『ティーンズモデル』

 いったい何て事をしてくれたの、小野寺陽一!
 
 もう随分前に関係を打ち切った、芸能プロダクションの堀ノ内社長と以前珠里のマネージャーだった大北が、再び阿久津邸を訪れていた。
 階下へ来るように言われて、下へ降りてきたのが数十分前の事。
 久しぶりにお世話になった方々との再会に笑みを浮かべたものの、数分後には陽一に対しての怒りが胸に湧き起こっていた。
 ティーンズ雑誌の専属モデルをしていた珠里は、高校へ進学した一年後、契約の更新をせずそのままモデルを辞めた。
 あれ以来、もう二度と社長と会う事はないと思っていた。
 でも、陽一にしてやられた!
 
「珠里の写真がDEEPLY≠フコンセプトと一致する……。そう言って、編集部に気に入られたんだ。珠里が以前専属モデルだった頃の写真も、彼らは既に見ている。どうだ? もう一度モデルの世界に戻らないか?」
「社長……」
 珠里は、助けを求めるように母を見た。
 だが、この件に関しては何も言うつもりはないらしい。しかも、陽一が撮ったという写真を、すごく気に入ったようで、手に持ったままうっとりと眺めている。
「あのDEEPLY≠セぞ? 専属モデルになりたいというモデルは、星の数ほどいる。そんな中、珠里をと望んでくれたんだ。やらないか? 珠里……」
「社長、わたしにはモデルになりたいという希望はないの。そもそも、以前もスカウトで面白そうだな〜っていう半端な気持ちだったし」
 あの頃は、何でも楽しかった。陽一に恋をして、世界は薔薇色で……。
 でも、恋に背を向けてから、モデルの仕事も興味を抱けなくなった。そもそも執着すらしていなかった。
「永続的に……というワケじゃない。このDEEPLY≠セけでもいいから、チャレンジしてみてくれないか?」
 いつも珠里の無理難題を聞いてくれていた社長とマネージャー。
 珠里に頭を下げてまで、その仕事を引受けて欲しい……、もう一度プロダクションに戻って欲しいと請うのは、それほど大きな仕事なのだろう。
 珠里もDEEPLY≠フ雑誌は知っている。大卒から二十代OL向けのファッション雑誌で、大学でも毎月その雑誌を買って見ている学生はいっぱいいた。
 でも、今まで一度もその世界に戻りたいと思った事はなかった。
 どうして? どうして陽一はこんな真似を?
「珠里、実は……」
 申し訳なさそうな社長の声に、珠里は視線を上げた。
「今度その雑誌内の企画で、DEEPLY 次世代の顔を探すべく、大学生を中心とした発掘コンテストが開かれるそうなんだ。自薦他薦問わないらしい。その企画で珠里が、」
「候補にでもなったと? ……つまり、陽一が推薦したと?」
 珠里は、歯の隙間から唸るように言った。
「実際は、小野寺氏が推薦したのではない。小野寺氏に仕事の依頼をしに行った時、偶然に珠里の写真を見つけたそうだ。そして、小野寺氏は……推薦したそうだ。だが、これはあくまで企画……。珠里が引受ければ、そのまま専属モデルの一人として選ばれる。だが、断ればこの企画が通されるかもしれない」
 珠里はいきなり立ち上がると、大きなスライドガラスから入ってくる陽光に向かって歩き出した。
「でも、肖像権の問題があるわ」
「ごめんなさい、ママが陽一さんにOKしちゃったわ」
 初めて母が口を開いた。珠里はクルッと身を翻し、信じられないという表情で母を見る。
「嘘、でしょう?」
「本当よ。だって、陽一さんが撮ってくれた珠里の写真とっても素敵なんだもの! 陽一さんに珠里の成人式のお写真を撮ってもらうことを条件に、サインしちゃったわ」
「ママ! パパや兄さんに、あれほど無闇にサインをしてはいけないって、何度も言われてたでしょ!」
 何か逃げ道はないかと思いながら、息急き切って母に詰め寄った。そのせいで、人前では滅多に使う事のなくなった呼び方を使ってしまったが、珠里はその事に気付く余裕すらなかった。
 それほど、珠里は追いつめられていたからだ。
「でも、相手はあの陽一さんだもの。身構える必要なんて一切ないわ」
 母がニコッと微笑む。
 
