珠里は、再び戻ることになったモデル事務所に向かいながら、過去を思い出していた。
モデルを辞めるきっかけにもなった、陽一の言葉を……
―――珠里、高校一年。
「お前も、好きな男見つけろよ。俺の後ろばかり追いかけずにさ」
陽一のその言葉は、彼の親友でもある水嶋一貴を追いかける幼い少女……桐谷莉世を見てそう思った事だと、珠里がわかるハズもない。
「いいのね? わたしが好きな男性を見つけても」
「もちろん! 俺は、珠里の恋愛を応援するよ。だから、お前も俺の彼女を睨み付けるような事はやめてくれよ? いいな?」
陽一にとって、わたしは妹≠ナしかないのね。
それを悟ったのを機に、珠里はティーンズモデルを辞め、彼への想いを永遠に封印して卒業しようと、前を向いて歩き出した。
「あら、いらっしゃい。よく来てくれたわね、珠里さん!」
「おばさま……お邪魔します」
珠里は、幼稚舎からずっと知り合いで、友達の澤里凛子の家に遊びに来たのだった。
「寂しかったわ、珠里さんったら全然遊びに来てくれないんだもの。……どうせなら、モデルをしている頃に来て欲しかったわ」
今まではモデルの仕事で忙しかった為、足が遠のいていた事を、チクリと嫌味を受けた珠里は、ただ口を閉じて印象良く見せる表情≠作った。
「もう、ママったらやめてよね! 珠里が、こうして来てくれるだけでわたしは嬉しいんだから」
「あらあら……、ママはいつも凛子ちゃんが言っていた事を言っただけなのに」
「はいはい! ほらっ、珠里上に行こう」
珠里はペコッと頭を下げると、凛子の言われるがまま三階へ向かった。
彼女の広い部屋に入ると、やっと肩の力を抜いた。
「ママの事は気にしない。いつもあんな調子なの」
「気にしてないわ」
そう気にしてはいない。モデルとして大人の世界にいれば、そんな事は日常茶飯事にあるから。ただ、……モデルとは関係のない場所で言われるとは思っていなかっただけで。
「ねぇ、次の連休香港に行くんだけど、お土産は何がいい?」
凛子は、テーブルに置いてあったブランド雑誌を取り上げると、珠里の腕を掴んでソファに座らせ、一緒に見られるように雑誌を広げた。
今流行しているブランド品が、ずらりと並んでいる。その中から、買い物するページにはマークをつけているので、凛子の好みが一目でわかった。
どちらかというと、凛子と珠里の好みは違うので、二人が持つブランド品が重なるということがないから……ケンカもせず一緒にいられるなのかも知れない。
「ポーチがいいな。こういう形のやつ。今持っているのはもう汚れてるし」
「わかった。珠里の好きなブランドは知ってるから、新作買ってくるね」
―――♪
突然、部屋に置いてある子機が鳴った。凛子はしぶしぶ立ち上がると、それを取る。
「はい……、えっ? 今!? ……わかった、すぐに行く」
子機を置くと、凛子はすまなそうに顔を顰めながら珠里に謝った。
「ごめん、珠里! 今パパが帰ってきたんだけど、龍也(たつや)も一緒に来てるって言うの。それで、」
「いいから、行っておいで。わたしの事は気にせずに」
「ごめんね。お茶もうすぐ届くから、それ飲みながら待っててくれる?」
今にも飛び出しそうな凛子に頷くと、珠里も立ち上がってドアに向かった。
「先に、洗面所借りるわね」
「えぇ、好き勝手していていいから。じゃ、またあとで!」
そう言うなり、凛子は廊下を走って行った。
そんな姿を見て、珠里は微笑ましく思った。そうやって夢中になれるものがあって、羨ましいなぁとも思ってしまった。
龍也とは凛子のフィアンセ、未来の旦那様だ。家同士の結びつきを強くする為の結婚の約束だったが、凛子は彼を愛している。
