最終章『忘れられない蜜華』【4】

 オーナーが帰ったあと、値引きシールを貼ったパンや残っていた惣菜パンは、カフェ内にいた客や、会社帰りに立ち寄ってくれた客たちによって、閉店30分前には全て売り切れた。
 店内にいた客も席を立ち、残っているのはあと数人だけ。
 閉店時間よりは早いが、もう売る物がない。乃愛と夏海は、いつものようにふたりで閉店作業を始めた。
 戸締まりの確認は夏海に任せ、乃愛は先にスタッフ専用のスタッフルームに入ってふたり分の紅茶を用意した。
 
 ―――数10分後。
 残っていた客も店を出たのだろう。
 戸締まりを終えてスタッフルームに入ってきた夏海が、突然乃愛に話しかけてきた。
「ねえ。実は……ずっと気になってたんだけど。あのね……、乃愛と一緒にウッドデッキへ出たあの男子高校生と……もしかして知り合いだったりする?」
 ウッドデッキと男子高校生というキーワードに、すぐ乃愛の脳裏に叶都の姿が浮かんだ。
「えっ? どうして?」
 仕事中、極力叶都のことを考えないようにしていたのに……
「何年友達をやってると思うの? 乃愛の目を見たらわかるって。ウッドデッキから店内へ戻っても、乃愛の口元はずっとヘの字≠ノなってるし。苦しそうに顔を歪めてもいたし」
 笑顔を作りすぎて強ばった頬を、乃愛は手のひらで解す。
「夏海にバレてしまうぐらい、わたし……顔に出てた?」
「うん。乃愛が一人暮らしを始めた頃を思い出しちゃった。あの時、乃愛がそうなったのは……付き合っていた年下の彼と別れた時だった。今日、乃愛はあの高校生と会って……昔と同じような表情を浮かべていた。つまり、そういうことよね?」
 洞察力が勝れているのは、客商売で培ったものだろうか?
 高校時代、叶都と付き合ったと言ったけど、夏海に彼の写真を見せたことは一度もない。
 なのに、カフェに来た叶都と乃愛の様子を見て、夏海は気付いてしまったのだろう。
 乃愛は覚悟を決めると長いため息をつき、ゆっくりと面を上げた。
「夏海の言うとおり。以前、付き合っていた年下の男子って、彼のことなの。当時、酷い言葉を投げつけて裏切ったから、彼の前では平静を保つことができなかったみたい」
「彼を忘れられないんじゃなくて、乃愛は今も好き……なのね? だから、今まで新しい恋に向き合えなかったし、奥園さんの告白も……断った」
 夏海は、見事に乃愛の心を言い当てた。
 たったそれだけなのに、こんなにも嬉しいなんて……
「夏海!」
 乃愛は両腕を開き、強く夏海を抱きしめた。叶都との別れの理由を誰にも言えずにずっと心に秘めてきたこの2年間、乃愛はとても苦しかった。
 でも、2年ぶりに叶都と再会したことで、昔の記憶が走馬灯のように蘇った。あの苦しみはいったい何だったのだろうと思うぐらい、乃愛の胸は今の方がもっと痛かった。
 叶都の目には、全く生気が感じられなかったから。乃愛に話しかけてしまうぐらい、彼も昔の傷を負っていると感じたから……
「乃愛……、言えるところだけでいいから話してよ。聞いても、乃愛を助けることはできないかも知れない。だけど、話すことで少しは心が軽くなれるから……」
 夏海の言うとおりだった。誰にも話せずにいたから、乃愛の心は今も苦しくて悲鳴を上げている。
 全てを話すことはできないが、乃愛が酷いことをしたことを夏海に聞いてほしい。
「あのね……わたし、彼に対してとっても酷いことをしたの」
 そう告げてから、乃愛は話し出した。叶都に別れを告げたあの日の出来事を。
 言える部分だけ話し終えた乃愛を、夏海はギュッと抱きしめてくれた。
「それで……ネイリストへの道には進んでいないのね? 乃愛が就職したいと思っていた会社にも。入社は縁故で……って言われたのよね? 彼のお父さんから連絡は?」
 夏海から少し躯を離し、ゆっくり頭を振る。
「あの日、彼と別れるように言われてから一度も会ってないし、連絡もない」
 乃愛は大きく息を吸い、夏海の目を見つめた。
「叶都への愛を切り捨てたその代償に職を与えるなんて、酷すぎるもの! わたし、そんな物は欲しくない。ただ、若いながらも純粋にお互いを求めていた……その気持ちを理解してほしかった」
 
