憤怒を漲らせている卓人を、莉世は呆然と見つめた。
どうしてここに卓人が?
卓人の後ろから、不機嫌な一貴が入ってきた。
莉世は、卓人と一貴の表情を交互見比べた。
二人とも……何だか怖い。
誰一人、口を開かず黙っている。
この状況を何とかしなければと思い、莉世は卓人に笑いかけた。
でも……、少し強ばってしまったが。
「卓人? どうしたの、こんなところにまで来て」
卓人は、自然と莉世の唇に視線を向けた。
瞬間、その目に怒りが燃え上がった。
「何だよ、莉世。その……唇!」
卓人が何を指して言ってるのかわかった。
一貴に……されたキスの痕だ。
チラリと一貴を見ると……何と壁に寄りかかりながら腕を組み、ニヤニヤとしながらこの状況を楽しんでいる。
卓人は、莉世の視線の動きに敏感に反応していた。
「一兄ぃ!」
卓人は、振り向くと一貴に掴みかかった。
「俺言ったよな! 莉世に近づくなって。何で……何で莉世に近づくんだよ。もう、莉世を傷つけないでくれよ」
一貴は、胸元を掴む卓人の手首を捕ると離させた。
「俺は傷つけた覚えはないぞ? まぁ、確かにアレは俺のせいだが」
一貴が自分の唇にあてて、卓人にもわかるように言った。
「ちっくしょうぉ!」
卓人は、一貴の手を振り払った。
莉世は、その二人のやり取りを、オロオロと見てる事しか出来なかった。
「そろそろシスコンは卒業しろ」
卓人はそう言われて頭に血が昇り、一貴を鋭く睨みつけた。
「俺はシスコンじゃない! ただ、俺は莉世が一兄に傷つけられる姿は、もう見たくないから」
一貴は眉間を寄せて卓人を凝視していたが、素早く莉世に視線を向けた。
莉世は、その視線の強さに心臓がドキンと高鳴った。
一貴の……目が、わたしに本当か? と訊いている。
もし、その問いにイエスと言ったらどうなるの?
そんなの、わかりきってる。 その理由を話せと、問いただしてくるに違いない。
だからこそ言えない、絶対言えるわけないじゃない。
莉世は咄嗟に視線を逸らせると、ソファにぐったり凭れた。
「もう、二人とも……こっちへ来て座ったら?」
莉世が言うと、二人とも大人しくソファへ来た。
しかし、一貴が莉世の側へ座ると、向かい側に座った卓人が目をギラギラとさせ、一貴を睨み付けた。
一貴の表情を盗み見ると、彼は余裕綽々と構え、うっすら陰険な笑みさえ浮かべていた。
一貴の手が、莉世の肩を抱いた。
莉世がビクッとすると同時に、卓人が大声を出した。
「莉世から離れろ!」
「何故?」
一貴は冷静に……そして、挑発するように卓人を見つめてる。
「ぅぅっ……ずっと莉世の事無関心だったくせに、こっちに戻ってきたと思ったら、急に莉世と接触しやがって」
莉世の肩を抱いていた一貴の指に、力が入った。
「一兄だって、殆どシスコンじゃないか! 莉世が生まれた頃から知ってるし、ずっと “妹” のように接してきただろ? こうして戻ってきた途端、莉世を以前のように縛りつけようとするなんて……一兄も、シスコンを卒業しろよ。莉世を、もう自由にしてやってくれ」
卓人の言葉が…… “妹” という言葉が、莉世のココロに不安を齎した。
それは、あまりにもわかり過ぎる事実だったからだ。
だが、莉世はその不安を思い切り否定した。
もう、悩まないって決めたじゃない。自分の考えで不幸にならないって……さっき決めたばかりじゃない。
それに……一貴は、絶対遊びでなんかで抱いたりしない。
一貴は、わたしを……女としてちゃんと愛してくれている。そうよね?
