珠里が、売れっ子モデルとして名を馳せるほんの少し前の事……
兄の親友でもある五つ年上の凄腕カメラマン小野寺陽一に、いきなり大人のキスをされた。
今ならはっきりわかる。彼は、ただ珠里を戒めるようにキスをしただけだって。
でも、それならどうしてあんな恋人同士がするようなキスをしたのか疑問に思うところだけど、昔でさえ陽一の気持ちを知ろうとしても無理だった。
なのに、今になって彼の気持ちがわかる……なんて都合のいい話あるわけがない。
だから、全て無視をする事にした。それはマシェリ≠ナも同じ事だった。
陽一が珠里を指名していも……店側で全て断ってもらい、他の女性を紹介するようにしてもらった。
だが、陽一は他の女性を紹介してもらっても、全て断ってるらしい。幾度となく断られても、彼は毎回珠里を指名しているようだった。
「珠里? どうしたの?」
大学の敷地内で、友人の澤里凛子(さわさとりんこ)から声をかけられた。休講の貼り紙を見て、二人して美味しいランチでも食べに行こうと話していたところだった。
「あっ、ごめんね。ちょっとボーッとしてて」
「バイトが忙し過ぎるじゃないの? そんなの、全くする必要ないのに」
珠里は、ただ肩を竦めた。
凛子も、珠里同様お嬢様でお金の心配は一切ない。だからこそ、何故珠里がバイトをしているのか理解出来ないらしい。
(わたしもバイトするなんて……最初こそ怠いとか思ってたけど、今ではあの空間がとても居心地がいい。わたし自身を理解してくれる人たちがいっぱいだから)
「必要ないけれど、こうでもしないと外に出られないでしょ? わたしたちって」
「そっか! その手があったのね! 外出は絶対運転手付きだもの。全然遊べやしないわ。でも……バイトって時間を制限されるからイヤなのよね。悩むところだわ」
凛子が悪いワケじゃない、生活環境がそうさせているだけ。
珠里は、時々社会というものを彼女に見せたい時があった。
だが、自分自身がそう望まない限り、受入れる事は出来ないだろう。事実、珠里自身がそうだったから。
それに……昔とは違って、凛子とは上辺の付き合いだけに止めておきたい。
珠里は瞼をギュッと綴じて、過去を振り切ろうとした。
特に嫌な思い出という事ではない、切り捨てたいワケでもない。自分がどんなに愚かな存在だったのか、凛子と付き合っていれば否応なく過去を思い出してしまう。それが嫌だった。
「そういえば、最近同じピアスばかりしてるわよね? 珠里らしくもない。でも、とても素敵だからわかる気がする。ねぇ、それはどこのブランドなの?」
「これ?」
珠里は、優しくそのピアスに触れた。それは、初めてキスをされたあの日に、陽一から貰ったピアスだ。
「ピンクゴールドって子供っぽいかな〜って思ってたんだけど、珠里が付けているのを見たら、意外と有りかなって」
珠里がそのブランド名を告げると、凛子は眉間に皺を寄せた。
「小・中学生頃に流行ったあのブランド? いったいどうしたの珠里? もうそっち系は卒業したのかと思ってたのに!」
「でも、とっても素敵でしょ? ブランド名で決めつけるよりも、デザインで選ぶのも悪くないと思わない?」
珠里の言葉を反芻しているのか、凛子は何か考えるように首を傾げた。
「……確かに。そうかも。素敵なデザインならいいものね。また珠里に教えられちゃった」
嬉しそうに微笑む凛子を見て、珠里もニコッと微笑んだ。
二人は肩の力を抜いて、楽しそうに微笑みながら大学の正門から歩き出すと、近くのタクシー乗り場へと歩いて行った。
珠里に知られる事もなく、小野寺陽一はカメラを下ろした。
大学正門前に車を停め、仕事柄いい素材がいないか探しながらずっとそこにいた。珠里が出てこないか、期待しながら待っていたと言う方が正しいのかも知れない。
幸運にも珠里が大学敷地内から正門に向かって歩いてくる姿が目に入ると、自然と彼女に照準を合わせてシャッターを切っていた。
情けない事に、ファインダー越しに彼女が自然に微笑む姿を見て思わず興奮してしまった。それでも自分の反応を無視すると、珠里の様々な表情を捉えようとピントを合わす。
珠里の姿が消えるまでは撮り続けたが、とうとう震える手を制御出来ないと悟ると、カメラをボンネットの上へと下ろした。
「珠里……」
その名を口にした時、陽一の瞳は曇った。自嘲しているように唇の端が下がる。
商売道具のカメラを助手席に放り投げると、陽一は顔を隠すように下を向き、大きく息を吐き出した。
「いい加減にするんだ。珠里の事は放っておいたらいい。彼女のとんでもない諸行を、阿久津に言って……」
そこで、陽一は口を噤んだ。
もし阿久津に告げたとしたら、珠里はこっぴどく叱られるだろう。当然だ。あんなバイトをしていると知ったら、誰だって怒るに決まってる。
