第三章『愛していると言えなくて…』【4】

 この想いが伝わるように、乃愛は自分の胸を叩いて真摯な眼差しを向けた。
「わたしは、叶都を愛しています。彼と付き合っているんです! ですから、どうか……」
「わかってないね。今の叶都に、愛や恋というまやかしは必要ないんだ。邪魔なだけなんだ。これから叶都に会って、乃愛さんの方から別れを切り出して欲しい」
「そんな!」
 乃愛は、拒絶するように頭を振った。
 叶都が抱えている闇を、少しでも軽くしてあげたいと思うぐらい、乃愛は彼を愛している。
 一緒にいることでとても幸せな日々を過ごせているのに、別れてほしいと頼まれて、本気でそうすると思っているのだろうか?
「……できません。別れられません。叶都に自分の気持ちを告げた時、わたしは彼とは正直に接していこうって決めたんです」
「では、正直に接してもらおうかな。もし、今日叶都と別れなければ、乃愛さんのお父さんは失業する羽目になる」
「えっ!?」
 その時、家庭教師のことで父が言っていた言葉が、ふと乃愛の頭を過った。叶都の父は人事に顔が利く≠ニ……
「どうする? 家族が路頭に迷う方を選ぶか? それとも素直に叶都と別れるかな? このまま叶都と待ち合わせをしている場所まで連れて行ってあげよう。どうするかは、自分で決めなさい」
 乃愛は、膝の上でギュッと握り拳を作りながら俯いた。運転手が、後ろの後部座席へ視線をチラチラと向けてきても気付かず、乃愛はずっと押し黙っていた。
 
 それから、どのぐらい時間が経ったのかわからない。
 だが、乃愛は自分がどうすべきなのか、もうわかっていた。乃愛が愛を貫き通せば、父が失職する。いきなりの解雇で、きっと家族は混乱に陥るだろう。
 それがわかっているだけに、乃愛は我を通して自分の幸せだけを欲することはできなかった。
(こんなにも愛しているのに、わたしは叶都と別れなければいけないのね……)
「到着しました」
 運転手の声でハッと我に返ると、乃愛はすぐに外へ視線を向けた。こんな場所にはいたくもないと告げるように、乃愛はドアの取っ手にすぐ触れる。
「乃愛さんが、とても賢いことを祈ってる。そうだね……見返りとして、弊社への入社は確実にしてあげよう」
 乃愛は、叶都の父に背を向けたまま歯をギュッと噛みしめた。
 父が勤める会社のパーティーに出席してからというもの、同じ会社に入りたいと思ってきた。高校卒業して専門学校へ進んだのもそれが一番の早道だったからだ。
 だが、今ではその希望がどんどん失われていく。このままネイルの道へ進んでいいものなのか、それすらもうわからない。
「……失礼します」
 もう叶都の父とは二度と会いたくない。それでも、愛する叶都の父親だから……と自分に言い聞かせて、乃愛は礼儀正しく振る舞うと車から降りた。
 乃愛が降りた途端、すぐに車が走り出したが、振り返ろうとはしなかった。
 なぜなら、乃愛に向かって手を軽く振る叶都が、すぐ目の前の交差点を渡ったところにいたからだ。
 これから嘘を告げなければいけないと思うと、胸が張り裂けそうだった。
 それでも、乃愛は叶都を見ながら彼の側へと歩き出した。
 絶対何があったのか知られてはいけない……これ以上、叶都を苦しめたくはない。
 母親と妹のことだけでなく、父親までも脅迫まがいのことをしていると知れば、叶都はまた苦しんでしまう。
 