 終わった……
 
 阿久津家の弁護士がすぐに呼ばれ、社長が持ってきた契約書に不備はないか確認した上で、珠里と母がサインをした。
 後日、事務所に立ち寄るように言うと、社長たちはそのまま帰って行った。
 応接間に戻ると、弁護士から本人の意志に関係ないサインをしたと申し立てれば、契約を反故に出来ると言われたが、珠里にはもうその意志がなかった。
 迷惑をかけられたのは珠里なのに、陽一に同じような思いをさせたくなかった。
 せっかくプロカメラマンとして活躍し出したこの時期に、陽一を煩わせるような事はしたくない。
(わたしって、何だかんだ言いながらも陽一が第一なのよね。なのに……陽一ってば、わたしの心も知らずに!)
 腹を立てながら自分の部屋に戻ったが、珠里はいつものようにグッと堪えた。
 
『お前がそういう態度に出るのなら、俺は手段を選ばない。それでいいのか?』
 
 あの言葉どおり、手段を選ばなかった……って事ね。
 デート嬢を辞めさせる為だけに、珠里を再びモデルの世界へ連れ戻した。陽一とは切っても切れない世界へ。
 昔の記憶が脳裏に蘇る。
 陽一の将来の夢は、有名なカメラマンになる事。それを聞いた珠里は、大きな声で陽一に撮ってもらえるようなモデルになる≠ニ宣言し、事実ティーンズ雑誌のモデルになった。
(でも、陽一が興味を持っていたのは……わたしではなく、同世代の女子)
 珠里は、柔らかなソファに腰を下ろすと、ドサッと仰向けになった。
「陽一は、何でわたしをモデルの世界へ引っ張ったの? どうして写真なんか撮ったりしたの?」
 母が手に持っていた写真、あれは紛れもなく隠し撮りだった。しかも、その写真を撮られたのは、着ていた服装から推測すると、陽一にマシェリ≠フ前で待ち伏せされていたあの日。
 珠里は、まだ陽一の気持ちがわからなかった。
「わたしがモデルを辞めた時の気持ちを知ってるのに。全部話していたのに……」
 まだ、盲目的に陽一を好きだったあの頃に。
 珠里がモデル時代だった軌跡は、スクラップブックにしてある。全て母が集めたものだけれど。
 でも、それには珠里が陽一を好きだった頃の思い出がいっぱい詰まっている。彼に見られていると思って撮られた写真、ジッと見つめ返すように挑んだ写真が。
「陽一、酷いわ……。またあの世界にわたしを引っ張り入れるなんて」
 覚悟を決めつつも、珠里は決して陽一のいいなりにはならないと自分に言い聞かせた。
 まずはマシェリ≠フ件。陽一は、あの仕事から手を退かせたかった。その為には、彼は手段を選ばなかった。
「それなら、陽一には辞めたと思わせておこう」
 もちろん、今までのようにおおっぴらに出来るようなものではない。
 でも、全て陽一の言いなりなんて……屈したなんて絶対嫌だった。
 急に立ち上がると、珠里は窓辺に歩いてカーテンを開けた。
「見てらっしゃい。わたしを陽一の妹≠ニして、言いなりにさせた事を後悔させてやるわ!」
 決意するように言葉を発した珠里だったが、その瞳にはうっすら涙が浮かんでいた。
 モデルに戻るということで、あの頃の幸せな記憶が……そしてその後の無謀ともいえる行為が蘇ったからかも知れない。

2009/01/13
  

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