大学の謝恩会後や仕事でなら、ホテルのバーへ来たことがある。
だが、麻衣子は二十九歳だというのに、男性と二人きりでホテルのバーへ来たことは一度もなかった。
しかも、一緒に来ている相手があの理崎課長だとは……
十九階にあるパブレストランで食事を済ませたあと、理崎は麻衣子を同階にあるバーへ誘った。そこにはカップルシートがあって、素敵な夜景を見られるようになっている。
店内は込んでいて殆どの席が埋まっていたが、夜景を楽しめるカップルシートだけが空いていた。
そういう場所は、早い時間に埋まってしまいそうな気がする。
嫌な予感を覚えつつ案内役のボーイに従うと、案の定は麻衣子たちをそのカップルシートに案内した。
ボーイがテーブルの上に置いてあったプラスチックの何かを手に取る前に、麻衣子は目ざとくそれに目を向ける。
a reserved seat
理崎にも聞こえるぐらいにハッと息を呑み、すぐに彼の方へ視線を向けた。理崎は麻衣子をチラッと視線を向けることもなく、ソファに腰を下ろす。
理崎は予約をしていたということ? 今夜の為に!?
カップルシートとは言っても、一人掛けソファになっている。そのことに安堵しながら、麻衣子も彼に続いて空いた席に腰を下ろした。
「カナッペの盛り合わせとシュリンプカクテル。俺はアルマニャックのロックで。君は?」
「えっ、え〜と……ピンクレディを。アルコール度数低めでお願いします」
麻衣子がカクテルの名前を言った途端、テーブルの上に置いていた理崎の人差し指が動いた。その場で、テーブルを二回叩く。
その指に、当然麻衣子の視線が向いた。
「しばらくお待ち下さいませ」
ボーイが下がった途端、麻衣子の躯は硬直し始めた。
食事中も会話らしい会話をしなかった。その空気に耐えられず、無理に今後のことを訊こうとした麻衣子だったが、理崎は鋭い視線を向けた。
今は、何も話すなと……
そして、今も彼は口を開こうとはしない。
もし男性に慣れていたら……、これが仕事だったら、難なく対処ができるのに。
もしかして、これは理崎流のテストなのだろうか? 麻衣子がメディアチームに入った場合、こうして男性記者と二人っきりになっても対処出来るのかと?
こうしてはいられない!
麻衣子はソファに座りながらも居住まいを正し、理崎の方へ躯ごと向ける。途端、彼が大きなため息を一つ吐き出した。
その呆れたようなため息に、麻衣子は顔を真っ赤にした。
今、ため息を吐いた! わたしが何をしたって言うの? ――息を吸って言い返そうとした時、ボーイが近付いてきた。
慌てて言葉を飲み込み、膝の上で握りこぶしを強く作った。
「お待たせいたしました」
テーブルの真ん中にシュリンプカクテルを置き、続けて白い皿を置いた。
そこには、トマト・ニンニク・ハーブなどがトッピングされた、一口サイズのチーズやサラミのほかに、生ハムとカナッペが載っている。
理崎の前にはブランデーのロック、麻衣子の前にはカクテルグラスが置かれた。赤い色をしたそのカクテルの美しさに、彼女はうっとりと魅入る。
大人の女性が、三角のグラスを持って赤い液体を口に含む光景が、麻衣子の脳裏に浮かんだ。それがどんなに素敵に見えるか、彼女はもちろん知っていた。
女らしく見えない麻衣子でも、これを手にしていいれば、少しは女らしい雰囲気を味わうことができる。
ただ意外とアルコール度数が高いので、この日も度数を低くしてもらうようにした。
当然、上司の前で酔っぱらうわけにはいかないからだ。
しかも、メディアチームへ行けるかどうか、まだ彼の答えを聞いていないので、記憶を失う危険性を冒すことはできない。
理崎が、グラスを傾けてブランデーを一口飲む。匂いからブランデーだとわかるが、注文する時に彼が言ったアルマニャック≠ニは何かわからなかった。
インターネットで調べようと頭にインプットさせると、麻衣子もカクテルグラスを持ち上げてそれを一口飲んだ。
注文どおりの度数低め、さらに甘くてとても飲みやすい。
麻衣子は、自然と口元を緩めていた。
「楓……」
「は、はいっ!」
まさか今声を掛けられるとは思っていなかったので、麻衣子は慌ててグラスをテーブルに置き、彼に視線を向けた。
「俺には良くわからない……」
そう言うと、理崎はまたもため息を吐いた。
「何がでしょう」
胸を張り、彼を見据える。企画を却下されさそうになった時、いつも上司に立ち向かってきたように。
「そういうところだ」
「わたしには、課長が何をおっしゃっているのかわかりません」
眉根を寄せて戸惑う麻衣子に、再び理崎が深く長いため息を一つ吐き出す。
「今は、会社ではない。上司でも部下でもない。課長とは呼ぶな」
「そ、そんな……」
上司に向かって課長と呼ぶなと言う彼に向かって、いったい何と呼べばいいのだろう?