「乃愛、早かったな」
 嬉しそうに口元を綻ばせるその顔を見るのは、これで最後になるだろう。手を後ろに回して指輪を引き抜き、それをショートパンツの後ろポケットに入れる。
 無事に隠すことができると、乃愛は叶都の顔を忘れないようにジッと見つめた。
「何? 俺の顔に何かついてる?」
 泣いてはダメ。まだ、何も告げていないのに、ここで泣いてしまったら叶都に何かあったと思われてしまう。
「ううん。……あのね、叶都に話があるの」
「わかってる。俺の高校のことだろ? そして、乃愛の専門学校のこと。きちんと今日話すから。で、これからどこへ行こうか? 桜が綺麗だから、公園でも行くか? それともショッピングがしたい?」
「……話をさせて、欲しい」
 叶都と会えた時は、いつも満面の笑みを浮かべているが、今日は乃愛の声が沈んでいるのがわかったのだろう。
 訝しげに少し目を細めた叶都が、乃愛の顔を覗き込んできた。
「何か問題があるのか?」
(ああ、叶都……わたしを許して!)
「ごめんなさい、叶都。わたし、叶都と……別れたいの」
「えっ? 何? どういう意味?」
 呆気に取られた表情を浮かべるが、それが徐々に醜く歪んでいく。そんな表情をさせたくはなかった、見たくはなかったが、乃愛は彼から視線を逸らそうとはしなかった。
「わたし、気付いたの。今日、専門学校へ行ったら……叶都は同級生たちと違って、……子供だって」
「おい。いったい何を言ってるんだ? ……乃愛!」
 叶都は乃愛の肩に両手を置いて、大きく躯を揺さぶってくる。されるがままになっていたが、それでも乃愛は酷い言葉を投げ続けた。
「だって、そうでしょ? 叶都は高校生になったばかり。あと数週間経てば16歳になって、わたしとは2歳違いになる。けれど、やっぱりどこか違うのよ。わたし……大人の男性と付き合いたい。頼れる人と付き合いたい」
「俺じゃ、頼りにならないと言いたいのか!?」
 乃愛の肩から手を離した叶都は、そのまま手首を強く掴んで持ち上げた。
「……っ!」
「永遠に……と誓って贈ったのに、指輪はしていないんだな」
 強く振り払って叶都の手から逃れると、乃愛は俯きそうになるのを必死で堪えながら叶都を見上げた。
「だって、邪魔なんだもの……。ペアリングなんてしていたら、好きな人に振り向いてもらえない」
「好きな、人……だと!?」
「ええ、そうよ! わたしの気持ちは、もう叶都には向いていない! ……ねえ、そろそろ新生活に目を向けることにしない? 新入生代表の挨拶をすれば、きっといろんな女子が叶都に目を向けてくる。今の叶都にはその魅力がある。わたしも少し大人になったから、きっと……彼も振り向いてくれるはず。現に、わたしを食事に誘ってくれたもの」
 食事に誘ってくれたのは新しくできた女友達だったが、叶都の気持ちを乃愛から切り離すにはこうするしかなかった。
 酷く裏切られたと思ってくれれば、乃愛への未練も消えて前へ進めるだろう。
 
(これはわたしの罪。だから、わたしは前に進めなくても構わない。でも、叶都には前へ進んでほしい。これが、わたしから叶都へ贈る最後の愛情だから)
 
「……行けよ。乃愛に心を奪われた俺がバカだった。俺よりもほかの男がいいなら、そいつのところへ行ってしまえ!」
 人が行き交う場所でありながら、叶都は大声でそう叫ぶと、乃愛に背を向けて歩き去った。
 人込みにまぎれるようにして進む叶都を、乃愛は最後までずっと見ていた。
「ごめんね。……本当にごめんね、叶都。わたし、あなたを選ぶことができなかった」
 後ろポケットに隠した指輪を取り出すと、それをもとにあった場所へそっと填めた。
 わたしが取ったこの酷い行動は絶対に忘れない、絶対に――叶都の姿が完全に視界に入らなるまで言い続けながら、乃愛は静かに涙を流した。
 周囲を行き交う人が、訝しげに乃愛を見てくるものの、人目も憚らずに泣きながら駅に向かった。
 
 
 どこにも寄り道をせず、真っ直ぐ家に帰ると、乃愛は自分の部屋のベッドに腰を下ろして頭を抱えた。
「もうイヤ……、逃げたい。何もかも投げ出したい!」
 再び涙が頬を伝い落ちていく。
 そんな乃愛の視線に、ファンション雑誌が目についた。表紙に載ってるキーワード新生活、一人暮らし≠ェ飛び込んでくる。
「一人暮らし……」
 乃愛はボソッと呟いたが、それがいい逃げになるように思えてならなかった。
 数時間後、晩ご飯を食べ終わり、食後のデザートをテーブルに並べて席に座った時、乃愛は意を決して両親に言った。
「今日、専門学校で授業の説明を聞いたんだけど、受けたい授業がいっぱいあったの。せっかくだから、気になる授業を全て受けたいと思うんだけど、そうなると学校へ通うのが大変になるみたい。無理を承知で頼むんだけど、わたしを一人暮らしさせて下さい。バイトもして食費ぐらいは稼ぐから……。勉強に集中したいの。技術を身に付けるために」
 今言った言葉はほとんど嘘だった。ネイリストになりたいという気持ちは、乃愛の中にほとんど残ってはいない。
 だが、それを言うと今日あった出来事を全て話さなければならなくなる。それはどうしても避けたかった。
 娘が脅迫されたと知ったら、父は叶都の父と普通に接することができなくなってしまうだろう。
 両親に心配をかけさせないためには、ネイリストになるために頑張っているという姿を見せなければ。
 その夜、乃愛は必死に両親を説得して一人暮らしを認めてもらった。
 それから2年経ち、乃愛は専門学校を卒業した。
 一人暮らしする必要はもうなくなったのに、乃愛は家に戻ろうとはしなかった。
 就職もせずぶらぶらしている乃愛。そんな親友を放ってはおけなかったのだろう。高校時代の親友の夏海から、カフェでバイトをして欲しいと懇願された。
 お金も必要だったし、夏海と一緒にいるだけで少しは前向きになれるかもしれないと思い、彼女のところでこの四月からバイトをさせてもらうようにした。
 
 そして、それから数ヶ月経っていた……

2011/07/10
  

Template by Starlit