莉世は、一貴を見上げた。
「お前も馬鹿だな、卓人。莉世は俺の “妹” じゃないぞ? だから “シスコン” には当てはまらない。それに、俺は莉世を一人の女として見てるからな。……意味わかるか、卓人?」
その時、またもチャイムが鳴った。
一貴は息を大きく吐き出しながら立ち上がると、玄関へ向かった。
「どういういう事、莉世?」
卓人の射るような視線が、莉世に向けられた。
莉世は胸が痛んだが、一貴がそれらしき事をもう卓人に言ってしまった。
はぁ〜と息を吐くと、真っ直ぐ卓人を見た。
「わたし……一貴と付き合う事にした」
「冗談はよせよ!」
卓人は、その言葉を予想していたようであまり驚いていない。
でも、莉世の気持ちを変えさせようと、身を乗り出して真摯な目で見つめてきた。
「冗談じゃないよ、卓人」
「絶対裏切られる。わかってるのか、莉世? 一兄とは11歳も離れてるんだぞ? それに、一兄は御曹司で、俺らの暮らしと全く違うんだ。いつか絶対会社の為に、どこかのお嬢と結婚するんだぞ? その時、捨てられるのは莉世なんだぞ?」
卓人に言われる前から、そんな事はもうわかってた。
わかってるけど、もうこの気持ちは止められない。もう流れに身を任せて……行きつくとこまで行くしかないのだ。
「わかってる……わかってるよ、卓人。でもね、もう駄目なの。もう一貴しか見えないの」
訴える莉世の目に、卓人は苦悩の色を浮かべて顔を背けた。
「莉世の人生だから、俺は莉世にはもう何も言わない。でも、俺はやっぱり一兄との付き合いだけは、賛成出来ない。だから俺……邪魔するから」
「卓人……」
莉世は、ため息をつくしかなかった。
一貴が言うように、卓人は少しばかり……否、かなりシスコンかも知れない。
「届いたぞ」
一貴はピザをガラスのテーブルの上に置くと、蓋を開けた。
そのサイズは……普通のLサイズではなく、LLサイズだった。
それに、ポテトやチキンまである。
「ちょっと一貴、コレ……本当に二人で食べる気だったの?」
一貴は、卓人の皿とグラスを持ってくると、再び莉世の側に座った。
「もちろん。さっきの激しい運動で腹が減ってるしな」
「なっ!」
莉世はその言葉に顔が赤くなり、口をパクパクせずにはいられなかった。
弟の……卓人のいる前で何て事を!
チラリと見ると、卓人も顔を真っ赤にしてる。
やあぁぁ、最悪、最低! 誰が弟にセックスをさっきしてました、なんて言えるって言うの?
莉世は唇をフルフル震わせながらも、怒りをどうにか押え込んだ。
でも、一貴は無視だ、絶対無視!
莉世は、一緒に届いたストレートティーを開けると、卓人のグラスと自分のグラスに注いだ。
一貴が自分のグラスを持ち上げたが、莉世は無視した。
ムッとしたのがわかったが、そんな事より……莉世はもっと恥ずかしい思いをさせられたのだ。
「さぁ、卓人食べよう。一貴の奢りだし」
莉世は、お皿に一切れ載せると食べ始めた。
もくもく食べてると、卓人も手を伸ばした。
一貴の怒りがだんだん激しくなるのが、手に取るようにわかる。
その雰囲気を読んだ卓人は、莉世に声をかけた。
「どうやって、ココに来る事になったわけ?」
莉世は、卓人の平常心を見て、少しホッとして口を開いた。
「別に、来るって決まってたわけじゃなかったの。わたしが書類にサインするのがたくさん残ってるって、言われて……」
そこまで言って、全く書類など見ていないと思い出した。
「えっ?」
莉世はゆっくり一貴を見ると、一貴はワザと視線を逸らしてあらぬ方向を見ている。
そこで、莉世は全てを悟った。
嘘だったんだ。書類があるって言ってわたしを残したのは……嘘だったんだ!
「騙したの? わたしを騙してココへ連れてきたの?」
無視してる事など忘れて、莉世は一貴に詰め寄った。
一貴はため息をつくと、莉世と視線を合わせた。
莉世の “何もかも騙していたのか?” という思いと、傷ついた痛みが目に表れているのを見て、一貴は一瞬で表情を強ばらせた。
そのまま勢いよく立ち上がると、莉世の腕を捕った。
「来い」
莉世は、何も言う事が出来なかった。
「一兄! 莉世をどこへ連れて行くんだよ」
一貴は、卓人をキッと睨み付けた。
「すぐ戻ってくる、そこで大人しく食べてろ」
卓人は、その切羽詰まった一貴を見て、言葉を飲み込んだ。
二人が消えるのを見届けると、卓人はため息をついた。
「はぁ〜、莉世だけの一方通行の想いと思ったけど、意外と一兄本気なんだ。まぁ、そうじゃなけりゃ、付き合うなんてしないか」
ボソリと一人言を言いながら、ピザを再び食べ始めた。
二人の仲は、絶対祝福しないぞ……と思いながら。
