彼は、わたしが彼を愛してなかった事を、知っている。
当然よ……だって、わたしが彼のお兄さんを好きだったのを、彼は知ってるんだもの。
でも、彼は知らない。
わたしが、いつの間にか、彼だけを愛してしまってるって事を……
秘書室には、千佳(ちか)一人だけしか残っていなかった。
一人きりだからと安心したせいか……、 いろんな思いに囚われて呆然とし、キーボードの上で手が止まってる事にさえ、全く気付かなかった。
そして彼……上司でもある水嶋優貴(ゆうき)が、後ろに立っている事も。
「千佳、終わったか?」
千佳は、その低い声にビクッとし、驚いて振り返ると、そこには優貴がいた。
彼が千佳と呼ぶ時……わたしを部下としてみていない証拠だった。
周囲に人がいる時は、必ず千佳の事を、鈴木と呼ぶからだ。
18歳で、水嶋グループの本社に入社出来たのは、資格が優位になったせいだと思う。
貧しい千佳の家庭は、大学へ行く余裕など全くなかった。
だからこそ、千佳は就職に向けて、資格をたくさん取得したのだ。
バイトをたくさんかけもちしてまで。
その努力は、報われた。
四大卒であっても、この本社で働けるのは、ごく限られた優秀な人材だけ。
その中に、わたしは滑り込む事が出来たのだ。
しかも、 本社勤務に加えて、グレードの高い部署・秘書室勤務という場に……
入社して間もない頃、千佳は見込みのない男性に、恋をしてしまった。
それは、たった一言交わした言葉のせいだった。
『君が高卒で入社してきた鈴木さん? 君の資格取得を見て驚いたよ。その技量、ここではとても活かせると思う。頑張ってくれ』
女子社員には、めったに声をかけない事で有名な御曹司・水嶋一貴に、千佳は声をかけられたのだ。
しかも、高卒に過ぎない女子社員に。
男性と付き合った事のない、興味をもたれた事もない千佳にとって、その言葉は千佳を恋へと導いた。
今まで、この資格の事で褒められた事がなかったし、あの有能な御曹司に名前を知られているとわかっただけで、千佳はポーとなってしまったのだ。
それ以来、廊下ですれ違うだけで、千佳の目は御曹司に釘付けだった。
他の男性には目が入らない程、千佳は恋に落ちてしまっていた。
だから……わたしを見つめてる男性がいるなんて、知る筈もなかった。
見下ろす優貴を、千佳は見上げた。
「お仕事は……?」
震える声を抑えられなかった。
その声を聞いて、優貴が顔を強ばらせる。
「もう終わった。もう20時過ぎてる。行くぞ」
その命令口調に、千佳は小さな声で
「はい」
と言うと、立ち上がった。
20時……、もうすぐ御曹司が出勤してくる時間だった。
優貴は、わたしが御曹司と会う危険性を、侵したくないって思ってる。
気付かないの?
わたしが、もう御曹司を好きじゃないって事を。
優貴を、愛してしまってるって事を……。
言える筈がない……。彼は、次男とはいえ、御曹司の弟だ。
彼がわたしを求めるのは……ほんのお遊びだ。
わたしは美人でもなければ、可愛くもない。
なぜ、優貴がわたしを求めるのかわからない。
豊満な肉体を持ってるわけではない。
はっきり言って、凹凸のないこの貧弱な躰が、優貴を惹きつけてるとは思えない。
わたしが自慢できるのは、たった一つ……この染めた事のない、長い黒髪だけ。
しかも、その自慢の髪は、貧乏だから手に入れられた。
というのは……美容院でのカット&カラー代を節約し、そのお金を学費にまわさなければならなかったからだ。
そう……わたしには、この髪以外……何も自慢出来るものなどない。
なのに、どうして優貴はわたしに執着するのだろう?
