『パンドラの箱』【2】

 陽一はというと、珠里の気持ちに全く気付く様子もない。いかにも慣れた手つきでピアスを外し、プレゼントのピアスを珠里の耳に挿し始めた。
 思わず、珠里は瞼を閉じた。
 何て……何てエロティックなの。男性の人にピアスを付けてもらう行為が、セックスを連想させるなんて。相手が陽一だから?
(きっとそう。陽一に対してわたしが過剰反応し過ぎるから、思考があらぬ方向へいってしまうんだわ)
 チェーン部分が穴を通っていく瞬間、背筋に快感が走ってゾクッとした。思わず漏れそうになる甘い呻き声を、歯を食い縛って押し殺す。
「やっぱり、こっちの方が似合う」
 珠里は火照りだした躯を無視して、ゆっくり瞼を開けた。並べられたボトルの後ろ側にある、張り巡らされた鏡を見る。
 細いチェーン、少しピンクゴールドがかった輪と金の輪が連なって揺れている。それはとても綺麗で、珠里を女っぽく見せてた。
 作っていない、女らしさ……。
 内面から溢れ出る可憐な仕草や表情を、今まで見落としていたとでもいうように、珠里の目にそれらがはっきり飛び込んできた。
「こうやって、髪もアップにしたら……」
 陽一は巻き髪を無造作に持つと、軽く上に持ち上げた。細い首が露になると、今まで見た事もない、優しい雰囲気を纏う女性の珠里がそこに映っている。
 鏡越しだが、陽一は珠里の瞳を見つめながら口を開いた。
「……珠里、これが本当の珠里だ。とても綺麗だよ」
 珠里の頬が、ほんのり染まるのがわかった。
「珠里……」
 陽一の指が、露になった首筋を触れるか触れないかのタッチで撫でてくる。
 どうしたらいいの? どんな風な態度を取ったら……。だって、今までの陽一と何だか雰囲気が違うんだもの!
 
 ―――〜♪
 
 突然鳴った珠里の携帯の音に、二人の間に生れつつあった奇妙な空気が一瞬で消え去った。
 珠里は慌てて陽一の呪縛から逃れると、それが助けだとでもいうように携帯をカバンから取り出す。
 相手が誰か確認してから、視線を陽一へ向けた。
「ごめんなさい、ちょっと出てくるわね」
 いつも浮かべていた余裕の笑みが少し強ばっているとも知らず、珠里は逃げるように化粧室前に設けられたソファへ向かった。
「はい、珠里です」
『笠原です』
 珠里がバイトをしている店からの電話だった。
「笠原さん、どうしたんですか?」
『二時間が過ぎましたので、その後どうなったのかご連絡させていただきました』
 珠里は、ブレスレット型の腕時計に視線を落とした。
「嘘! もうこんなに時間が経っていたの!?」
 電話の向こう側で、笠原が笑みを漏らしたのがわかった。
 彼は知っているから。今日の仕事の相手は、珠里が目的なのだという事を。そして、その相手は珠里の兄の友人でもあるという事を。
 もちろん、珠里がその相手を好きだからこそ嫌っているという事もバレている。
「笑わないで、笠原さん」
『いえ、笑ってはいませんよ?』
 嘘ばっかり!
 珠里はため息をついた。
「いつものように延長は無しで、このまま直帰します」
『わかりました。そのように記しておきます。では、お疲れ様でした』
「お疲れ様でした」
 通話を切ると、自然と壁に凭れた。その壁から伝わってくる冷たさが、いつの間にか火照った珠里の躯を冷やしてくれる。
 口から息を吐き出した途端、目の前に誰かが立っているのが気が付いた。視線を上げると、見知らぬ三十代後半と思しき男性が立っていた。
「すまない、俺の好みの女性がいると思って見ていたら、話の内容が聞こえたんだ」
 だから、何なの?
 珠里は、顎を突き出すようにその男性を見上げた。
「いきなりこんな事を言うのは失礼だと思う。でも、もし良かったら働いているクラブを教えてくれないか? 俺、君を指名するから」
(えっ、クラブ? 指名!? もしかして、彼はわたしを……?)
 その時、ドスンという大きな音がした。
 ビックリして横を向くと、陽一が壁を思い切り叩いたようで、そこに手を預けたままこちらを睨み付けていた。
「何を勘違いしている? 彼女は、君の指名を受けるような店では働いていない」
 目の前の男性は、陽一と珠里を代わる代わる見比べた。しばらくして肩を竦めると、何も言わずにその場から去って行った。
 珠里は、陽一をきつく睨んだ。
「あんな事を言わなくても、わたしはいくらでも対処出来たわよ! 勝手な事をしてくれて……」
 陽一が珠里のバッグを手に持っていると気付くと、彼の側に近寄ってそれを奪うように取り返した。
「携帯、店からの連絡だったの。予定の二時間は過ぎているのに、わたしからの連絡がなかったから」
 どうして今日に限って時間を忘れてしまったの?
(陽一のペースに巻き込まれるなんて……全くわたしらしくない)
 珠里は、気まずそうに顔を歪めた。
「いつものように、延長は無しって言っておいたわ。これでお開きにしましょう。じゃ」
 陽一の側を通り過ぎようとした時、彼が珠里の手首を強く掴んで引き止めた。
「陽一?」
 戸惑いを見せないようにしながら、珠里は陽一を見上げた。
「まだだ……」
 まだ? まだって何が?
 訝しげに目を細める珠里を、陽一はそのまま引っ張って壁に抑えつけた。あまりにも突然のその行動に、珠里はただ目を見開く事しか出来ない。
「陽一? いったいどうしたっていうの? 今までこんな事一度も、」
「御礼をするんだろ?」
「えっ? 御礼?」
「プレゼントを貰ったら、誰にでも御礼はすると……さっき言ってただろ」
 確かに、プレゼントの御礼をしていると言った。それを、陽一が望んでいる?
 
