第三章『愛していると言えなくて…』【3】

――2年前の春、4月。
 
 この日は、美容専門学校の履修項目を選択する日だった。
 半年間は美容全般をトータルに学ぶが、その後は専門コースへ進むことになっている。
 乃愛はトータルビューティー科ネイルアートコースを希望し、先生たちの説明を聞きながら、そのほかにも気になる授業をチェックした。
 新しい友達も数人でき、新入生同士で親交を深めようと食事に誘われるが、乃愛は断った。
 入学式を明日に控えた叶都と、会う約束をしていたからだ。
 やっと、どこの高校へ入ったのか教えてくれる!
 受験勉強もせず、叶都がどこの高校へ入ったのかとても興味があった。
 叶都が教えてくれなかったので、乃愛もどこの美容専門学校に入ったかは教えなかったが、やっと今日教え合うことになる。
「じゃ、また来週ね」
 手を振って友達と学校前で別れるとすぐに、乃愛は携帯を取り出して時間を確認した。
 叶都との約束の時間まで、あと2時間。あと数時間で叶都に会えると思うと、乃愛の表情は自然と軟らかくなった。
 左手薬指には、独占欲の証としてクリスマスプレゼントに贈られたクロムハーツの指輪が光ってる。そして、叶都がホワイトデーにプレゼントしてくれたスクロール・フープのピアス。
 髪の毛を下ろしているのでピアスは見えないけれど、彼からのプレゼントはいつも身に付けていたかった。
 中学生からこんな高価なものを贈られて、最初こそ戸惑ったが、突き返したところで叶都が受け取るとは到底思えなかった。
 だから、乃愛はそのプレゼントを大切にすると伝えて、それを受け取った。
 いつの日か、本物のマリッジリングをココに填めたいな。もちろん相手は――恥ずかしそうに笑みを零し、乃愛は沿道に植えられた桜を見上げた。
 桜の満開予報がテレビで流れるようになり、花見で賑わう公園も中継されたりしている。
 今日も天気が良いので、きっと夜桜を楽しむ人も多いだろう。
 だが、桜の季節とは言ってもまだ肌寒く感じる。乃愛は、スプリングコートのポケットに手を突っ込んだ。
「叶都と夜桜デートもいいかも! 手を繋いで、一緒にポケットに突っ込んで……とか」
 自分の妄想に満足して口元を綻ばせた……まさにその時だった。
 
「里井、乃愛さん?」
 
 突然名前をフルネームで呼ばれた乃愛はびっくりして、勢いよく振り返った。
「はい?」
 目の前に立っていたのは、高そうなスーツを着ている中年の男性。ネクタイに手を伸ばした時に、高そうなゴールドの腕時計がキラッと光る。
 こんな男性と面識がない乃愛は、訝しげにその人を見上げた。
 年齢相応の皺があるものの、端正な顔だちをしているので、若い時は女性から人気があったのだろうと感じられた。
 その時、乃愛の中で何かがピンッときた。目の前の男性が放つ鋭い眼光、形が整った唇には、どこか見覚えがある。
 もしかして……この人は?
「自己紹介が遅れてしまったね。私は、叶都の父親だ」
 やっぱり……
 叶都の父でもあり、乃愛の父の上司でもある彼の登場に驚いたが、乃愛は姿勢を正して軽く会釈をした。
「は、初めまして。里井乃愛です。あの……」
 どういった理由で、乃愛に声をかけたのかとても不思議だった。
 そのことを訊ねようとした途端、叶都の父はふたりの傍に停車していた黒の外国車を指す。
「話は車内で。どうせ、これから叶都と会うんだろう? そこまで私が送ってあげよう」
 叶都と待ち合わせしている場所まで言い当てられ、乃愛の躯に嫌な緊張が走った。
 何かがあるとわかってはいても、乃愛は従うように頷いた。
 彼は、乃愛が愛する叶都の父親だから、少しでも心証を良くしておきたいと思ったから……
 
