開設5周年記念・特別作品(2013年再掲載)
夕食を終えたあと、杏那は本館へ行って女将と会っていた。
明日の朝食の件もそうだったが、本館に取ってある部屋にいなければ、皆と一緒に離れにいると伝えるためだ。
これで、本館へ戻ってきても……戻れなくても一安心だろう。
杏那は静かにため息をつくが、すぐに我が身を両腕で強く抱きしめた。
日中は暖かくなってきたとは言っても、陽が沈むと冷たい外気が肌を刺し、躯の芯まで凍えそうな気がしてくる。
東京で感じるものとは違う、杏那を襲う深々とした冷たいもの。
まるで、これから何かが起こる予兆を示しているみたいだった。
それも全て、エンリケが杏那に告げた言葉のせいかもしれない。
明日、杏那の空いた時間は全て俺に欲しい
杏那はそっと空を見上げ、暗闇に光る幾万の星を見つめた。
エンリケに言われたからというワケではないが、杏那に与えられたこれからの自由時間は、全てエンリケと過ごすために空けている。
でも、そう簡単にはいかないのが運命。
エンリケの傍には、イレーネがいる。
寒さからくる震えではない、また違った震えが杏那を包み込む。
わかっていたことを、今更ぐだぐだと考えるんじゃない!
自分に叱咤すると、杏那は離れの引き戸を開けた。
「失礼します」
玄関に入って靴を脱ぎ面を上げた瞬間、ソファに座ってテレビを見ているミスター・サンチェスが目に飛び込む。
彼が自由に寛いでいるということは、エンリケが自分の時間を楽しんでいるという意味だろう。
たぶん、イレーネと一緒に……
呆然とミスター・サンチェスの横顔を見ていると、彼が急に杏那を振り返った。
『用事はすみましたか?』
『あっ、はい。あの……皆は?』
『二人ともどこかへ行きました。エンリケは温泉が気に入ったのでしょう。たくさんあるので、いろいろ回るんじゃないかな? イレーネは、肌にいい効能がある温泉に入ると言って出ていきました』
肌に……いい、ね。
杏那は肩を竦めながら、ソファに座るミスター・サンチェスに近付く。
『ミスター・サンチェスも、温泉に入りにいけばいいのに』
『確かに美女との混浴は逃せません。是非とも挑戦して帰らなければ』
彼の何気ない言葉に、杏那の心臓がギュッと締まる。
あともう少しでスペインへ帰るとわかっていたはずなのに、改めてそう言われると、焦燥感が半端ない勢いで杏那に襲いかかる。
だが、その件については何も話そうとはせず、杏那はダイニングテーブルにあるお茶に手を伸ばした。
急須に湯を注ぎ、温かい緑茶を湯のみに淹れた。
『杏那、個人的なことを言っていいですか?』
「えっ?」
いきなりそう言われてびっくりしたものの、杏那は素直に頷いた。
すると、ミスター・サンチェスが物柔らかな態度で微笑む。
『あなたは、目に見える物事こそ真実だと思い込んでいる。でも、実際はそうじゃない』
杏那の出方を待つように、そこで口を閉じた。
でも、そうされても全く彼の言うことが理解できない。
杏那が目をぱちくりさせていると、ミスター・サンチェスは満足したように口角を上げた。
『そうやって僕の言葉に耳を傾けてくれて嬉しいよ。……実際、初めて会った時も僕が何か言うと注意を向けてくれた。ああ、杏那はそういう女性だったのかと……さらに好印象を持ったほどだ』
そういう、女性だった?
ミスター・サンチェスの言葉に反応して、杏那の喉の奥がキュッと詰まった。
もしかして、杏那のことをエンリケから聞いていたのだろうか。しかも、訪日する前に。
そうでなければ、初めて会った時に以前よりも好印象を持つなんてあるはずがない。
息を呑む杏那の前で、ミスター・サンチェスは、ひとつ咳払いをした。
何故頬を上気させているのかはわからないが、ミスター・サンチェスの姿から目を逸らせない。
膝の上で軽く指を組んでいる姿から、リラックスしているようにも見えるが、面白がっている風にも見えるからだ。
何を杏那に伝えたいのかわからない。
でも、エンリケの傍にいつもいる彼の言葉を全て聞くべきだと内なる声が囁いてくる。
杏那はその声に耳を傾けてじっとしていると、ミスター・サンチェスがふっと頬を緩めた。
『杏那、人生は正しいことばかりじゃない。ただ正しい道を進むために、表では偽り裏で奔走するということはよくある。それがわかっていても、杏那には心を偽ってほしくない。自分の人生を人に譲るなんてバカげてるよ』
やっぱりミスター・サンチェスが何を言いたいのかよくわからない。
でも、そこからひとつだけわかるのは、とにかく正直になれということ。
例えば、あのストラップにしているブレスレットのこととか……
杏那は奥歯を噛みしめ、彼をまっすぐに見つめ返した。
『ありがとう、ミスター・サンチェス。あなたが帰国しても、その言葉を絶対に忘れない』
