番外編
「先生、わたしの初めての人になって下さい、お願いです!」
「……長谷川」
――― ガタッ!
「やめろ、長谷川」
「イヤ。どうせ、学校休みがちになるもの。誰にもわかりっこない。それに、初めての相手は好きな人がいい、先生がいいの。見知らぬ誰かにあげるなんて、イヤ!」
「……本当に、俺でいいのか?」
英語科専用室の扉の前で、莉世はその言葉に凍りついた。
受け応えする声は、まさしく一貴の声だったからだ。
室内で何かが起きてるらしい物音に加え、止めは一貴の最後の返事。
莉世は、提出物のノート半分をきつく抱きかかえた。
そんな莉世の仕草を、クラス委員長の古賀が見下ろす。
「どうする? ノックする? それとも、」
「やめよ。邪魔したら悪いから」
泣き崩れるような表情しながらも、莉世は微笑んだ。
古賀が何かを言う前に踵を返すと、教室に向かって歩き始めた。
何? あれはいったいどういう事なの?
一貴が、モテるという事は随分前から知っていた。3年生のお姉様たちが、一貴に近寄る光景も見てきた。
ココロは決して落ち着かなかったが、莉世はいつもジッと耐えてきた。
なぜなら、一貴に愛されてるって事を知ってるから。
だが、一貴のあの最後の言葉で……莉世の自信はガラガラと音を立てるかのように、見事崩れ落ちてしまった。
「桐谷、こっちに来て」
古賀が片手でノートを持ち直すと、莉世の腕を引っ張り、非常階段の方へと歩き出した。
「古賀くん?」
古賀のその態度に戸惑ったが、一貴と長谷川という女生徒の事を脳裏から追い払えず、莉世は呆然と引っ張られるままに従った。
非常階段のドアを開けると、古賀は莉世を促し、そのまま階段の段差に座らせた。
二人が持っていたノートは、古賀が踊り場にまとめて置く。
古賀は莉世の隣に座りながら、ゆっくり口を開いた。
「俺が言った言葉、覚えてる?」
莉世は一瞬古賀を驚いて見たが、彼の真摯な眼差しに耐え切れず、すぐに視線を逸らした。
「……俺、まだ諦めてないよ」
やめて。そんな話聞きたくない。
莉世は、膝の上できつく拳を作った。
それを見た古賀は、ため息をつく。
「でも、桐谷も諦めてないんだよな……水嶋の事。さっきの事でもわかるように、見込みないぜ? それに、水嶋の態度。はっきり言ってあれは卑怯だ。“据え膳食わぬは…”、とか思ってるみたいだった」
莉世は、うっかり真実を告げないように奥歯をしっかり噛み締めた。
違う、一貴はそんな人じゃない。そんな人じゃ……。
でも、あの最後の言葉……一貴はその長谷川さんの初めての人になるつもりなんだろうか?
胸がズキンと痛む。
莉世が一貴にあげれなかったモノを、与えようとする長谷川に、激しい嫉妬が沸き起こったのだ。
「……さっきの長谷川っていう人が誰か知ってる?」
「ううん、知らない」
「多分、3年の長谷川先輩だと思う。最近、グラビアデビューしたって騒がれてる……あの長谷川先輩」
古賀が、知ってるだろう? という風に片眉をあげて、問いかける。
確かに、莉世も知っていた。
とても可愛くて、スタイル抜群で……男性誌の表紙を飾ったと、クラスでも騒がれていた。
「うん」
「あの、長谷川先輩がまだ……そのぉ未経験なんて知らなかった。取りまきはいっぱいいるし、付き合ってる男もいるって噂があったから。だけど、まさか水嶋に告白するなんて、今までの態度は見せかけだったのかもな」
見せかけ……。
そうだよ、皆何らかを隠す為に、薄いベールを覆ってる。わたしも、いろんなベールを覆ってるからわかる。
古賀くんに対しても、わたしは一貴の事でベールを覆ってるから。
「告白しろよ。長谷川先輩のように。そして、フラれて……俺の所へ来ればいい、なっ?」
戯けたように言うラストのセリフが、莉世を和ませた。
それは古賀なりの慰めではあったが……実は押しの強さでもあった。
「ダメ、古賀くんの事は友達にしか思えないもの。あの時言った言葉は、今も変わらないよ」
古賀くんには、わたしを諦めて素敵な女性に目を向けて欲しい。
わたしは、どうしたって一貴しか好きになれないんだから。
「……人の気持ちなんて、時間が経たないと無理なのかもな」
古賀は、透けるような青空を見つめながら、誰に言うでもなくポツンと呟いた。
その時、午後の授業が始まる5分前のチャイムが鳴った。
「水嶋には、また後でノート提出すればいいさ」
古賀は立ち上がると、ノートを取ろうとした。
それを押し止めるように、莉世はノートの上に手を乗せた。
「わたし5限サボる。ここにいるから、ノートは置いていってもいいよ」
古賀は、莉世の言葉に驚きの目を向けた。
「サボるって……やめておけよ。水嶋にバレたら、すっげぇ怒られるぞ?」
怒られる? 上等よ。わたしだって、一貴が長谷川さんを抱いたのか、それとも抱く約束をしたのか訊くんだから。
もし、本当なら……怒って怒って怒りまくってやるんだから。
そう胸の内で激しく叫ぶが、もし本当だったら……わたしに一貴を罵倒する事が出来るだろうか?
……きっと無理だろう。口を開いた途端、悲しみに押し潰されて泣き出してしまうかもしれない。
「桐谷? ほら、行こう」
莉世は、頭を振った。
「先行って。……本当に一人になりたいの」
沈黙が流れる。
「わかったよ。三崎にはそう言っといてやる。だけど、それでいいのか? マジで水嶋怒るぞ? 好きな……人に、怒られたくないだろう?」
莉世は、再び頭を振った。
「サボるのは5限だけ。6限は教室に戻るから」
頑固な莉世の言葉に、古賀はため息をついた。
「わかった。5限終わったら、迎えてに来てやるからな」
古賀は、そう言いながら莉世の肩を叩くと、ドアを開けて校舎内に入って行った
5限開始のチャイムが鳴り響くと、校舎のざわめきもなくなった。
莉世は、その静けさを感じながらもポツンと階段に座り込み、ゆっくりと壁に凭れかかった。
莉世は何も考えたくなかったが、どうしても一貴と長谷川の会話が脳裏に蘇ってくる。
さっきの話、立ち聞きなんてしたくなかった。
知らなければ、こんなに打ちのめされる事もなかったのに。
それに、どうして一貴は問いかけたんだろう?
「……本当に、俺でいいのか?」
そんな風に聞かれれば、「いいよ」って言うに決まってるじゃない。一貴にあげたいって言うぐらいなんだよ?
わかってない、一貴ったら女心が全然わかってない!
涙が込み上げてくる。
耐え切れない程の嫉妬が、身を焦がそうとする。
あの、長谷川さんが……一貴にバージンをあげたいって。好きな人にもらって欲しいって。
そう言える勇気が羨ましい。わたしにもその勇気があったら……絶対大切に取っていたのに。
お願い、一貴。わたしがあげれなかったモノを、違う女性から受け取らないで。
莉世の唇が戦慄き始めた途端、涙が頬を伝った。
――― バンッ!
後ろのドアが、思い切り開いた。
驚愕しながら振り返ると……何と、そこには一貴が立っていた。