最終章『忘れられない蜜華』【3】

 謝って言い訳をするように説明しても、夏海は嬉しくもないだろう。夏海の口から、奥園が好き≠ニいう言葉が出ない限り、無闇に彼女の心に踏み込むのは止めておいたほうがいい。
 今までも、夏海は乃愛に打ち明けようとはせず、自分の気持ちをずっと押し隠してきただから……
 
 数10分後、お客の波がパタッと途切れた。
 それをきっかけに乃愛はダスターを手にし、店内の各テーブルを回った。
(……大丈夫。わたしの気持ちを言葉にするだけだもの)
 閉店まであと2時間弱。
 開いた席のテーブルを拭き終えてから、カウンターのところで俯いている夏海の方へ歩き出した。
「夏海、ちょっと話……聞いてくれる?」
 乃愛の言葉に、夏海は顔を引き攣らせる。
「な、何?」
「今日ね、奥園さんから告白されちゃった。……ごめんね、今まで黙ってて」
 夏海が激しく頭を振る。
「ううん。今日はずっと忙しかったし、そんな話をする時間もなかったから……」
 そこで大きく息を吐き出し、夏海が軽く頷く。
「そっか……。うん、わかってたんだ。ここで働き始めた乃愛を見て、奥園さんがすぐに乃愛を好きになったって。わたし、ずっと……彼を見ていたから」
「うん……、そうだよね」
 後ろの棚に凭れて、夏海の方へチラッと視線を向ける。
「夏海がさ、それとなくわたしと奥園さんをくっつけようとしてたでしょ? でも、ごめんね。わたし、断ったの。奥園さんとは付き合えませんって」
「えっ!?」
 乃愛のその言葉が信じられなかったのか、初めて面を上げて乃愛に詰め寄ってきた。
「どうして? どうして断ったりしたの? 奥園さんのどこがいけないって言うの?」
「ダメなところなんてないよ」
 乃愛は小さく頭を振って、夏海の見開いた目を真っ直ぐ見つめ返す。
「……わたし、まだ昔のことを引きずってるから。こんな状態で付き合ったら、奥園さんに失礼よ。彼はとっても素敵な男性なのに。ああいう人には、真っ直ぐな気持ちを持っている女性こそ相応しいわ。夏海のような女性がね」
「えっ、わたし!? イヤだ、乃愛ったら!」
 頬を染めながら、恥ずかしそうに乃愛の腕を叩く夏海。まんざらでもないという表情を見て、やっぱり夏海は奥園が好きだったんだと確信した。
「本当に、そう思うの。もちろん、夏海が奥園さんのことが好きじゃなかったらダメだけど。わたし、奥園さんにはいっぱい優しくしてもらったし、夏海からもたくさんの愛をもらってきた。だから、ふたりには本当に幸せになって欲しいの」
 夏海は綻ばせていた口元を引き締め、乃愛の肩を抱き締めた。
「乃愛……、奥園さんとは付き合えないけど、彼のこと好きだったんだね。幸せになって欲しいって思うぐらいに」
「もちろん! でも、そう思うのは奥園さんだけじゃないよ。夏海にも幸せになってもらいたいって、心からそう思ってる。ねえ、知ってる? 今日の帰り際にカウンターで夏海と話していた奥園さん、とっても綺麗な笑顔を見せていた。心から楽しんでるっていう笑みだった。あんな表情、わたしの前ではしたことないんだよ?」
「えっ!」
 夏海は乃愛の肩から手を下ろし、足を一歩後ろに退きながら目をぱちくりさせる。
 そんな夏海に、乃愛は力強く頷いた。
 叶都にウッドデッキの方へ連れて行かれる時、後ろを振り返った。その時、乃愛の目に映る夏海と奥園は、本当に愛らしいカップルのように見えた。
 その光景を見た瞬間は特に気を留めなかったけど、今その時のことを振り返ると、夏海を見るその仕草には愛情たっぷり込められていたということがわかる。
「わたし、まだ誰かと付き合うことはできないけど……その分夏海に幸せになって欲しいな。好きな人ができたら言ってよね。わたし、絶対応援するから!」
 夏海が気軽に恋の話ができるよう、乃愛は朗笑を浮かべた。
「高校時代の時から、夏海はわたしの恋バナばかり聞いてくれていたものね。今度は、わたしが聞いてあげる番だよ」
「の、乃愛……」
 不安を覚えているのか、夏海の眼球が左右に揺れ、その瞳が少しずつ潤んでくる。
「うん? 何? ……どうしたの?」
 小声で訊き返しながら、乃愛はさらに夏海に近づいた。安心してもらえるように、和やかな雰囲気を崩さないようにして。
「本当は、わたし……奥園さんのことが好きなの。初めて会った時に気になり始めて、それからは、会うたびに……惹かれていって」
「良かった……」
 安堵の吐息と一緒に、乃愛は肩の力を抜いた。
「えっ?」
「わたしの大好きな……夏海が、奥園さんを好きで」
 ここがカフェで、客の目に入るカウンターだとわかっていても、乃愛は夏海をギュッ抱きしめずにはいられなかった。
「応援するよ。奥園さん、とってもいい人だもの」
 ゆっくり身を離し、夏海の頬を軽く抓る。
「頑張るんだよ〜!」
「うん。ありがとう、乃愛!」
 うじうじと悩まず、いつも前向きな夏海。
 ここで打ち明けてくれるとは思わなかったけど、夏海が自分の恋に向かって一歩踏み出せたことに、乃愛は本当に嬉しくて仕方がなかった。
 夏海の気持ちを聞いた以上、これからは二人を応援しよう。どんな風に印象付けるかは、これから考えていけばいい。
 
 ―――ガラッ。
「じゃ、あとはあなたたちでよろしくね。お先!」
 いきなり後ろのガラス扉が開き、オーナーが乃愛たちに声をかけた。
「はい、お疲れさまです」
 オーナーの神域でもある工房は、既に綺麗に片付けられていた。
「よし! じゃ、トレイとか片付けようか」
 売り切れたトレイを引き出しては、後ろの流し台に重ねていく。引き出しから値引きシールを取り出すと、カウンターを回り、袋詰がされているパン専用のアイランドテーブルに行った。売り残りのパンを中央に集めて、値引きシールを貼っていく。
 ふたりして分担しながら、それぞれの仕事を始めていた。
 閉店まで、あと2時間を切っていた……

2011/08/28
  

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