彼の表情は読み取れなかったが、杏那はにっこり微笑むと2階へ続く階段に向かった。
『杏那! どこへ行くんだい?』
呼び止められた杏那は足を止め、階段から見下ろす。
『わたしの荷物を取りに行くの。せっかく有名な宿へ来たんだもの。温泉に入らなきゃ』
『……混浴かい?』
ミスター・サンチェスがニヤッと笑い、腰を浮かせる仕草をした。
そんな彼の態度に笑いながら、杏那は頭を振る。
『まさか! わたしはゆっくり女性専用のお風呂に入ります。だって、混浴に入ったら……ミスター・サンチェスと一緒に入ることになるかもしれないもの。それはちょっとね』
『それは残念だ。杏那の素肌を眺めたかったのに』
残念だと言いながら楽しそうに笑うミスター・サンチェスは、さり気なく腕時計に目を落とし、それから再び階上にいる杏那を見上げた。
『杏那。……さっき、エンリケと散策して気付いたんだが、温泉の入り口から右奥の方へ行ったところに龍神の湯≠ニいう変わったお風呂があったよ。少し遠いみたいだけど、のんびりと一人で入れそうだから行ってみたら?』
杏那は、彼の出方を窺うように目を細める。
『もしかして、あとからミスター・サンチェスが入ってくるつもりじゃないでしょうね?』
彼は驚いたように、胸に手を当てた。
『入りたいけど、自分の命が惜しいんでね。僕は混浴の方へ行ってくるよ』
『わかったわ、ありがとう!』
杏那は、ミスター・サンチェスに感謝していた。
離れた場所にあるなら、エンリケとイレーネがお風呂で戯れているのを耳にしなくてすむからだ。
時刻は、もうすぐ22時になろうとしている。
ここにいて、エンリケとイレーネが一緒に揃って貸し切り風呂へ行くのを見送りたくなんかない。
杏那は下着と浴衣を持つと階下へ向かい、ミスター・サンチェスに手を振って外へ出た。
提灯の明かりが浮かぶ神秘的な一本道を、杏那は龍神の湯≠目指して歩いていた。
ミスター・サンチェスが言ったとおり、勧められた温泉は確かに遠い。しかも離れの建物から離れれば離れるほど気温も低くなったように感じてきた。
躯の芯まで冷え込む寒さに身震いし、その場で足を止める。
今はいいが、こんなに寒ければ帰りは湯ざめしてしまうかもしれない。
一瞬、ここで引き返して、どこか近くの温泉に入ろうかと頭をよぎったが、逆に人気のない方がゆったりと寛げるかもしれない。
杏那は再び歩き出し、看板の案内に従って下り坂の先へ進み始めた。
すると、小さいがとても手入れが行き届いているロッジのような建物が目に飛び込んだ。
「素敵……!」
だが、一歩入ったところで……男湯と女湯に分かれていないと気付く。
「まさか、混浴?」
確か、建物の入り口に混浴表記はなかった。つまり週替わりで入れ替えているということなのだろうか。
もし入り口での表記を見ていなければ入らなかったかもしれないが、きちんと確認していた。
杏那は何も心配せず、脱衣所に入った。
その途端、杏那はその壮大な眺めと造りに感嘆の吐息を漏らした。
岩が積み重なった大きな造り、その岩の中央を流れ落ちる微白濁色の湯。
まるで龍が泳いでいるように見える。
しかも、誰も入っていない。
杏那はタオルを取り去るとそれを岩の上に置き、かけ湯をして軽く躯を洗ってから、そっと温泉に身を沈めた。
熱くもなく、ぬるくもなく……とても気持ちいい温度だ。
杏那は瞼を閉じ、自然に肩に胸元にお湯をかけた。
長い髪は捻って櫛で纏めているが、後れ毛が濡れて肌に張りつく。
そんなことを気にもせず、杏那は凝りを感じていた肩を回しながらここの場所を教えてくれたミスター・サンチェスに感謝した。
それにしても、どうしてこんな場所をミスター・サンチェスが知っていたのだろうか。
仲居さんに訊いた?
まさか、そんなハズはない。日本語を話せないし、もし英語で訊いたとしても、詳しく答えられる仲居がいるかどうかもわからないのだから。
それなら、どうして知ったのだろう?
――― カランッ!
突然、後方で手桶が当たったような音が響く。
慌てて音のする方へ振り返るが、そこに立つ人物を見て、杏那の瞳は驚愕に見開かれた。
同時に躯がカーッと熱くなって頬が上気し、さらに湯船から覗く乳首がキュッと硬く尖り、下腹部の奥深い場所に疼きを覚えた。
何故なら、杏那の目の前にエンリケが立っていたからだ。
見事に鍛えられた躯は、杏那でなくても生唾を飲み込むほど逞しい。
しかも彼は、その見事な体躯をタオルで隠そうとはしていなかった。
引き締まった腹部から下へと続く茂みは、まるでその間にある彼のものを象徴するかのようだった。
それを裏切ることなく、彼のものは大きく屹立して天をつくようにそそり立っている。
彼は、それを誇らしく思っているように仁王立ちしながら、杏那を見つめていた。