第一章『愛を忘れられないまま』【4】

「お待たせいたしました」
 やはり、2年ぶりの再会に動揺を隠せない。お皿を持つ乃愛の手が、勝手に震え出す。一度トレーに置き直し、一瞬強く握り拳を作って緊張を解した。
(こんなことで緊張していたら、ダメ!)
 軽く深呼吸を繰り返して気持ちを落ちつかせると、注文の品を訊いてそれぞれの前にカップケーキを載せたお皿や、ベーグルサンドを置く。
「ごゆっくりどうぞ」
 この場から早く逃げようと、足を後ろに引いた時だった。
「ねえ、噂を聞いたんだけど……この店では無料でネイルをしてくれる人がいるの? それはもしかして、……あなた?」
 叶都の隣に座る女子高生が、乃愛に笑顔を向けて話しかけてきた。ストレートの長い髪を耳にかけ、大きな瞳でこちらを見上げるその仕草は、乃愛から見てもとても可愛い。
「……はい、わたしです」
「やっぱり! 見かけない店員がいたから、噂の人はあなたじゃないかって思ったのよ。後輩から聞いててね、是非来てみたいって思っていたの。ねえ、わたしにもしてもらえる?」
 叶都に見られているのを意識しながら、乃愛は唾をゴクッと飲み込んだ。
「店が混み合っていなければ……。わたしは、ジェルネイルではなくマニキュアをさせてもらっています。でも、こちらではマニキュアは用意していませんので、使い慣れたものを持ってきてくれますか?」
「ええ、わかったわ。他に何かある?」
「ネイルは無料ですが、必ずワンドリンクとパイやケーキを注文して下さいね。ネイルだけを目的にされた場合は、ご遠慮しておりますので」
 
 
「男性にもするのか?」
 
 
 男性の声が、いきなり乃愛たちの会話に割って入ってきた。その声に、乃愛の背筋に甘い電流がビリビリと走る。
 当然、全く馴染みのない低い声だった。
 でも、何度か想像したことがある。叶都がさらに成長し、もう少し低い声になったら、背筋がゾクゾクとするような……とてもセクシーな声になるだろうと。
 想像していた声が、今まさに乃愛に襲いかかってきた。
 視線を目の前の女性から隣の叶都へ移すと、乃愛の目を見つめながら、彼はもう一度同じことを訊いてきた。
 叶都に、話しかけられている……
 ただそれだけで、乃愛の喉元の脈がピクピクと跳ね上がった。
「叶都! まさか、あなたもネイルに興味を持ったの?」
「さっき、男性の手を握っていたよな?」
 隣の女性の言葉を無視して、叶都は乃愛へ問いかける。
 男性にはしないと言いたかった。ネイルは、女性だけにしていると。
 でも、それは無理だった。乃愛が奥園の手を握っていたところを、叶都は既に見ているのだから。
「ネイルというより、凝りを解したり血流をよくしたりするマッサージです」
「では、俺のを頼む」
 目を大きく見開きながら、乃愛は大きく息を吸い込んだ。
(わたしに、叶都の手を握れと言うの!?)
「あの……今は、その……忙しくしているので」
「そうは見えないが?」
 彼の視線の先を目で追い、慌てて後ろを振り返る。
 乃愛が望んでいたような客の姿は、カウンターにはなかった。楽しそうに立ち話をしている夏海と奥園が、そこにいるだけ。
 もう、腹をくくるしかない。
 この席には叶都の友達がいるので、余計な話をすることもないだろう。両手を合わせて約六分。あっという間に、時間は過ぎる。
(少し我慢したら、すぐ終わるんだから。乃愛、頑張りなさい!)
「叶都、いったいどうしちゃったの? わたしがこの話を教室でした時は、全然興味なさそうだったのに」
 隣の女性が話しかけても、叶都は乃愛だけを見つめている。
「……わかりました」
 観念するしかなかった。運良く、叶都の隣のボックス席が空いてる。隣に移動してもらえば、彼女たちの前でマッサージができるだろう。
 そう伝えようとした時、叶都がいきなり席を立った。
「外はいい風が吹いている。向こうのウッドデッキでしてもらおう」
「そ、それは!」
 ふたりきりにはなりたくない。だから拒もうと思ったのに、叶都は有無を言わせないと伝えるように、鋭い視線を送ってきた。
「じゃ、わたしも一緒に……」
「梢(こずえ)はここにいろ」
 乃愛は、叶都の隣にいる女性が梢という名前だと知った。名前で呼び合うことから、叶都の彼女だろう。
(わたしに酷い言葉を投げつけられたあの後……、叶都は新しい恋に出会えたんだね)
 本当なら喜んでいいはずなのに、何故か胸がムカムカして仕方ない。
 叶都を捨てた乃愛よりも、彼が先に前を向いて幸せを見つけたから? 身を切るような苦しみを味わって叶都と別れたのに、叶都は乃愛の気持ちを知ろうとはしなかったから?
(バカ! それを望んだのは、このわたしでしょ! なのに、どうしてそのことで文句を言いたくなるのよ)
 その思いを脳裏から振り払うと、既にウッドデッキへ続くドアで待っている叶都の方へ視線を向けた。
 ふたりにしか見えない立ち入り禁止を意味するトラテープを持ち上げ、乃愛と叶都だけが知る蜜華≠ヨ誘っているように見える。
 叶都の方へ一歩、さらにまた一歩と踏み出す。
 その度に、幸せだった頃の記憶がどんどん蘇ってくる。
 拒むべきだとわかっている。幸せだった頃を思い出しても、結局は別れることになったあの日に行き着くだけだから。
 にもかかわらず、乃愛は叶都に逆らうことができなかった。叶都がトラテープを持ち上げて誘うその蜜華≠ヨ、乃愛は自ら足を一歩踏み入れていた。
 
 
 それは、乃愛と叶都が出会った2年前のことだった。

2010/10/11
  

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