『初桜に愛舞い降りて〜宿世の契り〜』【12】

 千珠は口につけようとした薬湯の碗を下ろし、声を荒げた泰成を見返す。
「そんな……ダメって、頭ごなしに言わなくても――」
「あの場所へ行くことを、私は許さない!」
 その声に、千珠は思わず身をすくめた。
 穏やかでいられないのか、泰成は扇を指で開けたり閉じたりしては、何度もパチンと音を立てる。
 こんな泰成を見たのは初めてだ。
 昨日、白桜邸で目を覚ましてからというもの、彼は冷静沈着だった。千珠の不可思議な体験を聞いても、慌てたり取り乱したりもしなかった。
 なのに、千珠が桜を見てみたい≠ニ言っただけで、この変わりようはいったいどうしたというのだろう。
「良いか、千珠。私の許しがない限り、勝手に父の居住、主殿へ渡るのは許さない。小牧もそう心得よ」
 泰成は指を突きつける代わりに、扇で千珠を指す。
 約束を守らなければどうなるかわかっているな――と言わんばかりの目つきで千珠を凝視して、彼は立ち上がった。
 そして背を向けて歩き出し、御簾を跳ね上げると、泰成は局を出ていった。
 
 
 小牧とふたりっきりになり、再び局は静寂に包まれる。
 千珠は呆然と泰成の姿を見ていたが、彼が消えるとすぐに小牧に視線を戻した。
「泰成さま、いったいどうしたっていうの? ただもう一度あの桜を見てみたい≠チて言っただけなのに。まさか、あんなに怒るなんて……」
「千珠さま。蔵人少将さまの剣幕に驚かれたと思いますが、どうか少将さまのご心中お察しくださいませ」
「ご心中?」
 どうして小牧は泰成の気持ちがわかるのか、その理由を訊こうとして口を開こうとする。
 でもそうする前に、小牧にさあ、薬湯を飲んでください≠ニ碗を指された。
 今はとりあえず碗を空にしよう。
 千珠は碗に入った薬を一気に飲み干した。
「ううっ、苦い!」
 顔をくしゃくしゃに歪めて、飲み干した碗を小牧に渡す。
 唇についた水滴を手の甲で拭い、改めて泰成の態度に動じない小牧をまじまじと見た。
「ねえ、小牧には泰成さまの心がわかるの?」
 そう口にした途端、小牧がジロリと千珠に目を向ける。まるであなたはどうしてわからないのですか≠ニ言いたげな目だった。
 千珠は言い返そうとするが、その口を閉じ、小さく息をついて肩を落とす。
「わからない。彼と会って、まだたった2日だし……」
「時間など関係ありませんわ! 蔵人少将さまは、ひと目で千珠さまに惹かれたのですよ。小牧にはすぐにわかりましたわ」
 小牧の言葉は嬉しいが、それがどうして泰成の気持ちに繋がるのかわからない。
「でもね、わたしはただあの桜を見たいと言っただけなんだけど……」
 小牧は深いため息をつき、力なく小さく頭を振った。
「本当にわからないのですか? あの桜≠ヘ千珠さまを白桜邸へお連れくださったのです。来た道を戻れば、普通は元の場所へ戻れるもの。つまり、千珠さまがお国へ戻られるとすれば、あの桜≠オか道がないと思うのです」
 そこでひと息をつくが、小牧はまたすぐに話し始めた。
「この小牧でさえ、そうではないかと思ったぐらいです。蔵人少将さまも、きっと気付かれておいでですわ。それで、千珠さまを桜≠フ傍へ近づけさせたくはないのです。白桜邸から、お傍から消えないでほしいと願っているのです」
 
 泰成の傍にいてほしいと、願っている?
 
 泰成が、千珠が元の時代へ戻ってしまうのを恐れているなんて、そんな風には到底思えない。
 そもそも千珠は、白桜邸の厄介者。
 桜の傍で倒れている姿を他の女房に見られたと言っていたので、きっと幽霊か何かだと思われているに違いない。
 そんな千珠に傍にいてほしいと思っているなんて、やっぱりどう考えてもそうは思えない。
 自分の気持ちを伝えようと、千珠はこちらの出方を待つ小牧に目を向けた。
「わたしはこの世界の人間ではないのよ。それに、わたしはきっと得体の知れない人物だと、他の女房たちは思ってる。それでも、泰成さまはこんなわたしを傍に置きたいと思っている……って、小牧は思うの?」
「当然ではありませんか! なんとも思っていない女人に、広い局、御帳台、そして塗籠(ぬりごめ=衣装などを置く収納部屋)をご用意されるとお思いですか?」
 折敷(おしき=お盆)を持って立ち上がった小牧は、千珠に背を向けて御簾の方へ向かった。
「小菊。これを……」
「はい」
 小牧は控えさせていた若い女房に折敷を渡し、すぐに表着(うわぎ)の裾を足で蹴って方向転換したそして、千珠に真摯な目を向ける。再び几帳を避けてこちらに戻ると腰を下ろし、そっと千珠の手を握った。
「小牧も蔵人少将さまと同じ気持ちですわ。どうか、元のお国へ戻らないでくださいませ。ずっと蔵人少将さまのお傍に……」
 
 彼の元に……
 
 千珠はそっと小牧の目を避け、捲り上げられた御簾の向こう側に見える広い庭園に目をやった。
 泰成の傍にいるということは、この豪華な籠の鳥になるということ。
 これまで自由な生活を過ごしていたので、気ままに白桜邸の外へ出られないというのは、正直苦痛だった。
 でも、もし現代へ戻られないのなら、自分の身の振り方を考える必要がある。
 白桜邸の外へ出て暮らさなければならないとしても、これまでの知識を生かしてなんとかしようと努力はできる。
 でも、もし泰成が許してくれるなら、千珠はここにいたかった。
 千珠がどこから来たのかきちんと理解はできなくても恐れず、ひとりの人間として接してくれる小牧と、泰成の傍に。
 ただそうなれば、千珠は男性に囲われているということになる。その場合、千珠の立場はどうなるのだろう。
 泰成には妻がいる。そんな彼の屋敷の一角に居を構えていれば、千珠は泰成の浮気相手という風に見られるのだろうか。
 源氏物語の知識しか持たない千珠にとって、男性の浮気が許されているということぐらしか頭になかった。
「あっ、違う。浮気じゃないんだっけ。えっと、この時代では……男の甲斐性?」
「はい?」
 小牧の声で、千珠は声を出していたと気付いた。
「ごめんなさい、なんでもない」
 慌てて小牧に返事をするが、千珠はまた自分の殻に籠もって昨夜の会話を振り返った。
 泰成に千珠が暮らしていた時代の話を訊かれて、いろいろ話した。
 その中には男女関係も入っていて、千珠の時代では一夫一妻だと教えた。
 それを聞いた泰成はその方が妻も喜ぶのであろうな≠ニポツリと呟いた。続けて千珠は他の女性とひとりの男性を奪い合った経験はないのだな?≠ニ訊かれ、頷いた。
 その後、さらに恋愛事情を絡めて現代の話をした。
 だから、10年も寄り添っている北の方≠フ存在を知らせたくなかったのだろうか。
 妻を持つ男性が、他の女性を求めるのはいけないことだと教えたから。
「……えっ? ちょっと待って。それってやっぱり――」
 千珠は息を呑み、片手で口元を覆った。
 もしかして小牧が言ったように、泰成は千珠に好意を持ってくれている?

2014/07/09
  

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