 まさか!
 
 だが、珠里が虚勢を張って軽くあしらおうとした瞬間、陽一が顔を近づけてキスをした。
 唇と唇が触れ合う、中学生のキスではない。恋人同士がお互いを想い合うように、甘い果実を啄ばみ……貪るように、全てを飲み込もうとするキスだった。
(あの陽一が、わたしにこんな淫らなキスをしている!)
 そう思っただけで膝がガクガクして、立っていられなくなってきた。
 空気を求めて息を吸った瞬間、彼の舌が滑り込んでくる。たったそれだけで下腹部奥がざわざわして熱くなり、一瞬で秘部が濡れたのがわかった。
 いつの間にか、躯と躯を密着させながら二人はキスを交わしていた。
 だが、珠里の神経が麻痺し始めた瞬間、陽一は唐突にキスを止めた。息を弾ませながら、珠里はそっと瞼を開けて陽一を見上げた。
 そこには、苦悩と痛み、後悔等が見え隠れした表情があった。
「……珠里、お前の言う通りだった」
「っな、何が?」
 陽一が齎した愛撫で、躯はまだ火照っている。密着はしたものの陽一の手で躯を触れられたワケでもない。ただ、口内をくまなく愛撫されただけなのに、珠里は軽くイク寸前まで押し上げられていた。
 悔しさと恥ずかしさ、嬉しさが混じっていたが、必死に遊び慣れた女を演じる。
「お前は、もう中学生の子供じゃないって事が」
 陽一はそう言うと、くるっと背を向けて歩き出した。珠里はただその背中を見つめるしか出来なかった。彼とは違って、すたすた歩ける状態ではなかったからだ。
 陽一の姿が視界から消えると、珠里はふらふらとしながらソファに座り込んだ。
「悔しい! 陽一はわたしを弄んだの!?」
 悔し涙が溢れそうになるが、奥歯をグッと噛んで溢れ出そうとする悲しみと怒りを堪えようとした。
 陽一がプレゼントを差し出したあの時から、何か様子が一変したのを感じ取っていた。蓋を開けた瞬間さらに変化したのもわかった。
 まるで、開けてはいけないと言われたパンドラの箱≠開けたように。
(だって、今までそんな態度を取った事はないのに、急にわたしに触れてピアスをつけたり、首を愛撫したりし出したんだもの。どうして? わたしを弄んだの!? 恋のまねごとをするデート嬢は、わたしには無理だって示したかったの?)
 
 パンドラの箱≠ゥらは、憎しみや欲望、嫉妬などのありとあらゆる災いや悩みが溢れ出て、世界中に広がったと言う。
 ただ一つ箱の中に残っていたのは希望だけ。
 
(わたしに残ったのは、希望とは言えないわね……)
 珠里はふらふらとしながら立ち上がると、悲しそうにしながらゆっくり歩き出した。
 もう、これっきりにしてもらおう。陽一が予約をしても珠里は既に予約されていると言えば、もう二度と真似事のデートをしなくて済む。
 陽一と二人っきりで会う機会がなくなるかと思うと、胸を刺すような痛みが走ったが、これ以上もう演技はしたくなかった。
 珠里は、欲望で疼く躯に鞭打って店外へ向かった。珠里が出てくるのを、陽一が外で待っているとは知らずに……

2008/11/27
  

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