一貴は、莉世をベッドルームに押し込んだ。
莉世は一貴を見上げて、震える唇をギュッと噤んだ。
「全て……騙したの? わたしをココに連れてきたのはいったい何故? 愛してるなんて言って、わたしを抱いたのも……全て、全て、」
込み上げる涙を見て、一貴は莉世の頬を掴んだ。
「違う。違う、莉世」
莉世は、潤む目で一貴の真意を計ろうとした。
「俺は、確かにお前を騙した。でも、それはお前と話をする為の手段に過ぎなかった。俺がお前を抱いたのは、ほんの気まぐれじゃない。それはわかってるだろう? お前にもわかるだろう? 俺がそういう男じゃないってわかってる筈だ。そうだろう?」
莉世はしばらく一貴を見つめていたが、ゆっくりコクンと頷いた。
そう……わかってる、一貴がそういう男じゃないって。そういう人じゃないって。
ただ……騙してここへ連れて来られたと知って、もしかしたら全てが嘘で塗り固められた事だったのでは? と思うと、どんどん闇に流されてしまったのだ。
あれだけ一貴を信じると言っていたのに、何とたやすく流れてしまうのだろう。
莉世は、もっと強くなりたいと思った。
一貴に愛されてるという事実に、自信を持てるように……。
莉世は、一貴に抱きついた。
「ごめんね一貴。わたし、一貴の気持ちを疑ったりしちゃいけなかった」
一貴が、ギュッと莉世を抱きしめた。
「そうだ、俺の気持ちを疑うな」
二人はゆっくり離れると、引きつけられるようにキスをした。
甘い……それでいて全てを包み込むようなキス。
莉世は、一貴の舌をすんなり受入れた。
「っんん!」
すると、ハッとして一貴は躰を離した。
「卓人がいるのを忘れてた。ここでセックスしたら……愛し合ったら、卓人に聴かれてしまうぞ? ……聴かれたくないだろ?」
そう言われて、莉世はさっき怒っていた事を思い出した。
「さっきみたいな事、絶対やめて! 卓人の前で、セックスの話は絶対しないで!」
一貴は、縋りつくように言う莉世の目の奥を、ジィーと覗き込んだ。
そして、ため息をつくと冷たい声で言った。
「お前……男心がわかってないんだな」
莉世は、一貴の言ってる事が何のか、全くわからなかった。
どうして、弟にセックスの話をしないで欲しいっていうのが、 “男心” に繋がるのだろう?
「もういい。ほら、さっさと向こうへ行かないと、卓人は俺らが何かしてると思うぞ? それこそ、セックスしてると思うかもな」
莉世はビクッと躰を震わし、一貴の腕を捕ると、ドアへ向かって歩き出した。
「それは絶対駄目!! 卓人はまだ中3なんだよ?」
莉世の言葉を聞いて、一貴が困ったような表情をしたのは、全く気付かなかった。
リビングルームへ入ると、卓人が一人でムシャムシャピザを食べていた。
「あっ、やっと終わった? 一兄、莉世を落ち着かせる事出来たんだ。まぁ、小さい頃から知ってるから出来たのかな」
莉世は、その言葉にムッときた。
こいつぅ〜、やっぱりわたしと一貴との事……認めてくれてない。
これ以上、一貴のピザ食べさせてやるものか!
「ほらっ、卓人帰るよ!」
その言葉に、一貴も卓人も驚いた。
「もう帰るのか?」
眉間に皺を寄せる一貴を見て、莉世はココに居たいと思った。
でも、それは出来ない……自分からはまだ言えない。
「明日も学校だしね」
少し寂しそうに言いながら、莉世はブレザーを羽織った。
「送っていく」
一貴が立ち上がり、携帯とキーを取るのを見て、莉世は頭を振った。
「いいよ、一貴はお酒飲んじゃったし……それに弟でも一応男だから大丈夫」
絶対後には引かないという莉世の気持ちに、一貴は仕方がないっといった感じにため息をついたが、すぐさま携帯から何処かへ電話した。
携帯を切ると、一貴ははっきり言った。
「タクシー呼んだから、それで帰れ。わかったな?」
莉世は、一貴の気持ちを有り難く受け取った。
莉世は卓人と玄関から出ると、振り返り一貴を真剣に見上げた。
「今日はありがとう、一貴。一生……忘れられない日になったよ」
突然、一貴は卓人から見えないようにドアの中へ莉世を引っ張ると、激しく莉世の唇を奪った。
「っんん!」
一貴はゆっくり唇を離すと、同じように莉世を真剣に見つめた。
「……俺の方が、忘れられない日をもらった」
感情をむき出しにした甘い声と、その真摯な目に、莉世のココロが高鳴った。
「そう言ってくれて、嬉しいよ……それじゃ〜また、明日ね」
莉世は、ニコッと微笑んだ。
「あぁ……」
莉世は、後ろ髪引かれる思いで卓人の横へ行くと、エレベーターへ向かった。
莉世のココロは、幸福で満ち足りていた。
これからの、二人の甘い出来事を期待して……