「……そういうこと、だったんだな」
 
 ふたりしかいないはずなのに、突然男の声が部屋に響いた。
 乃愛はビックリして、慌てて夏海から手を離し、勢いよく後ろを振り返った。ドアのところに、こちらを見つめる叶都が立っていた。
「ど、どいうことなの!」
 いるはずのない叶都が、カフェのスタッフルームにいることに、驚きを隠せなかった。
 動揺を隠せず、乃愛は叶都から夏海へ視線を移す。
 夏海は、鍵の締め忘れがないか一人で確認をしていた。鍵はきちんとかけたはずだから、人が勝手に店舗に入れるはずがない。
 それなのに、どうして叶都がスタッフルームまで入ってこられるのだろうか?
(まさか……夏海が、叶都を?)
「ごめんなさい、乃愛。戸締まりの確認をしていたら、彼が外のガードレールに腰かけてずっとこっちを見ていたの。乃愛と一緒にウッドデッキに消えたのが彼だって覚えていたから、わたし……彼に声をかけて」
 そこで言葉を止めると、夏海は乃愛に背を向けた。ロッカーへ向かって歩き出し、私服とバッグを取り出す。
「あとは、ふたりできちんと話すべきだと思う。乃愛は、この二年……本当に苦しんできたんだから。ネイリストとして働きたいと思っていたのに、その意味すらわからずに専門学校に通い続けてきた。今もどうしたらいいのかわからない……。そんな生活を送っているのは、心の傷をずっと癒せずにいるからよ」
 夏海は乃愛に話しかけながらもドアの方へ歩き出し、叶都の前で立ち止まった。
「絶対に乃愛を悲しませないで。二人っきりにしてあげるのは、あなたのためじゃない。乃愛のためなんだから。乃愛が前を向いて歩いていけるようにするためなんだからね! わかった? 城聖学院の元生徒会長さん」
(元生徒会長? 叶都が!?)
 その事実に驚愕する乃愛を見ることもなく、夏海は叶都の肩をポンッと叩き、彼の側を通って出ていった。
 同時に叶都が部屋に一歩踏み入り、支えがなくなった後ろのドアがひとりでに閉まった。
 狭い空間に、とうとう叶都とふたりきりになってしまった。
 
 数時間前は、人の目があったのでそれほど緊張することはなかった。
 でも、今は狭い個室にふたりきり。何をしたとしても、誰からも咎められることはない。
(叶都は、いったいどの辺りからわたしの話を聞いていたの? もしかしたら、夏海がわたしに声をかけた時から、ずっと聞いていた?)
 そうなると、最初から最後まで聞いたことになる。叶都の父に脅されたということも。
 今、乃愛の前にいるのは……付き合っていた頃の中学生だった叶都ではない。
 乃愛を見下ろすほど身長も高くなった、18歳のひとりの男だ。
 制服に身を包んではいるものの、眼鏡の向こうからこちらを見つめるその目は、全てを理解したと伝えてくる。
 叶都の目を見続けている乃愛の耳に、スタッフルームの裏にある駐車場から車のエンジン音が聞こえた。
 その音は、どんどん遠ざかっていく。夏海が愛車に乗って、自宅へ戻ったのだろう。
 もう、覚悟を決めなければ……

2011/09/04
  

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