――― カシャ。
大きな音が、部屋に響き渡った。
デジタル時計の日付が、変わったのだ。
とうとう、今日から日本の高等部2年に編入する。
莉世は眠れぬまま、ベッドから何かを探すように、しばらく薄暗い天井を見つめていた。
しかし、いつの間にか……ベットサイドに置いてある写真立ての方へ、視線を向けていた。
真っ暗で見える筈もないのに、そこにソレがあると知っているだけで、 無意識に吸い寄せられる。
莉世の心を奪い、そしてその心を壊したアノ人……。
「かず…き、」
彼の名を口にするだけで、ギュッと締めつけられるような胸の痛みが、容赦なく莉世を襲った。
それは…幾度となく、わたしを襲った苦しみ。
留学中も、確かに痛みはあった。
でも、日本に戻ってきた途端、アノ人と同じ陸続きにいると思うだけで、 引き裂かれるような痛みが絶え間なく襲ってくる。
ほんの子供だったあの頃から、少しずつ大人へと成長したわたしは、 彼が本当の意味でわたしを愛していなかったという事実を、十分過ぎるぐらい理解していた。
……彼は、わたしを【妹】のように可愛がっただけ。
「俺のココ(胸)は、莉世だけのものだよ」 と言った言葉も、幼い女の子に対する優しさから出た言葉。
彼には……一貴には、ココロから愛する人がいたのだから。
一貴の同級生で、とっても綺麗な恋人……響子さんという女性が。
その時、雲の隙間から月が顔を出し、莉世の部屋を急に明るく照らした。
その光は、まるで真実を告げるかのように写真立てに降り注ぎ、莉世の視線を引きつける。
若いながらも、何か悟ったような表情を持つ……精悍で男の魅力を発揮している18歳の一貴と、彼の腕の中にいる7歳の可愛らしい女の子。
咄嗟に布団の中に頭を入れ、瞼をギュッと閉じた。
彼から逃げるように、アノ光景から逃れるように……。
しかし、それはいつもと同じように莉世の脳裏に進入し、否応なくあの光景を映し出す。
まるで、現在(いま)その光景を見ているかのように……。
莉世のココロが悲鳴をあげている……粉々に壊れて欠けたカケラが、躰中を駆け巡っていくのを止める事が出来ない。
イヤ、嫌よ! お願い……もうこれ以上私を苦しめないで。
この記憶を、わたしから消してよ。
幾度となく受けたその苦痛を、再び受け止めた途端、莉世の目から涙が一筋流れ、枕に染みを作った。
それは、今から7年前……一貴が20歳、莉世9歳の時に砕け散った 『ココロノ、カケラ』だった。
* * * * *
「りーせっ! 俺、お前からチョコ欲しいなぁ」
バレンタインデーの日の放課後、甘えるように懇願してきたのは、性別に関係なく学年中の人気者、学級委員の島田直樹(しまだ なおき)。
「やだよ。わたし、あげる人決まってるもん」
委員会を終えた莉世は、赤いランドセルを背負い、笑いながら答えた。
「それに、島田くんは、わたしからもらわなくても、他の女子にいっぱいもらってたからいいじゃない」
島田は、さっきのおちゃらけた様子から、急にジィーと真剣に莉世を見つめた。
「俺さ…いっぱい欲しいんじゃないんだ。“桐谷莉世”から貰うチョコだけが欲しいんだよ」
莉世はその言葉の強さに圧倒されて、しばらく彼を見つめていたが、 プルプルと頭を振った。
「島田くん、ごめん。わたし、本命チョコあげる人は決まってるの。 だから、義理チョコでいいんなら、後で島田くんちに持っていくよ」
「いや、いいよ! 義理なら、俺……いらない!」
島田は苦しそうに吐き捨てると、教室から飛び出して行った。
いつも女子たちが騒いでいた。
「島田くんってカッコいいよねぇ〜!」
「……いったい誰が好きなんだろう?」
「誰だろう? でもさ、島田くんが誰を好きかなんて知りたくないよ。 だってその女子は絶対島田くんの事好きだよ? 島田くんを好きじゃない女子っていないしさ。 っで、その女子が島田くんの事を、『なおきくん』なんて呼んだら、
