―――プロローグ。
初めて心から男性を好きになったのは、
最初の出会いは強烈で、振り回されてばかりだったけど、いつの間にか彼を愛し始めていたから。
叶都以外の男性を好きになることは、この先はもうないだろう――と思うぐらい、身も心も彼に捧げていた。
ただ、好きな人を愛しただけ。
にもかかわらず、突然二人の関係を終わらせなければならない事情ができてしまった。
心の中で涙を流しながら、本当の気持ちを胸の奥に押し隠し、叶都に酷い言葉を投げつけて別れを告げた。
あんなにも愛してくれた叶都の表情が、どんどん醜く歪んでいく。
それを見ているだけで心が痛み、胸が張り裂けそうだった。
いったい何があったのか、どうしても言えなかった。
そうしなければ、里井家はめちゃくちゃにされていただろうから……
* * * * *
梅雨明け宣言を受けて、喜ぶように鳴く蝉の声。
耳ざわりな音を聞いているだけで、今年も暑い夏になるのだろうと簡単に予想することができた。
ウッドデッキにはまだ爽やかな風が流れてくるので、それほど蒸し暑くは感じない。
それでも、日よけスクリーンにかからないテーブルに行けば、強い日射しが降り注ぎ、白い肌がジリジリと傷む。
ネイリストの資格を持つ20歳の里井乃愛(さといのあ)は、目の上に手を翳すと、カフェの前にある公園通りの桜並木へ視線を向けた。
その桜並木は、毎年春の日射しを浴びて壮大に咲き誇り、フラワーゲートとなって行き交う人々の目を楽しませているらしい。
残念ながら、乃愛がこのカフェでバイトをするようになったのはまだ三週間足らず。
「来年は、その光景を眺めることができるのかな……。でも、春は……叶都を酷く裏切った季節」
恋人だった叶都に別れを告げて、今年3度目の春を迎えた。あれから2年以上も経つのに、まだ叶都を完全に心からふっ切ることはできない。
新緑に茂る桜の樹を見ながら、乃愛は肩を落として小さく吐息をついた。
しばらくその場で佇んでいたが、手に持っていたダスターをトレーに置くと、強く頭を振る。
「ダメダメ! いつまでもこんなんじゃ!」
毛先をふんわりさせるためにパーマをかけたショートカットの髪が、乃愛の頬を優しく嬲る。グロスを塗った唇に一筋の髪が付くと、すぐに人差し指でそれを払った。
(諦めなさい……。もうどうにもならないって、わかってるんだから)
すぐにトレーを手に持ち、客のいないウッドデッキに背を向けると、乃愛は過去を振り払うようにして店内に戻った。
ここベーカリーカフェル=リオン≠ヘ、高校時代からの親友伊村夏海(いむらなつみ)の母が、オーナーと職人を兼任しながら切り盛りしている。
短大を卒業した一人娘の夏海も、今は社員としてオーナーの元で働いていた。
一方、今年の春に美容専門学校を卒業した乃愛は、就職活動もせず、どこのネイルサロンでも働こうとしなかった。
数ヶ月ぶらぶらしていた乃愛を心配し、夏海がバイトをしないかと誘ってくれたのが3週間前のこと。
「お疲れさま」
カフェ内を取り仕切っている夏海が、カウンター式のガラスショーケースの向こうから声をかけてくる。乃愛は軽く頷くと、汚れた食器をそのまま彼女に渡した。
後ろを振り返ると、コーヒーにベーグルやブルスケッタ、ホイップクリームを載せたカップケーキを楽しむサラリーマンや大学生が座っている。
あと30分もすれば、お腹を空かせた近所の高校生も下校途中に寄ってくるだろう。
「本当、いい場所よね。近くには高校も大学もあるから、お客の出入りもあるし。なんといっても、全然騒がしくないもの!」
「それに、乃愛のその制服にそそられて来てくれるお客さんもいるしね」
夏海は笑いながら、カフェのテーブルクロスと同じ鮮やかな水色の制服を指す。大腿が見え隠れするミニスカートは、確かに客を喜ばせているようだった。
でも、スーツ型の制服は夏海も着ているし、彼女のスカート丈も乃愛と大して変わらない。
「わたしだけじゃなくて、夏海もね」
ニヤッと笑みを浮かべて、夏海に流し目を送る。
「あっ、言ったな!」
夏海がクスクス笑うと、乃愛も一緒に肩を揺らしながら楽しそうに笑った。
「焼き上がったわよ」
オーナーの声に、乃愛と夏海はすぐにおしゃべりを止めた。振り返って、トレーを受け取ると仕事を始めた。
既に粗熱が取れたマフィンやマドレーヌ、ベーグルやカップケーキを専用のトレーに移すと、焼き立て表示のラベルを置いてショーケースに並べた。
さらに新しいホイップクリームも受け取り、調理台の下にある冷蔵庫にそれを置く。
ひととおり仕事を終えると、再び夏海が口を開いた。
「でもね、乃愛がここで働いてくれるようになってからというもの、お客が増えたのも事実よ。乃愛にネイルを頼むお客も増えたしね。母と言っていたの。どうせなら、乃愛のために専用のブースを設けてもいいわねって」
ズキッと走る胸の痛みに、乃愛は顔を顰めた。
愛していた叶都と別れたあの日に、乃愛はネイリストへの夢を絶った。そのことを言われると、自然と当時のことが浮かんでしまう。
申し訳ないけど――と伝えるように、乃愛は力なく頭を振った。
「わたし、仕方なく美容専門学校へ行ったの。昔はネイリストになりたかったけど……」
肩を落とし、長いため息をつく。
「ごめんね。まだ、自分が何をしたいのかわからない。だから、オーナーに迷惑をかけたくないの。今は、こうやって雇ってもらえるだけで十分よ。ありがとね、夏海」
そんな乃愛に、夏海が優しく肩を抱き締める。
「まだ……彼のことが忘れられないんだね。胸を隠すほど長かったストレートの髪を切ってから二年も経つのに、まだショートのままだもの」
乃愛は、確かめるように髪に手を伸ばした。
(叶都が好きだった長い髪を切って、今も伸ばそうとしないのは、わたしが彼にしたことを忘れないためかも知れない)
乃愛は、夏海の肩にしな垂れかかった。
「……前に進まなきゃいけないのにね」
「うん。そろそろ前を向いて、新しい恋を始めてもいい頃だよ。あっ、ほら来た!」
思わせぶりに、肘で乃愛を突く夏海。彼女の視線の先へ目を向けると、清々しい表情で笑顔を向けてくる奥薗遼平がそこにいた。
「やあ!」
「いらっしゃいませ」
二十六歳の奥薗は、輸入雑貨店の営業本部で働いている。
カフェをオープンする前、開店の噂を聞きつけた奥園がオーナーに雑貨を売り込みに来たらしい。
奥園の真摯な態度や人柄に惚れ込んだオーナーが、彼の会社から食器やナプキンといったものを仕入れるようになった。
そんな奥園とは、乃愛がカフェで働き始めたその日に初めて会った。
今までは、仕事も兼ねて月二回の割合でカフェに通っていたらしい。けれど、乃愛と会って以来、彼は一日置きに通うようになったという。
それもあり、乃愛は頻繁に彼と会うようになっていた。
「奥園さん、いつもの?」
わざとらしく奥のスタッフルームに引っ込んだ夏海に代わって、乃愛が接客する。
「ああ。奥に座ってるから持ってきてくれるかい?」
いつものように代金を置くと、彼はそのまま奥の席へ向かった。