理崎が麻衣子をジッと見つめてくる。その強くて真っ直ぐな眼差しに、麻衣子の方から目を伏せてしまった。
いつもの麻衣子なら、決してしないこと。それをさせてしまう力が、理崎にはある。
初めて会った時もそうだった。
命令をすることに慣れているからか、理崎は麻衣子にもそうしてきた。彼に反発したが、結局態度を改めたのは麻衣子の方だった。
大変身を遂げたこの服の下も、あの日と同じような豪華なレース仕立ての下着を身に付けていた。その下着の中で、緊張から乳首が痛いほど尖っている。
理崎は知っているのかも知れない。女から遠ざかるような服装をしながら、何故女っぽい洒落た下着を身に付けていたのかを。
麻衣子の全てを知っているような理崎を、こんな場所で課長≠ニ呼ぶのは確かに不自然だった。
上司に下着姿を見られたと思い出すよりも、普通の男性に偶然見られたと思う方が断然いい。
正確には下着姿を見られたというより、雨で濡れたブラウスが下着に張りついて透けただけだが……
それでは何と呼べばいいのだろう?
「……理崎、さん?」
おずおずと口を開く麻衣子に、理崎は軽く頷いた。
「あぁ、それでいい」
何だか擽ったく思えた。社内報チーム長を名前で呼ぶことは簡単だが、さらにもっと上の人を名前で呼ぶのは初めてだったから。
何と答えたらいいのかわからず、麻衣子は再びカクテルグラスに手を伸ばすと二口飲んだ。
一息ついたところで、意を決して口を開く。
「あの……、それで、わたしはメディアチームへ入ることは可能なんでしょうか? わたしは、課長……いえ、理崎さんから合格点をもらえるんでしょうか?」
課長と言った途端鋭く睨まれた麻衣子は、すかさず言い直した。
「だから、それが良くわからないんだ」
「何がわからないんですか? 理崎さんに言われたとおり女≠ノなってきました」
何度も理崎と名を呼ぶことで、違和感なく話せるようになってきた。
アルコールの力も借りることができたからだろうか?
「じゃ、訊く。楓は……変身しようと思ったら今日のように難なくできたはずだ。だが、入社して以来そうはしなかった。何故だ?」
「そ、それは……」
麻衣子は答えを濁すように、カクテルを飲む。
だが、簡単に理崎の追究から逃れられるはずがない。こちらをまだ見続ける理崎の目が、最後まで聞かせてもらう≠ニ告げている。
麻衣子は彼から逃れるように、一瞬目を逸らせた。
もし、これが最後の面接ならきちんと告げるべきだろうか? あのイヤな出来事のせいだと。
わたしの答え次第で、メディアチームにいけるのかどうかが決まるの?――何度も頭の中で問答を繰り返す。
「俺が思うに……」
麻衣子の答えを訊かずに理崎が話しだしたので、面を上げた。
「楓は、男性恐怖症なのか?」