自業自得だ、と突っぱねる事が出来たらいいのだが……
陽一は再びため息を漏らした。
(俺は、彼女がどんな目に遭うか心配になり過ぎている)
「だったら、珠里を元の生活に戻させるにはどうすればいいんだ?」
この時に撮った写真が、珠里をまともな生活を戻すと同時に、二人の距離が微妙になるとは思いもしなかった。
ただ珠里の更生を願いながら事務所に戻る為に車に乗り込むと、陽一はその場から走り去った。
二人はコラーゲンたっぷりのランチを食べ終えると、店を後にした。
「この後、どうする? わたし、エステに行こうと思って予約してたんだけど、珠里も一緒に行かない?」
珠里は、頭を振った。
「バイトがあるの」
「えぇ〜、残念。だからバイトってイヤなのよね。何かしたくても、バイト優先になるんだから。じゃ、この次は絶対一緒に行ってよね」
こういう時の絶対≠ニは、その場のノリだと二人とも承知していた。その為、珠里も気軽に頷く。
「次はね」
再びタクシーに乗り込んだ凛子に手を振ると、珠里はバイト先のお店マシェリ≠ノ向かうべく歩き出した。
本当はバイトではなかったが、気が向いたら仕事を入れる事も可能だし、ただ店に行って奥で寛ぐ事も可能だった。
マシェリ≠ヘ、全てにおいて珠里の安息の場所となっていた。
日が暮れるのはまだ早い時間だったにも関らず、イメクラの館は満室だった。
珠里は、その部屋で仕事をした事は一度もなかったが、何度か仕事とは無関係で入った事もあったので、とても過ごしやすい部屋だという事は知っていた。
そんなにシチュエーションに飢えてる人が多いのかしら?
素晴らしいオーナーと偶然出会えた事に感謝しながら、別室のリビングで優雅に紅茶をいただく。ちょうどテーブルに置いてあった予約帳を拝借すると、珠里はページを捲り始めた。そこでふと眉を顰めた。
陽一からの予約連絡が、そこに記載されていたからだ。
もちろん、珠里の欄が空白になっていても、予約を受け付けてはいない。珠里自身が断るように言っていたので、店側も予約を取らないようにしてくれている。
(わたしが故意に受け付けないようにしているって、もう既に知っている筈なのに、どうして諦めようとしないの? ……あのキスを謝ろうとしているとか?)
珠里は、頭を振った。
陽一は、そんな性格ではない。謝るような行動を取らない主義だもの。
彼が高校生の時、二股疑惑が起こった事がある。悪いのはどう見ても陽一なのに、結局謝ったのは彼女たちで、陽一の株は上がっただけだった。
どういう言葉で諌めたのかはわからない。
でも、彼の朗らかな物腰や言葉が、彼女たちを納得させてしまったのだろう。
そういう事が多々あったから、今回の件に関しても謝ろうという気はないハズ。というか、悪いことをしたとは思っていないだろう。
なのに、どうしてお金を払ってまでわたしを指名しようとするの?
「彼は珠里以外の女性には目もくれないの」
リビングには珠里一人しか居ないと思っていたのに、突然耳元で声が聞こえた。飛び上がる程驚くと、珠里はすぐに振り返った。
「美嘉さん! 驚かさないで……」
優雅な物腰でソファを廻ると、美嘉は珠里の隣に腰を下ろした。
「ここには珠里以外の女もいるっていうのに……何故かしらね?」
意味深に微笑みながら、珠里を見つめてくる。
「それをわたしに訊くんですか? 彼に訊いて下さいよ、わたしが彼の本音なんて知る筈もないんだから。そういえば、大人の女性が好みなんですって。わたしは範疇外らしいです」
「へぇ〜、ふぅ〜ん」
あっ! イントネーションが関西弁になった。
だが、珠里はその事について指摘するようなバカな真似はせず、既にぬるくなった紅茶に手を伸ばす。
「これからも……彼がわたしを指名しても、今までと同じように無視して下さい」
「……それでいいのね?」
「はい」
モデル並みに綺麗な足を組みながらソファに肘を置くと、美嘉は軽く吐息を漏らした。
「珠里……男ってね、女性から追いかけられてる時は気付きもしないんだけど、逃げられた時……狩りの本能が目覚めるの」
珠里は、話しかけてくる美嘉の方へ視線を向けた。
「本能が目覚めると、自分の気持ちに気付かないまま追いかけてくるわ。周囲に女性を侍る事に慣れてる男性は特にね」
そう言いきると、美嘉はニコッと微笑んだ。
「若いって羨ましいわ! わたしもあと十歳若かったら……」
頭を振りながら立ち上がると、珠里に背を向けた。廊下に通じるドアまで来た時、美嘉がクルッと振り返る。
「珠里! 今日は予定表どおり仕事しなくていいから、早く帰りなさい。これはオーナー命令よ」
軽くウィンクすると、美嘉はその場に珠里を残してリビングから出て行った。