第二章『華の蜜に誘われて』【3】

 豪邸に驚いたのも事実だったが、それ以上に驚いたのは目の前に座る叶都の母と名乗る人だった。20代後半もしくは30代前半の女性が、生後2ヶ月にも満たない赤ん坊を腕に抱いている。
「どうぞ座って」
「あ、ありがとうございます」
 指されたソファに移動し、乃愛はゆっくり腰を下ろした。
(叶都くんって、確か中学3年生。目の前にいる女性が、もし想像したとおりの年齢だったら、わたしと同じ年齢の頃に叶都を産んだということ?)
 革張りのソファにふんぞり返る叶都は、興味がなさそうにテーブルを一点に見つめる。正面に座る乃愛を見ようともしない。
「本当はね、叶都には家庭教師なんて必要ないって主人に言ったのよ。でも、里井さんのような素敵な女性なら問題ないわ。卒業後の進学先ももう決まってるってことだし」
「ああ、もう! それぐらいでいいだろ! 乃愛、行くぞ」
 叶都がいきなり立ち上がり、乃愛の側まで来た。何をするのかとドキドキしながら彼を仰ぎ見ていると、予兆もなく乃愛の手首を掴む。
「ひゃぁ!」
(勝手に人の手を掴んでる! しかも、初対面だっていうのに、わたしを呼び捨てにするし。そっちがそうくるなら、わたしだって叶都って呼び捨てにするからね!)
「叶都!」
 叶都の母が叫ぶなり、腕の中の赤ん坊が泣き出す。腕の中であやしながらも、彼女は大声を張り上げた。
「今度はお行儀良くするのよ! お願いだから……」
 叶都に引っ張られるまま、雇い主の奥さんの前から去るようなことをしていいのかわからなかったが、乃愛は叶都に手首を掴まれたまま部屋を後にするしかなかった。
 無言のまま廊下を歩き、そのまま2階へ続く階段に足をかける。その時も、叶都は乃愛の手首から手を離そうとはしない。
「ねえ、いいの?」
 話しかけられる雰囲気ではなかったが、乃愛はこのまま口を閉じてはいられず、彼の背中に話しかける。
「お前は、俺のために雇われたんだろ?」
 ジロッと叶都に睨まれると、乃愛は慌てて口を噤んだ。二階に上がり、叶都が開けたドアの中へ連れ込まれ。そこでやっと手を離してもらえた。
 痛みが残る手首を摩りながら、乃愛は広い部屋を眺めた。
 クリーム色と黒色で統一された部屋は、どことなく大人のインテリアという雰囲気だった。部屋の隅に勉強机がある。パソコンの液晶テレビが三台も置かれているので、勉強机というイメージはない。そんなにパソコンを使って何をするのかと気になりながら、さらに視線を移す。すると、クイーンサイズと見違えるような大きなベッドが置いてあった。
 いろんな物に目移りした乃愛だったが、それ以上に叶都の部屋の広さにビックリした。二十畳以上はあるだろう。
(中学生がこんな広い部屋を使ってるの? わたしの部屋が5つぐらいは入るよ!)
「さて、いったい俺に何を教えてくれるのか教えてもらおうか?」
「えっ?」
 ドアの側で立ち尽くしていた乃愛に、叶都が問いかけてくる。戸惑ったものの、叶都がソファを手で勧めたので、言葉に甘えてそこに腰を下ろした。乃愛の動きを見ながら、叶都はもう一方のひとり掛け用のソファに座る。
 これからいったい何を訊かれるのだろう。
 膝の上に置いた手を見ながら、叶都が口を開くのを待つものの、彼は一向に言葉を発しない。痺れを切らした乃愛は、不安を覚えながらも恐る恐る窺うように叶都へ視線を向けた。
 彼は、乃愛が視線を向けるのをジッと待っていたようで、いきなりニヤッと口元を緩める。
(い、イヤな予感がするのは気のせい……でしょうか?)
 少し警戒するように、身をソファの背凭れに退いた時だった。
「なあ、知ってるか?」
(き、きたー!!)
 思わせぶりな態度を取る叶都の仕草に焦りを覚えると、乃愛は唾をゴクッと飲み込んだ。
「な、何が?」
「俺のカテキョとして送られてきたのは、乃愛で3人目だということを」
「ええっ! じゃ、わたし以外にも叶都には家庭教師がいるの?」
