「俺のことが……嫌い?」
乃愛は、とんでもないと伝えるように激しく頭を振る。
「そんなことはないわ! 奥園さんは、こんなわたしにもとっても優しくしてくれるし、周囲に気を配れる素敵な方だもの。だけど、わたしは……」
もう一度頭を振り、彼とは付き合うつもりはないと伝える。
「ごめんなさい。……本当にごめんなさい」
「乃愛ちゃん。もしかして、過去に……辛い恋をした?」
ずばり言い当てられたことに驚愕し、乃愛は目を見開いて奥園を見つめ返した。
「やっぱりそうだったか……。だけど、過去に捕らわれていたら前へ進めないよ。ゆっくりでいいから、俺の方へ一歩踏み出してみないか?」
奥園は、とても優しい。乃愛がネイリストの資格を持っているのに、何故美容サロンで働かず、カフェでバイトをしているのか訊こうともしなかった。
そんな彼となら、一歩踏み出してもいいかもしれない。
叶都への想いが、もう乃愛の心の中になければ……
自分の心の声を訊くように閉じていた瞼をゆっくり開け、奥園の目を真っ直ぐに見つめる。
「ごめんなさい。奥園さんの気持ちは本当に嬉しいわ。でも、わたし……今はまだ誰とも恋をしたくないの」
その時だった。
「乃愛!」
とうとう痺れを切らしたのか、夏海がカウンターから声をかけた。
振り返れば、城聖学院の生徒たちが列を作っている。
(早く、夏海の元へ行って手伝わなきゃ!)
客から、乃愛の手首を掴む奥園へ視線を戻す。
だけど、何か引っかかるものがあった。
理由もわからず、乃愛は再び振り返ってカウンターの方へ視線を向けた。
いつもの日常がそこにあるだけで、特に変わった様子は見られない。
列に並ぶ学生たちは、ショーケースにあるベーグルやカップケーキを見て、何を買おうか楽しそうに話をしている。
それも、毎日見られる光景だった。
でも、たったひとりだけ……乃愛を静かに見つめる男子学生がいた。
彼は眼鏡をかけてはいるけれど、整った顔だちであることは遠目からでも一目でわかった。髪は、少し短めのウルフカット。ほかの男子学生とあまり変わらないのに、妙に物腰が落ちついているせいで大人びて見える。
面識もないその彼が、何故か乃愛に目を向けてくる。
(どうして……そんな風にわたしをジッと見つめるの?)
戸惑いを覚えながらも、乃愛は奥園へ視線を向けた。
「乃愛ちゃん……」
「ごめんなさい、本当にお付き合いはできません。わたし……まだ昔の恋を引きずって、」
そこまで言ってから、乃愛はハッと息を呑んだ。
目を大きく見開きながら、勢いよく振り返る。
城聖学院の男子生徒のひとりが、まだ乃愛を見つめていた。
今ではその目は細められており、眼鏡越しでも冷酷な闇がその瞳に宿っているのがわかった。
乃愛の躯が、勝手にガクガクと震え始める。
(まさか……そんな! 嘘、でしょ!?)
「乃愛ちゃん?」
奥園の声が聞こえると、乃愛は急いで彼の手を振り払って彼を見つめ返した。握られていた手首の痛みを拭い去るように、両手を胸の前でしっかり握り締める。
「ご、ご、ごめんな、さい」
突然のことに、乃愛の声まで震える。
奥園の目を見て謝っているのに、乃愛の意識はカウンターにいる男子生徒へと向けられていた。
(ああ、確かめるのが怖い!)
露になった首筋の産毛が総毛立ち、妙な違和感が乃愛を襲ってくる。それぐらい、先程まで感じなかった視線を強く感じていた。
乃愛は逃げ出したかった。2年前、嫌悪を隠そうとはせずに、乃愛の前から去っていった彼のように。
だけど、そうすることはできない。
意を決し、乃愛はゆっくり振り返った。まだ、こちらを見続ける男子生徒。彼の瞳を見て、乃愛はその場で顔を覆いたくなった。
(どうして、わたしはあの一途な瞳を忘れていたの? 彼は……わたしが捨てた叶都本人なのに!)
すぐに叶都だとわからなかったのは、当然のことだった。
乃愛が知ってる叶都は、反抗期真っ盛りの男だったからだ。ワックスで髪の毛を無造作に立たせたり、服装も着崩したりして、ひと目で素行が悪いとわかる男子生徒。
でも、今……乃愛の視界に入る叶都は、そんな頃があったとは考えられないほど真面目な青年に見える。
当時はかけていなかった眼鏡をしているからだろうか?
この2年で身長もかなり伸び、乃愛が見上げてしまうぐらい背があるように見える。
制服を着ていなかったら、乃愛よりも年上に見られてしまうぐらいに、叶都は精悍な男性へと変貌を遂げていた。
(まさか、叶都がここまで変わっているなんて……)
しばらく立ち尽くして叶都を見つめ返していたが、乃愛はゆっくり視線を逸らせた。奥園が「乃愛ちゃん」と呼びかけても振り返らず、カウンターへ歩き出す。
夏海が忙しくしているのに、乃愛が休んでいいはずがない。自分は雇われている身なのだから。
無表情を装いながら、叶都の側を通り抜け、夏海の隣へ向かった。
「ご、ごめんね。今、手伝うから」
まだ叶都に見られているかもしれない――と思うだけで、乃愛は狼狽して吃ってしまった。
だが、夏海は乃愛の態度がおかしいとは気付かず、そっと側に近寄って囁く。
「せっかく奥園さんと話をしていたのに。本当にごめんね」
「ううん、大丈夫よ」
小さく頭を振って、問題ないと伝える。それを証明するように、順番に並んだ伝票を手に取った。
客は夏海に任せて、乃愛は注文が入ったカップケキーキにホイップクリームを載せた。また、トマトを使ったケッカソースを取り出してブルスケッタを作る。
飲み物は夏海が用意をして先に客に手渡してくれているけれど、作り終えたカップケキーキなどを持って各テーブルに回らなければならない。
(叶都の座るテーブルには、番号札は置いていませんように……)
トレーに注文の品を乗せると、乃愛は客席へ視線を向けた。
店員にわかるように置いてある番号札を見ながら、順番にテーブルを回ってはお皿を置くという動作を繰り返す。
最後は、店内奥の席を陣取っている城聖学院の男女4人組の席へ向かう。
そこの席に座る人物のひとりが、叶都だった。