第二章『華の蜜に誘われて』【1】

―――乃愛、高校3年の11月。
 
 
 携帯の液晶画面に映し出された、同級生の冨永哲誠の名前と携帯番号をジッと眺める。
 
『俺たち、付き合ってどれくらい経ってると思う? もう7ヶ月って知ってた? なのにさ、乃愛はキスと触ることは許してくれたけど、えっちは許してくれなかった……。俺、もう限界。乃愛とこれからもやっていく自信なくなった』
 
 今年の4月に告白されてから付き合っていた哲誠に、こうやって乃愛はほんの数分前にフラれた。
「つまり、哲誠はわたしとヤりたかったから付き合ってきたってこと!? 酷ッ! そんな男と今まで付き合ってきたなんて……わたしの時間を返せ! そもそもさ、わたしをその気にさせられなかった哲誠にも責任あるじゃん」
 そう言いながらも、乃愛にも罪悪感があった。
 哲誠と遊ぶことは楽しかったけど、処女を捨ててもいい、身を投げ出したい……と思えなかったからだ。
 嘆息しながら、窓から見える鉛色の空へと視線を向ける。
 紅葉の季節も終わり、木枯らし第1号が数日前に天気予報で発表されてから、一段と寒さを感じるようになってきた。
 2階の自室から見える庭の木も風で揺れ、窓ガラスもガタガタ鳴り響いている。
「ああ〜あ。まるでわたしの心みたい」
 まだ誰かを愛したことがないなんて、友達にも言えない。人を愛するという感情が欠けているのかと思うと、自然と乃愛はため息をついた。
「いいもん! いつの日か、絶対身を投げ出してもいいって男の人が、わたしの前に現われるんだから!」
 悔やむことなく、哲誠のアドレスをメモリから消去する。
「よし。これで、いい。うん!」
 昨日、書店で買ったファッション雑誌を手にすると、乃愛は自室を後にして階下へ向かった。
 
 
 昼食の後片づけを終えて、キッチンでお菓子作りをしている母。和室で新聞を広げている父。そんな両親を横目で見ながら、乃愛は3人掛け用のソファに俯せになった。
 母が乃愛のためにアップルジュースを入れて、テーブルに置いてくれる。それが何の前振りか知る由もなく、「ありがとう」と言ってまた雑誌に視線を落とした。
 それからどれぐらい時間が経ったのだろうか。
 ジュースを飲み干し、空になったグラスをテーブルに置いて、再び雑誌に視線を落とした時だった。
「乃愛、頼む。父さんの願いを聞いてくれないか!」
「えっ?」
 いつの間に和室からリビングへ来たのだろう。今まで乃愛に頼み事をしたことがない父が、1人掛け用ソファに座って乃愛を見つめている。
 ソファに寝転がっていた乃愛は、見ていた雑誌を閉じると身を起こし、父に向き直った。
「何? どうかした?」
「お前、暇だよな? バイトもせずに暇だよな?」
 その言葉にムッとして、乃愛は唇を尖らせた。
「だって、入学したら勉強で忙しくなるから、この数ヶ月は遊んでもいいって……お父さんが言ったんでしょ?」
 乃愛は、既にネイルコースが充実している美容専門学校への入学が決まっていた。友達たちは受験勉強に時間を取られているので、誰も乃愛と遊んではくれない。
 時間潰しにバイトでも始めようかと思っていたけど、父の言葉に甘えて毎日好き勝手に過ごしていた。
(もしかして、わたしのだらしない姿に呆れたとか? こんなぐーたらな娘を、家では見たくない!≠ニか? でも、お父さんが遊んでいいって言ったのに!)
 文句を言いたくなって、息を吸いながら父を見る。
 すると、汗をかくほど暑いわけでもないのに、父は額に脂汗を滲ませながら乃愛を見つめていた。
 乃愛と視線が絡まると、少し目を泳がせるものの、意を決するように勢いよく顎を突き出すて面を上げる。
「確かにそう言ったが。なあ、乃愛。……週2回のバイトをしないか?」
「えっ! もしかして……お父さんのところのサロンで!?」
 目を輝かせながら、乃愛は身を乗り出した。
 乃愛がネイリストになりたいと思ったのは、父の仕事の影響だった。父は、エステサロンを経営する会社に勤めている。
 乃愛がまだ中学生だった頃、創立記念パーティーが催され、家族揃って出席したことがあった。
 その時、会場内に設置された小さなブースで、社員がネイルを施す姿を見た。
 棚に並べられたグラデーションに輝くマネキュア。ライトに反射して煌めく魔法のストーン。
 おずおずと前に進み出て、お姉さんに可愛らしいピンク色をベースに塗ってもらい、小さな小花を描いてもらった。
 魔法のように作り上げていくアートの世界に、乃愛は瞬く間に魅了された。
 それからというもの、乃愛も同じネイルアートの道へ進み、父と同じ会社へ就職したいと思うようになったのだ。
「バカか、お前は。何の技術もない乃愛が、いきなりサロンで働けるわけがないだろ! 父さんが言ってるのは、中学生の家庭教師をしないかってことだ」
 その言葉に、乃愛はガックリと肩を落とした。
(そうだよね……。父の会社のサロンは、18歳未満は雇わないって知ってるのに)
「っで、どうしてわたしが家庭教師? 勉強、……そんなにできないって知ってるのに」
 特に成績が悪いというわけではないが、人に教えるほど頭がいいとも言えない。親だから当然そのことを知っているのに、どうして乃愛に頼むのだろうか?
「家庭教師とは名目上で、実際は……お守りになると思う」
「はあ? 中学生を相手にお守り? お父さん、わたしをバカにしているの?」
 呆れたように口を大きく開く。そんな乃愛を見ながら、父が力なく頭を振る。
「上司の息子さんが、今中学3年生なんだ。頭はいいんだが、ちょっと素行が悪いらしい。そこで、お前に家庭教師として家に来てくれないかと言われたんだ。勉強は問題ないらしいから、できれば生活面の教師となって欲しいと」
「わたしに!?」
 乃愛は、怪訝そうに顔を顰める。
 中学生の問題児といって乃愛の脳裏に浮かぶのは、当然金髪のヤンキー姿。学ランの前は既に開いていて、その胸元にはじゃらじゃらとペンダントをぶら下げており、首を傾けながらああ!?≠ニ尻上がりになる言葉を投げつけると、耳朶のピアスがキラッと光るそんな姿。
 正直、そんな人とは関わり合いになりたくない。
(わたしの夢を応援してくれるお父さんの頼みなら、断りたくないけど……やっぱり無理。ごめんね、お父さん)
 乃愛が断ろうとしたのを察したのだろうか?
 父が、慌てて口を挟む。
「ああ、そうだった! 実はな、先方はお前が父さんの働く会社に入りたいということを知ってる。会社の人事にも影響力を持つ新堂さんと縁を持つのは、お前にもいいと思うんだが……」
人事にも影響力を持つ新堂さん≠ニいう言葉に、乃愛の心の秤は、一瞬にして拒否から承諾の方へガクッと下がった。
 耳に沿うよう、片手をピシッと真上に上げる。
「行く! 行きます! 相手は中学3年生でしょ? まだ、たったの15歳じゃん。大丈夫、やれる! このご時世、やっぱり縁故も必要だしね。お父さん、わたしに任せて!」
 こうして、乃愛は新堂家に通うことになった。
 まさか、その家に行って初めて自分から恋しい≠ニいう想いを抱くとは思わずに……

2010/10/15
  

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