「俺を呼び捨てにしてもいいとまだ言ってないが。……まあ、いっか」
 叶都はソファの背に凭れながらも、乃愛から目を逸らせようとはしない。心の奥まで覗き込もうとするその瞳から逃れるように、乃愛は慌てて視線を手元に落とした。
(な、何ドキドキしてるの? 年下、しかも相手は中坊だっていうのに。わたしの心を覗き込むように見つめる……あの真っ直ぐな瞳が怖いなんて)
 勝手に早鐘を打つ心臓に戸惑いながら、それを振り払おうとするように面を上げる。待ち構えていたように、叶都が口を開いた。
「最初は、塾の講師をしている23歳の女。次は20歳の女子大生。そして、お前……」
 乃愛は視線を泳がせながらも、無理やり笑みを浮かべた。
「そっか。だから、わたしは勉強を見るために雇われたんじゃないのね。叶都の話し相手だったら、年齢が近い方がいいし」
 うんうんと頷くと乃愛を見て、叶都は怠そうにため息をついた。
「乃愛よりも前のカテキョは、もう辞めさせられていない」
「えっ? どうして?」
(どう考えても、わたしよりとっても優秀そうな家庭教師だと思うんですけど!)
「どうしてだって?」
 叶都がいきなり立ち上がったかと思えば、乃愛の隣に席を移す。
 何故隣に座ったのかわからず、乃愛はただ彼の行動を目で追っていた。すると、突然叶都は乃愛の長い髪の一房を手に持って顔を近づけてきた。
「最初のカテキョは、俺にキスをし……豊満な乳房に触ってくれと懇願してきた。次のカテキョは、俺をその気にさせて童貞を奪った」
 あまりにも赤裸々な言葉に、乃愛は顔を真っ赤にさせてソファから立ち上がった。身を退いて、叶都から距離を置く。
(な、何てことをわたしに告白するのよ!)
 乃愛のあからさまな態度に、叶都は目を大きく見開いたがすぐに笑みを浮かべて見上げてきた。
「それを知った親父に彼女たちは辞めさせられた。俺のカテキョに、どうして乃愛が選ばれたと思う? 親父の部下の娘なら……きっと俺に手を出したりしないだろうと思ったのさ」
「わ、わたしは、叶都に手を出したりしないわ! それに、その言い方は変よ! 普通は女子が使う言葉でしょ! 男に手を出されたって」
「わかってないな、乃愛は」
 これだからお子様は――と言うように小さく頭を振ると、叶都はいきなり立ち上がった。そして、乃愛の方へ近づいてくる。
(叶都って、本当に中学生!? どうして誘惑するような目を向けることができるのよ!)
 真っ直ぐ見つめてくるその強い眼差しに恐れを感じると、乃愛は自然と後ろへ下がった。叶都が一歩近づくたびに一歩足を退く。
 叶都との距離を保って後ろに下がっていたのに、いきなり腰に何かが触れた。急いで振り返ると、そこにはチェストがあった。もう後ろへ逃げることはできない。
「女だけが男に誘惑されるなんて、本気で思ってるんだ? 男だって、女に誘惑されるんだぜ」
 耳元で声が聞こえた瞬間、乃愛は面を上げた。既に、叶都が目の前に立っていた。
「でも、わたしは誘惑したりしない! どうして叶都を誘惑する必要があるのよ!」
「う〜ん。俺の側にいる女は、必ず俺に惚れる……から?」
「自意識過剰! 自惚れ過ぎ!」
 叶都の側から離れようと、彼の胸元を押し返す。
 だが、その両手首を叶都が掴む。
「あっ!」
 1階で手を掴まれて2階へ上がった時は深く考えなかった。
 でも、今は全く違った。キスをされただの、童貞を奪われただの……と聞いた後では、彼を意識せずにはいられない。
 叶都の手は大きく、乃愛の手首をすっぽりと包み込んでいる。乃愛は、華奢な女の子になったように感じてしまった。
「ちょ、ちょっと……ヤダ……」
「本当? 俺、自惚れてる?」
 叶都は、いきなり乃愛に顔を近づけてきた。
(ひゃぁ〜! 何? ヤダ……、これはどういうこと?)

2010/12/30
  

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