でもその執着が、千佳にとっては嬉しかった。
……嬉しいからこそ、彼の望むとおりに振る舞おうと思うのだ。
しかし、いつの日か捨てられると思うだけで、声が震えてしまう。
震えを止めようとすればする程、逆に震えてしまうのだった 。
優貴が声をかけてくる日は、いつも決まっていた。
御曹司が、会社へ出勤してくる日。
なぜなら他の日は、優貴は殆ど残業をしてるからだ。
でも、御曹司が出勤する日だけは、仕事を早く片づけて、こうしてわたしを外へ連れ出す。
20歳になった今、25歳の優貴とのこの関係は、告白されて以来……もう1年半も続いていた。
「千佳……っく」
優貴が、激しく突き上げてくる。
「っあ……っんん!」
千佳は、優貴を抱きしめて、その激しい欲望を必死に受け止めた。
優貴の大きく熱をもった自身が、千佳の膣(なか)を掻き乱す。
微妙な腰使いに、千佳の躰はガクガクしていた。
「ぁうっ……っんん、あ……ダメ……ゆう、きっ!」
優貴の背に思い切り爪をたてた。
火のついた甘美な電流が、躰を駆け巡った。
千佳の躰が、ビクンビクンと痙攣した。
その後を追うように、優貴は数回奥まで突き上げると、背を反らせて呻いた。
そして、千佳の華奢な躰の上に、脱力した逞しい躰を押しつけた。
二人は荒い息をしたまま、そのままの状態で抱き合っていた。
千佳は天井を見ながら、いつもと同じように、意識を過去へ飛ばした。
優貴に告白された時、最初は断った。
もちろん、好きな人がいるからと。
優貴は、その事を承知した上で付き合って欲しいと言った。
そして、千佳が誰を好きなのかも知っていると。
それでも、千佳は何度も断った。
でも優貴は諦めなかった。
そう……結局、わたしは優貴と付き合う事に決めたんだ。
でも、それはプラトニックな関係だった。
細身の千佳を太らそうと、優貴は何度も食事に誘った。
そのうち、千佳は御曹司への恋が、恋に恋していただけだと、はっきりわかった。
そして、社員に好かれてる優貴の人柄に惹かれるうち、優貴への想いが、本当の恋だとわかった。
まるで、目から鱗が落ちたようだった。
そんな時、そのプラトニックな関係は見事崩れ落ちた。
兄を尊敬するような気分で、御曹司を見つめるわたしの顔を見た優貴が、怒りを表わしたからだ。
千佳は、目を瞑り、ラブホの華美な天井から、視界を遮った。
優貴は、怒り狂い……わたしを無理やりラブホに連れて行くと、優しさのカケラもない乱暴さで、わたしの処女を奪った。
わたしが処女だと知った優貴は、驚き、当惑し、そして自分を罵った。
何度も謝り、そして次は優しく抱いた。
あんな風に奪われた時、怒るべきだった。
でも、打ちのめされた優貴の姿を見た途端、彼への愛情が爆発した。
そう、優貴への愛情が勝ったのだ。
千佳は、汗で湿った優貴の髪を撫でた。
そう、わたしは優貴を愛してる。
なのに……どうしてこんなに心が離れてると感じるんだろう?
優貴は、初めてわたしを抱いた日から、愛想のよかった表情が……一瞬で無表情に変わった。嫌われたと思った。
だけど、それからも優貴はわたしを夕食に誘い、そしてその後は必ずラブホに連れて行っては……わたしを何度も抱いた。
愛情を感じるのは、抱かれている時に感じる、その優しさだけ。
その後は、壁を作って冷たくなり……そっけなくなってしまう。
わたしがいけないんだろうか?
愛してると告げないのが、優貴にこういう態度をとらせてるんだろうか?
躰は、優貴に開拓され……彼の愛撫に応えるようになってしまった。
彼にしか、もう触れられたくない。
そう思う程、愛してしまった。
でも、怖い……
もし、愛を告げて彼に笑われたら?
これは遊びなんだから、真剣になられたら困ると言われたら?
ダメ……言えない、嘲笑されたら、わたしは優貴の下で働けない!
思いに囚われていた為、閉じた瞼から涙が流れているのを、千佳は全く気付かなかった。