あたし絶対許せないよ!」
「いや〜、あたしだって絶対許せない。なおきくんだなんて、呼ばせたくないよ!」
「でしょう? だから、島田くんは……今までのままずっと皆のアイドルでいてくれなくちゃね」
莉世は、女子たちの話を聞いてはいたが、賛同はしてなかった。
なぜなら、 彼はいいお友達でしかなかったからだ。
でも、今告白のような言葉を言われて、まさしく自分が彼の好きな女子だと気付かされると、何だかやりきれない気持ちでいっぱいになった。
一貴の事だけを考えていたい……。
莉世は、しばらくその場から動けなかった。
何故か、彼の淋しそうな背が脳裏に焼きついてしまったからだ。
「ただいまー!」
莉世は2階に駆け上がってランドセルを置くと、すぐ階下へ行き、冷蔵庫から昨夜作ったチョコを取り出した。
料理好きな莉世が、たった一人で作ったチョコレート。
一貴は、高校3年の時、アメリカへ留学した。
そして、たった2年で大学を卒業してやっと戻ってきたのだ。
短いようで、長かった2年と少し……。
だから、一貴にチョコをあげるのは数年ぶりの事だった。
そして、初めてあげる手作りチョコ。
莉世は一貴が喜んでくれる姿を思い浮かべると、可愛らしく微笑んだ。
「な〜に? もう一貴くんのところへ行くの?」
その声に振り返ると、キッチンにママが入ってきた。
「ママ!」
しかし、ママの表情は曇っていた。
莉世は首をかしげて、問いかけるようにママを見つめた。
「莉世…ママ心配だわ」
「えっ?」
莉世には、ママが何を言ってるのかわからなかった。
「確かに、莉世にとって一貴くんは大切なお兄さんのような存在だけど、」
莉世は、ママの言葉に叫びたかった。
違う! 一貴は兄じゃない! わたしにとって、大事な…とっても大事な人なんだから。
でも、莉世は唇を噛み締めて、ママを見つめた。
「莉世もわかってると思うけど、一貴くんのお父様とパパはお友達だから こうして仲良くしていただいているの。パパのプログラマーとしての腕を一徳(かずのり)さん……一貴くんのお父様がずっと認めてくれていたしね。
それで、桐谷家と水嶋家は親しくお付き合いしてもらっているの。でもね、一貴くんのお家は、たくさんの傘下を抱える有名な水嶋グループのトップ……経営者なのよ。
わかってるわよね? あちらは、とても大金持ちなの。でも桐谷家は違う、 普通の一般家庭よ。小さい頃なら、まだ可愛らしいですむけど、 もうすぐ莉世も5年生になるのだから、そろそろ分別をわきまえないとね」
莉世は、もう黙っていられなかった。
「ママ、分別をわきまえるって何? わたしは一貴が好きなの、ただそれだけなの。それだけじゃいけないっていうの?」
わかってもらえない悔しさから、莉世の大きな瞳から涙が溢れそうになった。
「あぁ、莉世」
ママは、泣き出しそうな莉世の手をギュッと握った。
「莉世、すごく辛いかも知れないけれど、よくママの話を聞いて。 莉世は他の人に比べて、 早熟だと思うわ。早くに生理が始まったのもその一つよ。それに理解力がいいから、いろんな事を知っているわ。でもね、やっぱり子供なのよ。一貴くんは、未来の水嶋グループの社長よ。
彼には、水嶋グループを支える……素晴らしい女性と結婚しなければいけないわ」
結婚という言葉を聞いて、莉世は胸が痛くなった。
「一貴くんは、莉世と遊んでいる暇はないのよ。それに、今お付き合いしている女性との結婚を考えなきゃいけないの。そんな大事な時に、莉世がお邪魔してはいけないでしょう?」
「うそ!」
莉世は、ママの手を振り払った。
「ママは、一貴がわたしに言った言葉を知らないから、そんな事を言うんでしょう? 一貴は、わたしが一貴のお嫁さんになりたいって言ったら……お嫁さんにしてくれるって言ったもん!