珠里自身、親からそういう話を何気なくされた事もあったが、モデルの世界に飛び込んでからは、『結婚は愛する人とする、後ろ楯なんて興味がない』と告げていた。
その為か、その話はもう出なくなった。当時は、それで良かったと思っていた。
でも今は……親が決めた相手でもいいかなと思い始めていた。結局は、陽一とはどうにもならないから。
珠里はそこまで思って、頭を振った。
「陽一の事は、もう考えないんでしょ!」
足を踏み鳴らしたいのを我慢しながら、洗面所へ行くと手を洗った。綺麗に磨かれたアンティークの鏡に自分を映す。
「そう、陽一以外の男性に目を向けるようにするの。きっと、わたしもその人の事を好きになれるわ……」
陽一ほどでなくても……
洗面所を出た瞬間、もう少しで誰かとぶつかりそうになった。
珠里はびっくりしながらも、文句を言おうとして視線を上げたのだが、大きく立ちはだかるようにしてこちらを見下ろすスーツ姿の男性を、ただ目を大きく見開いて見つめ返す事しか出来なかった。
モデルとしても通じるぐらいの長身に、きちんと整えられた眉。その下にある双の目は一重、鼻梁は真っ直ぐで唇は薄く、他人に対してとても冷酷そうに見えた。
でも、全体として観ると、とても誠実そうで頼りがいがあるように思えた。そして、内に秘めた力強さを合わせ持つ、不思議な魅力を醸し出している事も感じ取れた。
「君は誰だい? ……その制服を見る限り、凛子さんの友達?」
「わたしは……珠里。貴方は?」
「サワテックライン社の者で、
犀川は紳士らしく軽く頭を下げると、珠里を特に気にする事もなく背を向けて歩き出した。
モデル時代の癖が抜けきっていないのか、何も反応せずに立ち去る事に、珠里は突然我慢出来なくなった。
「待って!」
珠里が叫ぶと、犀川が足を止めこちらを振り返る。
「何か?」
訝しげにこちらを見つめてくる。後から考えるとそれも当然だが、珠里は陽一以外の男性からも同じことをされたのが悔しく、挑むように一歩踏み出した。
「犀川さんは、結婚されてるの?」
「いいえ」
「恋人は?」
何故、女子高生にこんな質問を受けるのだろう……と躊躇してもいいハズだったが、彼はそんな事は決してしなかった。一人の男≠ニして、珠里の質問に応えてくれた。
「今はいません。それが?」
珠里は、それが嬉しかった。大人の男性が子供に接するようにしなかった事が。
陽一とは大違いだわ!
これが、珠里を動かした。陽一とは違う……という事が、珠里に悦びを齎してくれた。珠里の真っ暗闇の心に、突如蝋燭に火が灯り、少し明るくなったような気さえした。
珠里は、彼の側までゆっくり歩くと真正面で止まった。
「珠里さん?」
「犀川さん、決めたわ。わたしと付き合って」
彼が何かを言う前に、珠里は彼の首に両手を巻きつけると側へ引き寄せキスをした。
珠里の、ファーストキスだった。
いたずらっぽく彼の唇を舌で舐めると、いきなり押しのけられた。
「君はっ! いったい、何て事をっ!」
慌てふためく犀川の表情が、意外にも子供っぽくみえた珠里は、彼の顔から目が離せなくなった。
いきなりの思いつきは無謀だったかも知れない。
でも、仕事の仮面を脱ぎ捨てた犀川を見たら興味が出てきた。彼となら恋が出来ると思った。
「わたしと付き合って下さい。彼氏になって欲しいの。恋愛がしたいの、貴方と」
普通なら「バカな事を言うんじゃない」とか「冗談はよせ」や「ふざけるんじゃない」と言うだろう。
だが、彼は違った。ただ、真剣に見つめる珠里の表情を探るように、ジッと見下ろしていた。
珠里の心の中で灯る蝋燭の隣で、もう一つの蝋燭に火が灯るのを感じだ。
これが、彼……29歳の犀川陽一郎(さいかわよういちろう)との出会いだった。