入ってなさい」
えっ? ……話?
「でも、」
躊躇すると、
「莉世、おじさんの言うとおりにしろ」
一貴にぴしゃりと言われた。
莉世はおやすみなさいと告げ、納得がいかないまま玄関に入った。
「学校の友達と会うって言ってたくせに、結局は一兄と会ってたんだな」
腕を組んで見下ろす卓人を睨み上げた。
「嘘なんかついてない。彰子と会ってたんだから。そこに一貴と……もう一人の先生が現れて……一貴に送ってきてもらっただけ」
「一兄のマンションから?」
「渋谷から!」
何ていう弟なの?
一貴に対して失礼な言葉を言うし、わたしに対しても、全然姉と思ってない。
莉世はミュールを脱ぐと、卓人の側を通り抜けて階段を駆け上がった。
外に取り残された卓也と一貴は、静かに見つめ合っていた。
しかし、卓也は会社の上司に対して話すのではなく、一人の男として……娘の父親として話そうと決めると、ゆっくり口を開き始めた。
「一貴くん。莉世が帰国して、君が勤める学校に入れさせたのは、私の考えだった。莉世の仮面を、君なら外してくれると思ったからだ。見事、君はそれを外してくれたよ……ありがとう、すごく感謝してる。だから、再び莉世が一貴くんのマンションに行くようになっても、止めはしなかった。だが……見てのとおり、莉世はもう子供じゃない」
卓也は、一貴の真っ直ぐ見つめてくる目を見つめ返した。
「わかってます。莉世がもう子供ではなく、一人の女性だという事は」
揺るぎない一貴の目を見た卓也は、その伝えてくる気持ちを感じ取った。
やはり、そうだったのか……。莉世と一貴くんは……。
卓也は、可愛い一人娘を横から奪われたような、苦しい表情を見せた。
だが、あまりにも身分が違う。
いつの日か水嶋グループを背負う一貴くんと、一介のサラリーマンの娘とは。
卓也は、一貴の目を真っ直ぐ見返した。
「一貴くん。莉世は一度……苦しい思いをしたんだ。私たちは、もう二度とあんな莉世を見たくはない。……約束して欲しいんだ。莉世を弄ぶような事は決してしないでくれ。傷つけないでくれ。これは、莉世の父親としてのお願いだ」
「約束します、おじさん。そして……俺は、決して莉世を弄んではいないという事を、知っておいて下さい」
卓也は、諦めに似た表情をして、一貴の手を取って握った。
「よろしく頼む……」
一貴は、強く握ってくる卓也の手を、意思を込めて握った。
「ところで……卓人も言ってたんですが、莉世が苦しい思いをしたという事ですが、いったい何があったんですか?」
卓也は、心配そうに見つめる一貴を凝視した。
一貴くんは……莉世を大切に思ってくれている。とても大切に……。
喜んでいい筈なのに、素直に喜べないのは……きっと娘を奪われたからだろうな。
卓人は苦笑いした。
我に返ると、一貴が答えを待っているのがわかり、 卓也は頭を振った。
「わからない……ただ、苦しんだという事だけしか。それが理由で、莉世は留学したんだ。私たちは、その苦しみから逃す為に留学させたが……今思えば、その苦しみに立ち向かわすべきだったと思うよ」
一貴は、眉間を寄せた。
「だが、今は君に再会して、とても元気に過ごしている。本当にありがとう、一貴くん。ところで……社長、いや、一徳(かずのり)は君と莉世の事を知ってるのか?」
一貴は首を振った。
「いえ、父も母も弟たちも……家族の誰一人、この事は知りません」
「そうか……」
卓也はその事実に少し腹が立ったが、一徳が知らない事を自分が知ってると思うと、楽しくなってきた。
「おじさん」
卓也は名を呼ばれて、物思いから目が覚めた。
「俺、莉世を大切にしますから」
一瞬、卓也は娘を嫁に出す瞬間を想像してしまった。
『お嬢さんをください、必ず大切にします』……と言われたかのような錯覚に。
「一貴くん、莉世を大切にして欲しいが……まだまだ君にはやらんからそのつもりでな」
一貴はそう言われると、逆にニヤッと笑った。
「そう遠くない日に、必ず莉世をいただきに挨拶に来ます」
「だから、まだ莉世はやらんと言ってるだろ?!」
驚く卓也に、一貴は自信に満ちた表情をした。
「それでは、遅くまで莉世を連れ出して申し訳ありませんでした。これからは、きちんと連絡は入れます。では、これで失礼します」
一貴は頭を下げると、待たせてあるタクシーに向かって歩き出した。
「待て、一貴くん! 莉世はまだやらんぞ! まだまだ俺の娘として側に置いておくんだからな。おい、聞いてるのか!」
ドアが閉まって、走り去って行くタクシーのテールランプを、卓也は呆然と見つめた。
「はぁ〜、一貴くんは確かに一徳の息子だよ」
卓也はそう呟くと、玄関に向かった。
その時、頭の中で再び一貴の声がした。
「そう遠くない日に、必ず莉世をいただきに挨拶に来ます」
と言う事は、莉世は既に一貴くんと……もうそういう関係なのか?!
卓也は、その想像を無理やり追い払うように、何度も激しく頭を振った。
まだ、やらん! 絶対やらん!
卓也は、ドアを開けるなり2階を見上げると、突然大声をあげた。
「莉世! すぐ下に来なさい!」