一貴の腕の中は莉世だけのものだよって、言ってくれたもん! 莉世が大きくなるまで 待っててくれる? って聞いたら、待つよって言ってくれたもん! ううっ……ママの、嘘つきぃ!」
莉世は涙を流しながら、玄関から飛び出した。
ママが莉世の名を叫んでいたが、莉世は何も聞きたくないという風に、駅へ走って行った。
陽が落ちて空が真っ暗になった頃、莉世は一貴が一人暮らしをしているマンションのエントランスに立っていた。
頻繁に出入りする莉世と顔見知りとなった警備員が、特別に中へ入れてくれたのだ。
一貴が今マンションに居る事はわかっていた。一貴の黒の外国車が、駐車場に停めてあったのを見てきたからだ。
だけど、莉世は大事なチョコレートを持ってくるのを忘れた。
どうしよう? 一貴、残念がっちゃうよ。取りに帰る?
でも、何故かママが言った話が、頭の中でぐるぐる回って、家には帰れなかった。
莉世は、最上階の12階で降り立った。
いつものように、一貴の部屋、1206号室の前まで来る。
しかし、そこに来て初めてドアが微かに開いているのがわかった。
えっ? いつもなら、ちゃんと閉まってるのに。これじゃ、オートロックの意味がないよ。
暗い表情だった莉世の顔が、少し和んだ。
いつもは、ちゃんとインターホンを鳴らして下まで迎えにきてもらっていたが、 今日は初めて一人でここまで上がってきた。
だから、勝手に部屋へ入っていいのかどうか迷ったが、思い切ってドアを開けた。
「一貴?」
小さな声で囁きながら玄関へ入ると、そこには一貴の靴と、女性のブーツがあった。
ハッとして、咄嗟に奥に目を向けた。
でも、何の音も聞こえてこない。
なぜか、莉世の心臓は早鐘のように、ドクンドクンと響き渡るぐらい高鳴った。
音を立てないように、ゆっくり…ゆっくり…リビングへ向かったが、 そこには誰もいない。
ただ、低いガラステーブルに綺麗なワイングラスが2客と…… 広げられたチョコレートの箱があった。
それを見た瞬間、莉世の目は涙で潤み始めた。
なぜなら、そのチョコレートはとても高級感を漂わせていたからだ。
莉世が、一生懸命作ったチョコとは明らかに違う。
そう、まるで大人と子供の違いのように。
………一貴と莉世の、年の差のように。
そこから逃げるように視線を逸らすと、莉世の目に入ったのは、点々と続く脱ぎ捨てられた服だった。 それは、一貴の寝室へと繋がっている……。
一貴に、約束させられた事を思い出す。
「他の部屋には、好き勝手入ってもいい。だが、俺の寝室だけはダメだ。わかったか? もし、あの部屋に入ったら……その時はもう二度とマンションには入らせないからな」
やだぁ……どうして? どうしてなの?
流れ落ちる涙を拭いながら、莉世の頭はパニックに陥っていた。
莉世は、初潮を迎えた時、ママから全てを教えてもらった。
なぁなぁで教えるのではなく、しっかり教えてくれたのだ。
赤ちゃんを産むために必要な、女性だけの特別な現象。赤ちゃんが生まれてくるには男と女が愛し合い、セックスをして初めて赤ちゃんが出来る可能性があるという事。
だから、莉世も初潮を迎えたからには、きちんと知っておかなくてはいけないと、ママから性教育を受けたのだ。
でも、今思えば、それらを知っていて良かったのかどうかわからない。
今……、繰り広げられているであろう光景が、見る前からわかってしまっているからだ。
嗚咽を押し殺しながら、莉世はゆっくり禁断の部屋へ向かった。
近づくにつれ、微かな物音と吐息が聞こえてくる。
莉世は一瞬瞼を閉じた。
現実から逃げたかったからだ。
でも、嘘は嫌だ。今、今ここで真実を見極めた方がいい。
莉世はギュッと拳を握った。
それは、決意を示していた。
莉世は一歩、また一歩前に進み、高鳴る心臓の音と共に、完全に閉まっていないドアの隙間から、 ゆっくりと寝室を覗いた……