 恐る恐る外国車に乗り込むと、運転手がハンドルを握っていた。そんな車に乗り込むのは初めてだったので、乃愛の緊張はさらに高まっていく。
 車の流れに乗って走り出すと、叶都の父が口を開いた。
「乃愛さんが我が家に来るようになって、4ヶ月だね。あの叶都が夜遊びをしなくなり、服装も言動も少しずつ変わってきたのは、乃愛さんのお蔭だ。本当にありがとう。私の望むとおり、叶都を更生してくれた」
「そんな! わたしは何も……していません」
 乃愛は、正直にそう告げた。叶都の父が言うようなことを前提に、叶都を戒めたこともなければ、正そうとしたことは一度もない。
 叶都のことを少しでもわかってもらいたくて、乃愛はゆっくり口を開いた。
「叶都……さんと初めてお会いした時は、確かに素行は悪かったです。中学生には見えず、わたしと同年代のように見えました。わたしの考えが正しかったと気付いたのは、しばらく経ってからのことでした」
 叶都の父は腕を組み、乃愛の言葉を聞いてくれているようだった。このまま続けて話せば、叶都のことも少しは理解してもらえるかもしれない。
 それを願って、言葉を続けた。
「彼の精神部分は、わたしよりもずっと大人だったんです。どうやっていろいろなことに順応すればいいのかわからず、それを持て余していただけなんです。わたしは、ただ彼の話を聞いてあげて、わたしの気持ちを言っただけにすぎません」
 叶都の父が手を上げたので、乃愛は言葉を止めた。
「思春期の男は、誰だって自分は大人だと思ってる。誰も俺のことはわかってくれない……とかね」
 自分の子供の気持ちをばっさり切り捨てる言い方に、乃愛は違うと叫びたかった。
 叶都は、父親にも言えないことを胸に抱え、ひとりでずっと苦しんできたのだと。
 だが、それは乃愛の口からは絶対言えない。
 叶都の家を崩壊させるようなことを、無関係の乃愛が言えるはずがない。だから、乃愛はただ黙っていた。
 叶都の誠実さを、きちんと伝えられない悔しさを抱きながら……
「息子は私が望む高校を受験し、見事主席で合格したよ。無理だと思っていたが……乃愛さんと会うことであいつはやる気が出たようだ。本当に感謝している。ありがとう」
 再び感謝するような言い方に、乃愛は何故か違和感を覚えた。
 ……いったい何を言おうとしているのだろう? お礼を言うためだけに、乃愛を車に乗せた? ううん、そんなことをするはずがない。狙いは、ほかにある?
「いえ……。わたしは、本当に何もしていないので……」
「いや、してくれた。息子の溜まった性欲を満たしてあげただろう?」
 突然話の方向が変わったことに、乃愛はびっくりして隣に座る叶都の父親へ視線を向けた。
「そう、今までの家庭教師も息子の性欲を満たしていた。それを知った私は即刻彼女たちをクビにした。中学生にセックスはまだ早い。だが、どうして乃愛さんはクビにしなかったと思う?」
 この話がどういう方向へ動いているのかわからず、乃愛はパニック寸前だった。
 肌寒く感じるのに、脇がしっとりと汗で濡れていくのがわかる。
 その問いに対して、乃愛が何も答えられないとわかっているのだろう。
 叶都の父は、自分が答える形で再び口を開いた。
「彼女たちといればいるほど、叶都の素行が悪くなったからだ。逆に、乃愛さんといるだけで、息子はどんどん立ち直っていくように見えた。だから、乃愛さんをクビにはしなかった」
 こめかみから汗が伝い落ちるのを感じたが、それを拭うことすらできなかった。今では、針が落ちた音でも聞こえそうなぐらい車中はシーンとしており、ぴりぴりとした空気が漂っている。
「あれは、そう……昨年の12月だった。バス停で二人が寄り添う姿を見た時、私はびっくりしたよ。あの叶都が、外であんな大胆なことをするとは思いもしなかった。目を疑ったよ」
 12月と聞いて、思い浮かぶのは初めて叶都に抱かれた日とクリスマスイブ、そしてその翌週の火曜日だった。
 どの日を指しているかはわからないが、恋人のイベントを迎えた12月は、ともにお互いしか見えていなかった。
 そんな状態のふたりを見て、きっと驚いたに違いない。
 でも、どうしてそういう仲だと知ったのだろうか。バス停でキスを交わしたり、微笑み合ったり、手を繋いだり、ギュッと抱き締め合っていても、ふたりの関係がどこまでかはわからないはずなのに。
「乃愛さんの家庭教師期間は無事に先月末で終了した。……家庭教師として叶都を見る時間に、セックスに興じていても、十分なお礼を振り込ませてもらったよ」
 彼の声音が十分な≠ニいうところで大きく響く。
 だが、家庭教師として通っていたその時間に叶都と愛し合っていたと知られていることに、乃愛は息を呑んだ。
「息子も高校生になり、これから忙しくなる。もう、乃愛さんに息子の性欲を満たしてもらわなくて構わない。乃愛さんとの契約は、先月末で終了したんだから」
 叶都の父は、乃愛が離れることを望んでいる。暗に、別れろと伝えている。
 それだけは、絶対イヤ!

2011/07/03
  

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